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「#エロ」のBL小説を読む
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漠然と、私は東京で生きて行くものだと思っていた。


華やかな街、溢れているお洒落なもの、音楽、テレビの中のような日常。


東京の大学に行って、沢山の友達を作って、そのまま東京に就職して。


かえりみることのなかった故郷は気付かぬ内に遠ざかり、忙しなく過ぎ去って行く日々に埋もれていった。













「………久しぶり…」



空港を出て真っ先に鼻をくすぐった海の香りに、思わずため息が出た。


約3年ぶりの沖縄だ。


久しぶりの故郷は、相変わらず観光客で賑わってはいるものの 何も変わらない景色と安心感で私を迎えた。


夏も過ぎた今 風はいくらか涼しいようだ。このほどよく暑くほどよくぬるい感じもまた、懐かしい。




「あきら!」


「お母さん」




空港まで迎えに来てくれた母親が、車の傍で手を振る姿を目にとめる。


「おかえり。久しぶりね。」


「何言ってんの。お母さん先週東京に来たじゃん。」


苦笑しながら答えれば、暖かい手に背中をぽんぽんと叩かれる。


「家族とはほんの少し離れてただけで久しぶりになるもんなのよ。さ、乗りなさい」


「………。」




走り出した車が、やがて賑わう街から穏やかな景色へと流れていく。


私の住む街は、沖縄の中心部からは少し離れた静かな所にある。


3年ぶりの景色は、何だかとても眩しかった。















それは二週間前のこと。


勤めている会社で 私は倒れた。


数ヶ月前からまともな休みもなく、体調不良になってもそれを押しての仕事に明け暮れていた結果の過労だった。


数日 検査を兼ねての入院をして直ぐに仕事に復帰するつもりでいたのだが、厳しいドクターストップがかかり 暫くの休暇を余儀無くされた私は、大学卒業以来に沖縄へと帰ってくることにしたのだ。


倒れた時 母親は遥々沖縄から東京へやってきて、心配そうにはしていたものの あれこれと私の世話を焼いて一足先に沖縄へと帰っていた。今日はそれ以来の再会だ。


「そういえばね、裕次郎くんが後で会いに来るって言ってたわよ。」


「裕次郎?」


「あきらが帰省するわよーって言ったら随分喜んでたわ。裕次郎くんとも暫く会ってなかったんでしょ?」


「あいつだけ沖縄出なかったからね…」


「連絡入れてあげなさいよ。」


「分かった」


裕次郎とは小学校からの長い付き合いになる最早幼馴染のようなものだ。自営業の酒屋が近くの商店街にあり、家族ぐるみの顔見知りでお母さんも裕次郎のことはよく知っている。


裕次郎の所属していたテニス部でも私はマネージャーを務め テニス部の面子とは今でも付き合いがあるのだが、殆どのメンバーが沖縄から本土へ出た中 裕次郎だけは沖縄に残り実家を継いだ。


