蝶が舞い、木々や花々が芽吹く春。
例外なく、当然新宿にも春が来たというのに、一人の青年からは季節感が感じられなかった。それは、折原臨也が身に纏っている冬物のコートが原因であった。
「あなた……頭おかしいんじゃないの?」
臨也が仕事から帰ると、彼の秘書である矢霧波江は刺々しい言葉で出迎えた。彼女の言葉はいつだって冬の氷点下だ。
臨也はそれを軽く受け流すと、わざとらしく肩を竦めた。
「とりあえずおかえり位は言って欲しいね。まあ、俺も俺だけど……仕方ないんだよ。今日は池袋に出なきゃいけなかったから」
「池袋と何の関係が?」
波江は纏めた書類をトントンと机の上で整えながら、淡々と問い掛ける。
「ああ、君にはまだ言ってなかったっけ?そう、あれは丁度一年前の今位の時期だったかな……」
コートをハンガーに掛けながら、臨也は昔話を聞かせるように話を切り出した。
◆
「今日は暑いね、シズちゃん。6月中旬並みの気温だってさ。まだ4月なのに」
小綺麗にされたアパートの一室。臨也はまるでそこが自分の家であるかのように寛いでいた。
「……そうだな」
臨也を後ろから抱き締めながら不機嫌そうに応えたのは平和島静雄。
背後から聞こえてきた低い声に、臨也は首だけ後ろを振り返り窺うように静雄を見遣る。
「どうしたの、シズちゃん」
「何が」
「何か機嫌悪い」
「……別に」
ふい、とそっぽを向く静雄はまるで幼い子供のようだ。
「ねえ、何?俺、悪いことした?」
静雄の返答と行動が気に食わないのか、臨也は身体を反転させ静雄と向き合う。白く、細い首を小さく傾げながら。
そんな臨也をじろりと見る静雄。
軈て軽く舌打ちをするとその自分よりも一回りほど小さな身体を抱き締め、呟いた。
「手前、肌露出し過ぎなんだよ」
「…………は?」
臨也はたっぷりと間を開けて、意味が分からない、という風に声を上げた。
「え?っていうかこれただの半袖なんだけど。シズちゃん、頭だけじゃなくて目まで悪くなった?」
肌が露出している。
という静雄の発言には語弊があった。臨也は普通の、極々一般的な半袖を着ているだけなのだ。
「こんな真っ白くて細え腕晒して、他の奴等がよからぬことを考えるかもしんねーだろ。っつか俺以外が臨也の肌を見ることが気に食わねえ」
「多分、よからぬことを考えてるのはシズちゃんだけだと思う」
「…………」
静雄は臨也の言葉にあからさまに眉間に皺を寄せる。沈黙が二人を包む。
その静寂を破ったのは静雄の方だった。
がぶり。
漫画ならそんな効果音が描かれるような、そんな光景。
「…痛っ!?ちょ、シズちゃん!?」
「腕中に歯形つけて半袖なんか着れなくしてやる」
「洒落にならないって!もう!シズちゃん!」
臨也が抗議をしている間にも静雄は柔らかな臨也の腕に噛み付き、綺麗な歯形を残していく。
振りほどこうとしても静雄がそれを許さない。がっちりと腕を掴まれ、ギラつく瞳で臨也を見つめる。その瞳に気圧され、臨也はろくな抵抗が出来なかった。
結局二の腕の辺りから手首にまで歯形をつけられ、臨也の腕は可哀想な程真っ赤になっていた。
「こんな痕つけてたら街歩けねえだろ」
「……信じらんない」
「俺は満足だからこれでいいんだ」
「何もよくない」
「いいんだ」
「よくない」
バチバチ、と火花が散りそうなほど睨み合う。
「これでいいんだ」
「よくない。シズちゃんの馬鹿。単細胞馬鹿」
「……」
「……分かった。臨也、分かった。俺が悪かった」
先に折れたのは静雄。諦めたように笑みを溢す目の前の男に、臨也はぶるっと身震いした。
「そんなによくないなら、今からよくしてやる」
「は?意味が分からない」
「よくシてやるよ、臨也」
静雄はそう告げるなり、どさり、と臨也を床に縫い付けた。
「……ねえ。なんでこうなるのかな。シズちゃんの思考回路は読めないから困っちゃうよね」
そう呟いた彼もまた、諦めたように笑みを溢した。
◆
「……でさあ、結局その日はシズちゃんの歯形で全身真っ赤になっちゃったの。それから半袖着るのは止めたよ。いつどこでシズちゃんが見てるか分からないし」
「あなたもあなただけど、平和島静雄も平和島静雄だわ」
クリップで纏めた書類を臨也に渡しながら、心底呆れたように言う波江。
「否定はしないよ」
臨也はさらりと書類に目を通し、僅かに表情を歪ませた。
「何か問題でもあったかしら?」
「うん、お願いがあるんだけどさ……」
波江は臨也の表情から仕事の話をされるのだと読み込み、軽く身構える。
「背中が痒いんだ。こんな暖かいのにコートなんて着たから汗もが出来ちゃったみたい。薬塗ってくれる?」
「…………あなた、本当に頭おかしいんじゃない?」
はあ、と盛大に吐かれた波江の溜め息は、春の陽気に吸い込まれていった。
20100410
以前のサイトに上げたものです。事情シリーズは何気に気に入っているので。しかしこれは前置きが必要ですよね。きもちわるい静雄がいますって書くべきですよね。