歩深が放った一言に私は耳を疑った。
「なんて?」
「だーかーらぁ!半分以上食べられちゃったんです〜!先輩から貰ったチョコ!」
「……誰に?」
「赤也に!」
そう言って歩深は拗ねたように口を突き出した。「せっかく先輩の手作りだったのに…」と呟くのは、引退したテニス部の後輩マネージャーだ。
今朝、玄関で朝練終わりの歩深とばったり会った。練習お疲れ様と、クラスにばらまく予定だったブラウニーをいくつかあげたのだ。……それをなんだって?
「何で女子が朝から真っ先にチョコ食ってんだよとか言うから〜あきら先輩からの私への愛だもんて言ったら!はー!?ずりぃ俺まだ貰ってない!…って、奪われちゃいました。」
去年まで貰ってたからって図々しいですよねえ、と最後に呟いて、やっぱり放課後廊下でばったりした歩深は「それじゃあさよなら!」と去っていった。歩深はこれから部活だ。
歩深が去っても私は暫くその場に茫然と固まっていた。食べた?赤也が?……私が作ったチョコを?
「いやそんなことある……?」
まさか誰が予想していたというのか。
意図せずして本命にチョコが行ってしまうだなんて。
「あげるつもり無かったのに……。」
はあ、と私からは大きな溜息がこぼれた。
本当にあげる予定は無かったのだ。本命だ。本命だけど、私は既に引退してほとんど関わりも無くなったただのイチ先輩。校内で男子テニス部の後輩たちとは顔くらい合わせるけれど、幸村たちみたいに頻繁に練習へ顔を出すわけでもなければ連絡さえ豆に取っているわけでもない。バレンタインはテニス部みんなに平等にあげないつもりだった。
赤也とは確かに他の後輩たちの中でも仲の良い方で、そして私はいつしか好きになってしまったけど、どうこうなりたいわけではなかった。だって年下。高等部に上がったらまた一緒に部活をやることにもなる。赤也はそれこそ私とだけ仲が良いわけじゃないし、同じ学年に友達だって多い、すぐに彼女も出来ると思う。このままただの先輩後輩として何事もなかったように卒業して、甘酸っぱい思い出にでもなればいいやと思っていた。
(……まあ、直接あげたわけじゃないし、顔も合わせてないし、思いがけないご褒美ってことで喜んどくか。)
赤也に私のバレンタインが巡ったのは、勿論嬉しい。そりゃ嬉しい。
好きだなんてさらさら告げるつもりのないこの恋に、最後の最後でいい思い出が出来たかな。
………そう思って帰ろうとしたところだったのに。
「俺は今年はチョコ貰えないんすかー?」
「…………。」
私は再び廊下で固まった。
玄関へ向かう途中。そこに立っていたのは紛れもなく赤也本人だった。
「……何してんの?」
「さっき歩深があきら先輩と会ったって言ってたから!待ってれば来るかな〜って」
まだ俺今日貰うもん貰ってないしー?とニコニコ笑う赤也は多分何も深くは考えていなくて、無邪気なその様子に私は内心ほっとした。
「食べたんじゃないの?歩深から貰ったんでしょ。」
「いやほんとそれ!女子の歩深にチョコがあって俺ら男子部員に無いってどゆことっすか!」
「いや、歩深も偶々あげただけだし。もう今日は全部配っちゃったよ。…ていうかほんとにチョコ貰うためだけに待ってたの?」
「待ってました……。」
マジかよ〜!と本気で落ち込む赤也にばか、と呟いて一緒に歩き出す。こういうところがずるいんだよな。みんなに同じだけ愛想を振りまくんだから罪作りな男だ。
「結果食べたんだからそれでいいじゃん。あんただけだよ、部員で私のバレンタイン食べたの。」
「え!先輩たちは!?」
「あ、それはあげたわ。クラス一緒なジャッカルだけだけど。」
「ほらあ!あげてるじゃん!しかもジャッカル先輩…!!」
「いやクラスの男子みんな同じの配ってるから…。」
「俺が食ったのと同じやつ?」
「赤也にあげたわけじゃないけどね?」
なんて、これはちょっと意地っ張りかな。
「俺はちゃんと俺宛てのが欲しかった!毎年楽しみにしてたのにー!」
「他の女子からだって貰ってるんでしょー。」
何だかんだと話していれば3年の玄関へと辿り着いてしまった。2年生はもう一階下だから赤也とはここでばいばいだ。それじゃ、と立ち止まる。
「義理ばっか欲しがってないでちゃんと彼女作んなよ。じゃあね。今日も部活頑張って。」
(……結局最後まで意地張っちゃった。)
苦笑しながらそう言ってその場を離れようとすれば。
「……でも俺は、あきら先輩のだけ食えればいいんだけどな。」
「………え?」
ぽつりと後ろから追いかけてきた声。驚いて振り向けば、
「!」
「言っとくけど、こっちは本気チョコです。」
「……!?」
いつの間にか至近距離まで近付いてきていた赤也。同時に私の手に押し付けられたのは小さな箱。
「歩深の奪って食ったのは、マジで悔しかったからです。…それじゃ!」
それだけ言い捨てて赤也は今度こそ走り去って行く。
私はこの一瞬で何が起きたのかがまるで頭に入ってこない。
「……… 、……え?」
私の手の中にあるのはチョコレート。あきらかに高そうな、たった一粒のプラリネが透明なケースに納まっている。
…………え?
「あ!言い忘れた!」
「!!」
立ち去ったと思った赤也が、ひょっこりと廊下の角から顔を出した。私はチョコを貰ったままの姿勢でその顔を振り向く。
「あきら先輩のチョコ、美味しかったっす!」
「……!」
「……来年こそ俺宛ての…、出来たら本命、待ってます。」
そして最後にぼそっと付け足して。耳まで真っ赤になった顔はばたばたと逃げるように遠ざかっていった。
置いていかれた私は力なくその場にへたり込む。腰が抜けたと気付いたのは随分経ってからだった。
手の中のチョコレートが甘く香る。
あっさり溶け出してしまった、小さな小さな恋心。
「ずっと本命だよ、ばか……。」
真っ赤になった顔を手で隠しながら、誰にともなく呟いた。
時間を忘れるほど、私はしばらくそのチョコレートを大事に大事に見つめていたのだった。
END