そんなわけで私と同じく東京にいる凛や永四郎とは年に2〜3回会ったりしているけど、暫く沖縄に帰らなかった私は 裕次郎に会うのはやはり3年ぶりだ。


「変わってなさそう…」


「ん?」


「ううん。」


窓から見える海が、太陽を反射してきらきらと輝いていた。






















「うー、なんか埃っぽい」


「一応ちょくちょく掃き出してるんだけどねえ、布団はあっちの部屋から自分で持ってきなさいよ」


「はーい」


3年ぶりの自分の部屋。


上京する時に置いていったものたちは何も変わらずにそのままになっている。


本棚には埃が積もっていなかった。お母さん本当にこまめに掃除してくれてるんだ。


荷物を置いてお昼ご飯を食べに居間へと降りていく。お父さんはまだ仕事。


「お母さん、お昼何……」


「あきら!」


「え、」


そして居間に響き渡った声に目を丸くするまで、それは一瞬だった。


「あきら!みーどぅさーん!!!」


勢いよく抱き付いてきた腕。この無邪気なテンション、子供みたいなはしゃぎ方。




「裕次郎!?」




「よ!おかえり!」


そして驚いて大声をあげた私に にかっと笑ったその顔は、3年前と全く変わらない裕次郎その人の笑顔だった。













「はー本当に吃驚した、来るなら連絡してよ」


「あん!?その言葉そっくりそのまま返すからな!?わんあきらが帰ってくるの聞いたのおばちゃんからさ!」


「はは、ごめん」


全くその通りで言い返す言葉は無い。


「永四郎たちは偶に帰ってくっけどあきらは本当に帰らんあんに、わんと会うのいつぶりよ!」


「私もそれ考えてた、3年ぶりくらいだよね」


「ウワあり得ん!」


ぎゃーぎゃー騒ぎながら話すこのテンション、本当に懐かしい。


毎日一緒に過ごしてた頃は鬱陶しく思う日もあったけど、久しぶりだと楽しい気分になるもんだ。


「……体、壊したって?もう大丈夫なんか?」


そんな裕次郎が不意にトーンを落として呟いた。…あ、心配してくれたんだな…


「うん。ごめんね心配かけて」


「それくらいさせろさ。離れてんだから。」


「…ありがと。」


こっちが照れるような台詞もさらっと言えちゃう裕次郎が本当に変わってなくて。




(帰ってきて良かったな。)




ごく当たり前のようにそう思った自分に、故郷を離れていた時間の長さを実感した。






















「え!あんなとこにコンビニ出来たの!?」


「もう随分前やさ。学校の生徒数も増えたしなー。」


「へー…」


見慣れた中学校への通学路。


田んぼばかりののどかな懐かしい景色の中に、ぽつりぽつりと新しい建物も増えている。


「ここの一本道街灯もなくて暗かっただろ?新しく出来たんだぜ」


「本当だ!うわー大きな変化だね!」


はしゃぐ私に運転席で裕次郎がははっと笑った。「子供みたいやさー」「うるさいな。」


母校へ行こう!と言い出したのは裕次郎だった。


せっかく帰ってきたんだからテニス部を見に行こうと。そしてうちでお昼を一緒に済ませ、裕次郎が車で来てるからとそのまま乗せてくれることになって今に至る。


中学へ通っていた当時、歩くには少し遠い通学路は自転車で通っていた。


夏場は強烈な日差しの中、ひいひい言いながら自転車をこいでいた学校への道を車で向かってるなんて不思議だ。運転する裕次郎の姿を見るのも初めてで、やけに男らしく映る。


(大人になったんだなあ)


裕次郎も、わたしも。


いつの間にか景色を変えていく人の姿。通学路。ありきたりな言葉だけど時間の流れってなんて早いんだろう。


それはとても感慨深く、嬉しく、だけど反面




「……ちょっと寂しい気もするね…。」




裕次郎たちと汗まみれになりながら 自転車を漕いだあの夏の日暮れが脳裏をかすめていく。


「…………。」


「…なんてね。」


思わずしんみりとそんなことを言った自分に苦笑して、もう一度窓の外の懐かしい景色へと視線を戻した。










あの頃私にとってテニス部は青春の代名詞であり、全ての喜びも苦しみも 流す涙と血と汗の味も、全部全部テニス部で教えてもらった。一緒に過ごした部員たちは仲間であり家族だった。……沖縄から暫く離れていただけで思い出は随分遠くなってしまって、久しぶりに行く母校はOBと言うよりもどこか他人になった気さえする。


