Beautiful days | ナノ



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「うぇっくしゅっ!!…あー…」
「きったね!おいシャチ口ぐらい押さえろよ…」
「…あー…喉痛ェー…」
「風邪か。」
「まごうこと無き風邪だな。」
「さびい。ベポ毛皮貸して…」
「むり。」

  夏島の炎天から一気に冬島の極寒へ。長いこの航路では時節に決まりなど存在せず、グランドラインの気候は屈強な大人であっても毟る様にその体力を奪っていく。
  幾ら船内であるとはいえ風邪を引く時は引く。先人の格言じみた言葉は今回、シャチへと惜しみ無く降り注いでしまったのであった。

「…体調管理ぐらい出来無ェのか、おまえは…」

  『ハート』を名乗るのであれば自分の体調は把握しておけ。となんとも辛辣な、診断ともいえぬ診断を下したのはこの潜水艇の船長でもあり船医でもある隈の男であった。呆れた様な溜め息を一つ、じゅびじゅびと鼻を鳴らすシャチに投げ掛け、胡乱な顔を隠そうともしない。

「船内感染起こす前にさっさと治せよ。」
「…うっす…。」

  たった一言の投げやりな注意をぽい、と放って診療は終わりである。医療知識も豊富、己の症状も把握済みなクルーに態々手を出すのも二度手間だ。テメエの面倒ぐらいテメエで看ろ、という真意がその一言のあちこちに散りばめられていた。
  シャチとて船内感染、風邪大流行など勘弁だ。己が原因なんて本当に勘弁願いたい。ならばやることは一つ。

「薬くらさい…」
「シャチさん、声がすごい事になってますね…。」
「うん…」
「お薬、どれを出しましょうか…?」
「熱さましと…咳止めのやつ…」
「これ、とこれですね。…後でお粥か何か持っていきましょうか?お薬だけだと胃が荒れちゃいます。」
「…あんがと。」

  薬飲んで寝る。これに限る。
  重たい体をズルズル引きずる様にして歩いて訪れたのは船長室のすぐ近く、薬品が置かれた部屋である。その扉を開ければ野郎どもとは真逆の優しい労りをくれるいとがいる。『あの事件』で弱り切った体調もようよう回復に至り、今はこうして薬の在庫管理を任されるまでになっていた。

『…仕事を?』
『うん。私が出来る事をしていきたいの…お世話になった皆さんに、それにローにもお返しが出来たらなってずっと思ってて…。』
『…成る程な…』
『掃除とか料理とかも、またやらせて欲しくって。』
『…。』
『ロー、あの、』
『なら…おれと一緒に薬の整理でもするか?』
『くすり…?』

  薬品を扱うには細やかな配慮と専門の知識が必要である。
この男、ここに着目した。
  ひとつ、掃除や料理を任せてしまえ  ば彼女の性格上とても真面目に丁寧にしてくれるだろう。…即ち己と共に過ごす時間が減る、構ってもらえなくなる。
  ひとつ、薬の整理と管理なら仕事と称して差し支えない。大義名分の下誰にも邪魔される事無く一緒に居られる。いとは真剣に己から学ぼうとしてくれるだろう。
  そんな船長の思惑などつゆ知らず、いとは新たなる仕事に精を出していたのであった。

「あれ、キャプテンは…?」
「ベポくんと一緒に進路決めてますよ。…一人で大丈夫ですか?よければお部屋まで一緒に…」
「や、だいじょーぶだいじょーぶ…」
「うーん…」
「そのかわりお粥お願いしてもいーかな。」
「…はい。どうかお大事になさってくださいね。」

  フラフラな己を心配そうに眉を下げたいとの気配りは風邪で弱り切った心に染み渡る。じんわりと温かいものが生まれて、シャチは女の子っていいなあ、おれもカノジョ欲しいなあ…。なんて思いながらその場を後にしたのだった。

「…んー…?」

  ただ気になるといえば自分が去った後、いとが喉を押さえて小首を傾げたぐらいだ。

「今帰った。いと?」
「あ、おかえりなさい。今シャチさんが来てたの。…シャチさんの申請でお薬渡したよ、熱さましと咳止め。」

  シャチと入れ違いで帰ってきたローを出迎え、いとは事のあらましを告げていた。「ああ、来たのか」とごちた男はするりと彼女の隣に戻りさもこれが当然、これが然任という様にいとの腰へと腕を回すのであった。
  …この男、彼女との薬品管理の仕事が出来る様になってからというもの密着してくる癖が日増しに強くなってきている。

「ろ、そこ触っちゃ…ひゃ、」
「いと…。…なァ…キス…」
「…っん…」
「いと、いと…」

  口付けひとつでとろんとした眦のいとに堪らなくなり、己の心はその中心は全て彼女に宿っていると幾重にも想いはせた。上の唇の柔らかさに高鳴りを覚え、下のそれを食めば更に更にと想いは湧き流れる。想いをいとに注ぎたく、ローは熱を孕んだ舌で彼女の上と下を割り始めていく。

