家賃が安い分少し古いうちのアパートはベランダの仕切りがちょっと浅くて、実は少し乗り出しただけで隣の部屋がよく見える。
学生街の中のアパート、住人も同じ大学の若者ばかりでわざわざ引っ越しの挨拶なんてしない今時、隣の住人と初めて顔を合わせたのはゲリラ豪雨のように急に激しい雨が降った春の始めだった。
「ちょっと!見てないで手伝ってくれる気とかないんすか!」 「おめーの洗濯物だろーがよー」 「先輩がゲームから解放さしてくんないから慌てる羽目になったんじゃん!」
部屋でくつろいでいたところに急に降られて、洗濯物を取り込もうと慌ててベランダへ出たあの日。友達が来ているらしい隣からはずっと賑やかな声は漏れていた。楽しそうだなあなんて思いながらちらりと隣を見たのは本当に何となくで。
「!」
「!」
ばっちり目が合った。
お互い吃驚して、ちょっと固まって、だけどベランダの中まで吹き込む雨にハッと我に返る。まるで示し合わせたように同じ動きをした私たちはやっぱり同時に噴き出して。
「急にやられたっすね」
「!」
濡れた洗濯物を指さして、笑った顔が予想外に人懐っこい。
「あ、うん。ね。」
驚いて上手く返せなかったけど、つられて笑えば 最後にもう一度彼もへらっと笑って部屋へと戻って行った。
恋 雨
「………最悪。」
滴るほどにびしょ濡れの前髪をかき上げて私は自分の部屋の前に立ち尽くした。
鞄の中。服のポケット。くまなく探すも見つからないところで友人からメッセージが届く。『こっちにあったよー!』……バイト先に部屋の鍵、忘れてきた…。
どしゃどしゃと容赦なく降り続ける雨を見上げながら溜息が出る。バイトから上がった時には既に振っていた雨。傘もなく でも帰るだけだからと徒歩10分の道のりを走り抜けてきた。まさか家に入れないなんて誰が予想しただろう。
「仕方ない取りに戻るか〜〜〜」
鍵が無ければ何もかもどうしようもない。傘を手に入れようにもあいにくコンビニよりバイト先の方が近いくらいで、もう一度ずぶ濡れになる覚悟を決めてアパートを出た、
瞬間。
「えっ」
「えっ?」
視界の悪い雨の中急に現れた人影。シンプルなビニール傘。そこから驚いたように声を上げてのぞかせた顔は隣の部屋の彼だった。
とにかく先を急ぎたい私は会釈だけする。脇を通り抜けようして―――
「ちょっ、待って!」
……出来なかった。
「え、」
「いや、え じゃなくて!」
掴まれた腕。驚く間もなく彼の傘が私の頭上に伸びてくる。
「何でそんなずぶ濡れなんすか!つーかこんな中傘無しでどこ行くの!?」
突然の事態に私よりも驚いたような顔をしてる彼を凝視してしまった。……もしかして怒られてる?
「えっと…部屋の鍵……バイト先に忘れちゃって」
「げっマジで!?」
何だか私よりも彼のリアクションの方が忙しない。
(ていうかいつまで、腕、)
一本の傘の下に人ふたり。それは中々に顔が近くてやけに緊張してしまう。
「バイト先どこっすか?」
「S町のレストラン…川沿いの、」
「あーあそこか!近いっちゃ近いな。えーっと…よし。おっけー。分かりました。ちょっとひとまず戻りましょ」
「え?」
しかしそんなのお構いなしというような彼は、何やら一人納得して私の腕を出たばかりのアパートまで引いていった。訳も分からないまま引きずられて行く。
「事情は分かったんでちょっと待っててくれませんか?」
「はあ…」
結局部屋の前まで連れてこられて、彼だけバタバタと自分の部屋へ消える。やがてあまり待たない内に部屋から飛び出してきた時には、手に何やら沢山持っていた。
「これ、使って下さい!」
「えっ」
差し出されたのは大きなバスタオル。
「流石に俺ん家上がってとか言っても嫌だと思うんで、ひとまず拭くだけ拭いて下さいっす!で、俺の傘貸すんでそれさしてって下さい。」
「い、いいの?」
「いや寧ろこれでスルーしたら俺のがどんだけ薄情だっつー…」
そんなわけはない。何せ私たちはただの隣人であって友達でも何でもないのだ。
茫然としながらもありがたくタオルを受け取り体を拭けば、更に思い出したように彼が口を開く。
「あとこれも着てって!流石に寒いでしょ?」
そして渡されたのは彼のものらしきパーカーだった。
確かに雨が土砂降りの6月の今日、肌寒い上に濡れた体はひどく冷えていた。だけど流石にそれは悪い。
「いやいやタオルだけで十分だから!すぐだし」
「駄目っす。はい腕通してくださーい」
「!?」
有無を言わさずパーカーが背中へと掛けられる。必然と背中に彼の腕が回るような姿勢になって、恥ずかしくなった私は慌ててパーカーに腕を通した。
「ほ…ほんとにありがとう…」
「どーいたしまして!」
にかっと笑った顔は春先にベランダで向けられた顔と一緒だ。人懐っこそうだと思ったけどそのイメージに間違いは無かった気がする。