少しだけ悲しい。あの場所はもう、すっかり知らないテニス部になってるんだ。…なんて、沖縄から離れたのは私の方なのに、それはあまりにも身勝手な言い分かもしれない。


「学校は変わってない……」


校門をくぐって思わず溜息を漏らした。


校舎。植木。校庭の雰囲気と風の匂い。全て全て、あの頃のままだ。だんだんと落ち着かなくなってくる。


「所々新しくなったりはしてるさあ、後で校舎ん中も行くかね。とりあえずテニス部!」


そう言った裕次郎は後部座席に乗せてあったらしいラケットバッグを引きずり出した。当たり前のように背負って歩き出す。


「!?ラケット持ってってどうすんの?今テニス部練習中なんでしょ?」


いくらOBだからってまさか卒業して10年も経つ他人を練習に混ぜてくれるなんてこともないだろう。


驚いた声を上げた私に、裕次郎がにんまりと笑った。


「……!?」


「ま、とりあえず行くさ」


「ちょ…ちょっと、」












「甲斐さんちゃーっす!」


「おーす」


「!??」


そして私は驚きに言葉を失うことになった。


やって来たテニスコート。遠目から眺めるだけかと思いきや裕次郎がさっさと中へ入ってくもんで、一人慌てたら何と裕次郎の姿に気付いた部員たちが次々と頭を下げたのだ。裕次郎も慣れた様子で荷物を片隅へ置いて、突っ立ったままだった私に「ここに荷物置けさー」などと声をかけてくれる。……え、え?


「甲斐さん!」


そして一人の部員が裕次郎のもとへと駆けてきた。


「おう、どこまでやった?」


「アップを一通り終えたとこっす。」


「オッケー。そんじゃレギュラーはメニューA、それ以外はメニューB、1時間したら試合すっから」


「うっす!」


威勢の良い返事を残し颯爽と去っていったその子の姿を茫然と見送れば、裕次郎が「ははっ」と突然笑った。裕次郎へと視線を戻す。


「あいつは部長な。永四郎に比べたらメチャメチャ可愛く見えっけどなあ」


「最近の中学生は素直やさ」と付け足した裕次郎の声を聞きながら 他の部員へ指示を飛ばし始めたその子の様子を視界に留める。なるほど部長……じゃなくて、


「ど…どういうこと?」


「ふふん」


裕次郎はまたもやにんまりと笑った。


「わん、今比嘉中の外部コーチしてんの」


…………。


「…えっ!?」


「驚いた?」


「…コーチ……」


「もう晴美のヤローが異動して随分経つあんに。近年実績もぱっとしなかったけど最近はこいつらもまた頑張ってんさあ。」


それだけ説明すると裕次郎は自分も着替え出す。「そんじゃ適当に日陰に座ってろさー」なんて言って、さっさと部員の群れの中に混じって行った。えっ待って放置なの…


「こらぁー!この間も言うちょったろうが!ちゃんと意識しろさ!」


「はい!!」


裕次郎があっちこっちに怒声を飛ばす様子をぼんやり眺める。部員は30人……いるかいないかだろうか、でも3年生も引退してるだろうこの時期にこれだけ部員がいるということは中々の規模だ。最近頑張ってるという裕次郎の言葉を実感する。


練習を見ている限り中学生たちは本当に素直で、一生懸命だ。裕次郎の指示を一言一句聞き逃すまいとひたむきだ。私たちが現役だった頃から、比嘉のテニス部が栄華を極めたのは実は案外短かった。……今の比嘉中生にとって、裕次郎とはどういう存在なんだろう。


「わ…懐かしい……」


その内練習メニューが見覚えのあるものに変わった。私たちの頃もやっていた練習。


当時から引き継がれているのか、裕次郎が伝授したのかそれは分からない。それでも過酷なこのメニューをただ一生懸命にこなす部員たちの顔は、私たちが現役だった頃と何も変わってない。




( …………。 )




日差しに部員たちの汗が光る。


土埃。しんどくなる程に悲鳴に近くなってくる掛け声。それでもやけに楽しそうなその顔。




( ……変わってない。 )




変わってないんだ。




「そこまで!休憩挟んだらレギュラーは試合すっぞー」


「「「うっす!」」」


やがて基礎トレが締めくくられ部員たちが水場へとなだれ込んでいく。……満身創痍って感じだけどあのまま試合して大丈夫なのかな。思わず心配してしまう程に過酷な練習風景は、それでも10年前もそうだったなあなんてやっぱり懐かしくなって思わず微笑んだ。


「マネージャー」


「はい!」


裕次郎が2人いるマネージャーを呼びつけた。


(マネージャー2人もいるんだ。)


私の時はずっと一人だった。私が引退してもマネージャーは暫く見つからなくて、晴美先生を怖がって全然やってくれる奴がいないんだと当時の後輩が嘆いていたのをよく覚えている。


そんなことを思い出しながら裕次郎たちをぼんやり眺めていたら突然裕次郎が私の方を指さした。カラッと笑った裕次郎に促されるように女子マネ二人がこっちへ走ってくる。……え?


「あの!」


「はっはい、」


緊張したように話しかけてくれた女子マネ二人。つられて私も緊張した声を返してしまった。




「一緒にスコア付けやりませんか!?」




「え、?」


この子たちの口から出てきたのは衝撃のお誘いだった。


「あの、甲斐さんが『あいつも元敏腕マネだから仲間に入れてきて』って」


「!?」


勢いよく裕次郎を振り返る。


裕次郎は悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、『よろしくー』と口をパクパクさせている。ちょっと待って、スコアの付け方なんて、


「一緒にやってくれますか?」


「……!」


不安そうな顔を浮かべる女子マネたち。か、可愛いんだけどこの子たち……


「スコア付けなんて久々すぎて役に立てるか分かんないけど……それでも良ければ」


「やった!ありがとうございます!」


ぱっと笑顔が光る。どうしよう、本当に久々だけど凄くわくわくしてきた。テニスの試合を観るのさえ久しぶりなんだ。


二人の内一人は雑務があるのだろう 部室へと姿を消し、残った2年生マネと試合の準備をする。コートの整備、得点板やタオルの準備………うわ、本当にドキドキする。こんなことやるの引退以来だ。


そのうち裕次郎が近付いてきた。やけに楽しそうな顔をしている。


「いいじゃんあきら違和感ないさあ!」


「お、面白がってるでしょ……」


違和感ないなんて絶対嘘だ、こんな中学生の中に混じってさ。部員たちも流石にちらちらとこっちを気にしている。せいぜい馬鹿にすればいいじゃんなんて気持ちで裕次郎へ突っかかれば、裕次郎からは意味の分からない言葉が返ってきた。


「いや、嬉しい」


「嬉しい?」




「あきらがそこにいると あの頃に戻ったみたいあんに!」




「……!」


はじけんばかりの笑顔に言葉を失った。


何も返せず固まっていれば、「まあでも体調はちゃんと気を付けてろさ。病み上がりなんだから」と、自分の被っていたキャップを私の頭へと乗せて去って行く。


ラケットを片手にコートに立つ姿。部員にちょっかいをかけて文句を言われながらけらけらと笑う懲りない顔。




「あきらがそこにいると あの頃に戻ったみたいあんに!」




(……こっちの台詞だよ…)


遠く過ぎ去ってしまったと思っていた思い出。


もう知らない場所だと思っていた。沖縄を手放した私は、もう他人にされていると思っていた。


まるでアルバムから飛び出してきたような光景に目を細めて、思わず視界が滲みそうになって慌てて帽子のつばを下ろした。



















「ほら、見ろよあきら」


「…………。」


裕次郎が見上げるように指差した壁。


私たちの頃は無かった。恐らく私たちのすぐ下の代が飾り始めたのだろう、全国大会出場を称えるのが最初だったその額縁は、私たちの代を先頭にして10年分の数が並んでいる。


『祝・全国大会初出場 20××年』


全国大会の試合が終わった後に部員全員で撮った集合写真だった。下の代からはそのうち引退式らしき写真になっている。


改めて一番最初の額縁へ視線を戻した。見慣れた顔ぶれ。永四郎、凛、田仁志、知念、裕次郎………そして私。丸々10年前の、中学生の私たちだ。


「……懐かしい……」


今日何度目かの溜息が零れた。


危なっかしかった久しぶりのマネ業も無事に遂行し、裕次郎が「せっかくだから部室も覗いて行けよ」と言ってきたのは部活が終わってからだった。流石に今の部員たちのプライベート空間になっているだろうそこへ行くのは躊躇われたが、「いいから、良いモンあっからよ」と私を半ば無理やり引っ張って来て、部室へ入るなり最初に見せたのがこれだ。