「はい、お礼はそこそこでいいんで冷え切る前に早く行って下さい!」
「は、はい」
ぐいぐいと背中を押されて傘を渡される。
「返すのも今日じゃなくていーすから!帰ったら真っ先に風呂入って下さいねー!」
再び雨の中を走り出せばそんな声が後ろから追いかけてきた。
(お…お母さんみたい…)
ついそんなことを思ってしまって笑いが込み上げる。
香水の移り香だろうか、遥かに自分の体よりも大きいパーカーから香る彼のものらしき匂いに何となく気恥ずかしい気分になりながら、私はバイト先へと急ぐのだった。
数日後。
「とても助かりました。ありがとう。」
「わざわざ洗ってくれたんすか!そんなん良かったのに!」
借りた傘と洗ったパーカーを持って隣の部屋を訪ねた。学校からも帰ってるだろうと狙った夕方の時間。インターホンで「隣の、」と名乗った瞬間もの凄い速さで出て来てくれた。
「そんな訳にはいかないよ。結局濡らしちゃったし。」
「帰ってからすぐ風呂浴びました?風邪とか引かなかったすか?」
「お陰様で!」
「なら良かったっす」
ほっとしたように笑った彼はやっぱり優しい。相変わらずお母さんみたいだけど。…は、言わないけどね。
「てことで、ささやかですがお礼。良かったら食べて下さい。」
「えっ!」
そして忘れない内にと、私は手に持っていた紙袋を手渡す。
「プリン好き?」
「え、はい、好きっす」
「良かった。昨日作ったやつだから今日中くらいには食べて。二つ入ってるから好きにどうぞ」
「!? 手作り!!?」
つい笑ってしまった。この間も思ったけどリアクションがちょっとオーバーじゃない?
「うわ、勿体ねえっす……まじありがとうございます、こんなわざわざ」
「こちらこそです。それじゃあ、これで」
「!」
返すものも返せたし渡すものも渡せた。
自分の部屋へ戻ろうと背を向けたところで――
「あの!」
「!」
呼び止められた。玄関先に立っていた彼が慌てたように外へと出てくる。
「あの、俺、見ての通り一人暮らしなんすけど!」
「?………はい、」
急に何の話?
「あっ!じゃねーや、その前にえーっと、俺、切原赤也っていいます!そこの立海大の2年!」
「!? う、うん」
何やら一人で焦ったように名乗った彼、じゃなくて切原くん。あわあわと身振り手振りまでつく。
「そっちの名前も聞いてもいいっすか!?」
「え?えっと、詩芽です。詩芽あきら。同じ大学の3年」
「やっぱ先輩だった!年下じゃねーなとは思ってたけど」
私も年上じゃないだろうなとは思ってたし、同じ大学だろうことも予想は付いていた。この近隣のアパートは立海大生ばかりだ。……って、それはどうでも良くて。
「あの、それであきらさん、えーっとですね、俺 一人暮らしでー…」
「うん、」
それはさっきも聞いたよ切原くん。
これまでの勢いはどこへやら、妙にそわそわした面持ちで口を開く切原くんに何だかこっちも落ち着かなくなってくる。
「一人で飯とかも、結構寂しいっていうか、……」
「………」
切原くんの目が照れくさそうに宙を泳いだ。……何となく、読めた。けど。
……いやいや切原くん、そんな風にあからさまに照れられたら 私だって伝染するって話……
「つまるところ、」
顔の高さまで上げたプリンの袋。切原くんが伺うようにちらりと顔を覗かせて
「…これ、一緒に食べません?」
(顔赤いの、隠せてないから……)
思わず私も口元が緩んでしまった。どうしよう。ドキっとしちゃった。
「……うん。食べる。」
「!」
(…喜び方が犬っぽい)
満面の笑みを浮かべた素直すぎるリアクション、分かりやすく喜んだ切原くんにまんまと釣られて一緒に照れて。
切原くんは相変わらず律儀にも「安心してください。部屋には誘いません」と気遣ってくれた。
それじゃあと二人で近くの公園まで散歩をして、プリンを食べてのんびりして。何だかんだと部屋に戻った頃にはすっかり日が暮れていた。
( 楽しかった。 )
隣に住んでてもほとんど鉢合わせる機会なんて無かったのに「それじゃ、また!」なんて当たり前のように手を振った切原くんに 私も頬を緩めたまま手を振る。切原くんの言う通り、多分きっとこれっきりじゃない。…ていうか隣だしね。
「……あ!洗濯物取り込んでない!」
切原くんと出かけちゃったまますっかり忘れていた。慌ててベランダへ出る。
「「!」」
………「また」 は予想以上に早かった。
私と同じように洗濯物を取り込み忘れた隣人に笑いが零れる。
「洗濯物、しっけちゃったね」
「あきらさんのせいっすね。」
「何で!?」
「プリンが美味しかったから!」
「八つ当たりだ…」
「ははっ」
お母さん、改めでっかいわんこみたいな切原くんと仲良くなっていくのは これからの話。
END