「こんな風に飾ってくれてたんだね…」


「俺、初めてここにコーチに来た日、現役の奴らに本物がいる!って叫ばれたんだぜ。何のことかと思ったさ」


「ほ、ほんもの」


まるで芸能人のような言い方につい噴き出す。


「あいつら曰く俺らは伝説らしいからな。すぐ近くの商店街にいる伝説って面白すぎやっし」


結局堪え切れなくなって思い切り笑い飛ばしながら、やっぱり伝説なんて思われてるんだなあと 先ほどの部員たちの裕次郎へのまなざしを思い出しながら不思議な気持ちになった。……あの頃の私たちだって、今の子たちと変わらないただ一生懸命なだけだったのにね。


「懐かしいのはこれだけじゃないぜあきら」


「え?」


そして今度は裕次郎が棚を漁りだす。何やら乱雑に引っ張り出されたそれは随分ボロボロでみすぼらしい。一つを手に取って私からは驚きの声が出た。


「日誌!!?」


「と、メニュー帳だな。永四郎とあきらで作ったやつ。」


「え……えっ、当時のってこと?10年前の?」


メニュー帳は永四郎が練習メニューを考案していた当時、私と二人でマニュアルとして手書きでまとめたものだ。単に自分たちで活用するためだけに作ったもので 引退後も重宝だと暫く使われていたことも知っていたが、まさか今もあるだなんて誰が思っていただろうか。


開いた日誌やメニュー帳は、流石に内容までは蘇ってこないもののその字体に確かに見覚えがある。日付、欠席者、練習内容、反省点、改善点………『記入者:詩芽あきら』


………本当に、当時の。


「日誌は流石に10年分ここにあるわけじゃないけどな。わったーの代の頃のと近年分くらいか。」


「え、ほんと待って、これ使ってるの!?」


私の声は未だ動揺を隠せない。そんな私を面白がるように裕次郎が笑い声をあげた。それでもその顔にも私と同じように懐かしさが滲んでいる。


「…今のあいつらにとってはさ、あの頃のわったーから学ぼうと必死なんさ。わったーだけじゃなくてその下の後輩たちにもだけどよ」


「………。」


「それって、勿論上手くなりたいとか強くなりたいとかが大前提だけど、それ以上に」


そこで裕次郎が私の手からメニュー帳を引き抜く。そのノートを私たちが写る集合写真へとかざしてみせた。




「 わったーが築いてきたものを守ろうとしてくれてんだなあ 」




「……!」


「伝統なんて言うと堅っ苦しいけどよ」と笑って付け足した。


「練習メニュー、結構懐かしいモンも多かったろ。あれ、別にわんが全部教えたんじゃないんだぜ。あいつらが勝手にこのメニュー帳引っ張り出してきて、わんが来るようなる前から既に取り入れてたんさ」


「…………。」


永四郎と二人、練習が終わってから遅くまでこれを作っていた日々が蘇る。まさにこの部室だった。


10年分の額縁。先頭を張る私たちの『祝・全国大会初出場 20××年』の文字は、どんな想いで後輩たちが書いてくれたのだろう。


今日ひたむきに練習に打ち込んでいた部員たちは、どんな想いと情熱を持って裕次郎の背中を追いかけているのだろう。


それは今この瞬間だけの熱気じゃない。




あの頃から繋がってるんだ。


繋げてくれてるんだ。




変わらないものを、守ってくれてるんだ…




「……あきら?」


裕次郎が驚いたような声を出す。私は慌ててごめんと呟いた。…いつの間にか目に浮かんだそれが、零れそうになっていた。


「ごめん、大丈夫。嬉し泣きっていうか、じんとしちゃったっていうか…」


「…………。」


裕次郎が無言でタオルを差し出してくれた。ありがたく受け取りながら何だか笑ってしまう。…10年前の裕次郎にこんな紳士なところは無かったなあ。


「……私、もうここは知らない場所になってると思ってた。テニス部も、比嘉中も、地元も沖縄も、変わってると思ってた。」




新しく建ったコンビニ。知らない内に出来ていた街灯。


裕次郎は車を運転するようになり、街を少し歩けばどこでも出会っていた同級生たちはもうほとんどいない。


沖縄から離れたのは私の方だった。全く帰って来なかった3年間、家を出たのはそれより更に4年も前。


この沖縄の景色に、私はもう馴染めないんじゃないかとさえ思ったことだってあった。


それでも空港へ降りたった私を出迎えたのは……




「おかえり。」




「おかえり!」





「……私ね、今の仕事続けられるか分からないの」


「!」


「こんなことになっちゃったからね。まあまだ何も決まってないけど」


このまま今の仕事を続けられるのか、辞めなければならないか、これから考えなければならない。


「でも沖縄に帰ることはないなって思ってたの。……帰れないなって思ってた。それこそ10年近く沖縄を離れて、今さら私が当たり前のようにいられる場所はないだろうなって思ってた。これから先もずっと東京で生きていくんだと思ってた。」


かつて大学進学を決める時、私は当たり前のように沖縄を出ることを決めた。それしか自分の中に選択肢はなかった。


そして当たり前のように東京で就職し、そのうち結婚して子供を産んで、ずっとそうやって東京で生きていくと思っていた。


仕事を続けられるか分からなくなった段でさえ、それこそ昨日まで、仕事が変わるとしても同じように東京で探すつもりだったし東京で生活を立て直すつもりだった。


それほどに私の中から沖縄は遠くなっていた。


だけどそんな私を出迎えたのは。


「お母さんにおかえりって言われた瞬間急にきたんだよね。家に帰ってさ、当たり前のように自分の部屋もそのままなんだよね。そんで、裕次郎までおかえりなんて言うじゃん……」


やばい。涙止まらなくなってきちゃった。


「沖縄には私を引き留めるものはもうないはずだったの。みんな変わってると思ってたし私の知らないものだらけだと思ってたのに、」


あの頃私にとってテニス部は青春の代名詞であり、全ての喜びも苦しみも 流す涙と血と汗の味も、全部全部テニス部で教えてもらった。一緒に過ごした部員たちは仲間であり家族だった。


あの頃と全く同じこの場所で、全く同じように汗を流し心身を削り夢を追う部員たちが、あの頃の私たちを、テニス部を追いかけてくれている。守ってくれている。もうここは知らない場所になっただなんて、間違っても言えない。


「……帰ってきて良かった。」


「…………。」


黙って聞いてくれていた裕次郎に泣きながら笑顔を向ける。


「これから本当に帰ってくるかは、まだ分からないけどね。」


でも今、帰ってきて良かった。




思い出だった景色を、取り戻せて良かった。




「…永四郎が帰ってきた時、俺に言ったんさ。」


「…うん?」


裕次郎がぽつりと口を開く。


「『アンタは本当に変わりませんね』って」


「…まあ私も…そう思うけど……」


見た目こそ大人になった。車の運転だってするようになった。それでも私を出迎えてくれた時の裕次郎の笑顔は、どんなに久しぶりだって何も変わらない笑顔だった。


…帰ってきたんだなと、感じさせてくれる笑顔だった。




「わんはずっと此処にいっからよ。」




「!」


「…わんがちゃんと、変わらないものを守っからよ。」


照れ隠しなのか、裕次郎の顔はずっとそっぽを向いている。落ち着かない時もそもそと首の後ろを掻く癖。それも昔と変わらない。




「だからやったーは安心して沖縄に帰ってくればいいさ」




「…………。」


「時々でも、ずっとでも。……どんだけ離れてる時間が空いたって、わんがちゃんと、待ってっから。」


『アンタは本当に変わりませんね。』と言った永四郎の顔が、思い浮かぶ気がした。いつもの呆れた声で、溜息をつきながら、……きっと優しく笑ったに違いない。






「 おかえりって、言ってやっから。 」






「………うん。」


止まりかけていた涙が 一粒だけ零れていった。
























「じゃあなあきら!今度はちゃんと連絡寄越せよ!」


「裕次郎こそたまには東京にも遊び来てよ。」


那覇空港のロビーで、裕次郎はハツラツと手を上げながらそんなことを言った。お母さんが「裕次郎くんまるでお兄ちゃんみたいだね」なんて言っている。いや、どっちかっていうと親戚のおじさんのテンション……


「ぅえー?中学の全国以来行ってないあんに、東京怖いさ…」


「何言ってんの大人になってまで?」


急にびびった顔になった裕次郎がおかしくてつい噴き出す。そう言えば自営業の甲斐家は滅多に旅行にも行かない家だった。遠出に不慣れなのだ。「いいじゃんそのうちおばさん達に親孝行で東京観光でもプレゼントしなよ」と付け足しながら、私は裕次郎が持ってくれていた自分の荷物を受け取る。


「それじゃあ、行くね」


「おう。永四郎たちにもよろしくな。」


沖縄へ帰ってきてからわずか5日間。のんびりだなんて出来たのもつかの間、今日は東京へと戻る日だった。


平日の今日も空港は賑わっている。修学旅行生に紛れないよう移動したロビーの片隅で、私はここまで見送りに来てくれたお母さんと裕次郎にまた暫しの別れを告げた。今度はちゃんと久しぶりにならない内に帰ってくるという約束付きで。


「体にだけは気を付けろよ。今度無理したら強制送還さ」


「いや、裕次郎それほんとただの親戚のおじちゃんだからやめて。」


「せめて兄ちゃんにしろさ!?」


久しぶりだったこの騒がしいやり取りもまた暫く出来なくなるなあ。そんなことを思いながらやいやい二人で言い合っていれば、そばでにこにこ聞いているだけだったお母さんが口を開く。


「いいじゃない、あきらもう、裕次郎くんのとこにお嫁になりに帰ってくれば?」


「「…!!?」」


……突然何を言い出したんだこのおばちゃんは。


「…お母さん、そういうおばさん特有のネタ振るのやめてくれる」


「だってあんた彼氏いないんでしょう〜、裕次郎くんだったらお母さんたちだって気心知れてるし、あんたもこっちに帰ってきてくれるし、お嫁に行っても近所だし、良い事づくしじゃなあい?」


「そんなお買い得物件みたいな…」


「そうさおばちゃん!わんだって相手は選びたいあんに!」


「あんたは一言余計なのよ!」


実の親を前に遠慮ない物言いをした裕次郎を蹴っ飛ばしつつも、でもそうだよなあ、こっちに帰ってきたら出会いを一から探すってしんどいなあなんて真面目に考えてしまったのは内緒だ。


「いいぜあきら、30過ぎても売れ残ってたら考えてやるさ」


「あーっそう!せいぜい私に見合う男に成長しててくださいねー!?」


「一言余計なのはどっちさ…」


裕次郎が「やっぱりこんな気の強い女は持て余すさおばちゃん、」なんて更に余計なことを続けて、「でも既に夫婦漫才みたいよ」と返したお母さんに二人で撃沈したところで空港のアナウンスが流れた。


時間だ。


「じゃあ、また、そのうち。」


「気を付けろよ。」


「うん、ここまで来てくれてありがとう。」


「着いたら連絡ちょうだいね。」


「はいはい」


あんまり律儀に返事をしていると締めどころが分からなくなる。後ろ髪を引かれる前に私は荷物を持ち上げた。


一瞬言葉に迷って、




「……じゃあ、いってきます!」




大きく手を振りあげた。やっぱり ばいばいは違う気がしたから。


「いってらー!」


「いってらっしゃい」


同じように手を振り返した裕次郎とお母さんに、もう一度手をあげてから背中を向ける。


最初に沖縄を出た7年前、ただただ若かった私は、手放すものを顧みたことのなかった私は何て言って出て行ったっけ。そんなのもうすっかり覚えてないけど、「いってきます」という言葉をこんなに嬉しい気持ちで、清々しい気持ちで言ったのは人生初めてな気がした。待っててくれる人がいる場所があることを、ちゃんと実感したのは初めてな気がした。


今度帰ってくる時はちゃんとただいまと言おう。


知らない場所なんかじゃない、遠い場所なんかじゃない、変わらない私の故郷に。


おかえりと言ってくれる大切な人たちに。








END