「…んんっ、」
「…は…ァ…。いと…?」

  しかし突然に甘露の時間は、彼女がローの胸板を軽く叩いた事で亀裂が入った。いぶかしむ様に顔を覗き込む男は「どうした?」と眉を顰めている。普段、他の者が居なければいとは己を拒む事無くその細い腕を己に回してくれるというのに、と心中は不安で染められていく。まさか、まさか、と瞳に暗がりが差し込み気付けばローはいとを腕の中に閉じ込めてしまっていた。

「…いや、なのか…?…教えて、くれ、いと…」
「…あ、のね、嫌じゃないよ、きす、するの。だからそんな悲しそうにしないで…びっくりさせちゃったね…」
「っ、は…」

  嫌では無い。ローはその言葉に強張っていた体が弛緩して深い息が漏れてしまった。腕はそのままにいとはもぞもぞと身じろぎ、そして喉を摩る。

「…なんだか、喉がいがいが…するのかな…?ちょっと噎せそうになって。」
「の、ど。」
「…んん。…どうだろう…違和感がちょっとある感じで…」

  小首をかしげたままのいとは苦笑いを一度だけしてびっくりさせちゃってごめんねと再びローに告げたのだった。

「風邪…かなぁ…?急に寒くなったから…」
「か、ぜ。」
「…?…どうしたの?ロー…?」

  矢鱈強張った面持ちとなってしまった男をいとは宥める為に、背中に腕を回してとんとんとあやす様に叩いてやるのだった。しかし今だに眉間の皺は取れず、ローは不安を拭おうともしない。

「そんなに心配しなくてもあったかくして寝てればすぐに治るよ。…あ、でも部屋は別の方がいいかな、もし風邪がローに移っちゃったらいけないし…」
「駄目だ…!」
「え、え…?ロー…?」
「…おれが居ない場所で何かあったら、どうする?もし熱が高くなったら、もし…もしも、」

  『あの騒動』の時の様な症状が出てしまえば?思い返すのはそればかりだ。どんどん体温が消えていく最愛のおんな、あの悪夢を再び体験してしまえば今度こそ気が狂う。己が己でなくなる。
  その言葉を声に出す事すら困難で、えもいえぬ感情が渦巻いて止まらない。

「いとはおれが看る。おれは医者だ、自分のおんなを診ない馬鹿がいたら教えてもらいたいぐらいだ。…だから頼むいと、たのむ…」
「…ろ、」

  首筋に顔を埋めたローは全てを恐れる様に、暗い声を落としていた。喉の痛みが膨らんでいくいとはけふ、と咳をしながら、それさえにも怯えるおとこにこのまま症状の悪化を伝えるべきか否か、風邪程度で大げさすぎないか等々を考えながらローの青混じりの黒髪を優しく撫でていたのであった。

 

 


「なおっ、たー!!」

  熱は平温。喉の痛み鼻水無し。天気は上々。
  次の日シャチはものの見事な回復っぷりを披露したのであった。矢張り寝てしまうのが一番、薬もよく効いた。お粥も完食。さあシャチ君の復活だぞヤローども!と意気揚々と朝ご飯を食べに食堂に向かったのである。

「おは、」
「…シャチどんまい。」
「は?」
「おお、シャチ…死ぬなよ、」
「え?」

  食堂がまるで通夜の様な重苦しいどんよりとした空気に包まれていた。そしてその矛先は間違い無く己へと向けられている。足場を奪われてしまった錯覚は肩にぽん、と手を置かれ余計に顕著となる。

「…おまえに非は…多分無い。適切な処置をちゃんと責任持って行った。…運が悪かったと諦めてくれ。」
「…スマン。意味がまるでわかんねー…。」
「直にわかる。…嫌でもな。」

  明日葬儀なんだよ、と言い直してもおかしく無い雰囲気にシャチはたたらを踏んだのであった。何事だ、おれ一体何したの。と迷子になる思考を首を振って払拭しようとした途端、がしり。と肩を鷲掴まれてしまうのだった。

「…アァ…回復したのか…そうか」

  地を這う声、ここに。宿敵をその場に縫い付ける為に絞り出された低音であった。おどろおどろしい声音に振り向きたくとも叶わずシャチは身を硬くする。

「お、おは、おはははは…」
「いい。喋るな…シャチ…。菌を撒き散らすな…目障りだ…」
「あばばばばば…」
「風邪は他人に移すと治る、というが…あれはあながち迷信じゃ無ェんだな…よくわかった…」
「かぜ、うつった、だれに、っすか。」

  そんなの火を見るより明らかだろう。とその場にいたクルーは声に出さずとも一斉に思った。ローの逆鱗に触れる事態はただひとつ。そして普段ローの隣に佇む彼女が居ない事を踏まえれば考えられる答えは、それのみ。

「いとだ。」
「デスヨネ。」
「船内感染は起こすな、と言った筈だ…」
「えー…、そのっすね、」
「…シャチ。」
「ハイ。」

  そのシャチの答えと共に聞こえたのは音叉の、ローの感情をありありと物語る低い音。現れたのは鬼の名前を冠する銀色。
  一同、合掌。

  余談ではあるが、クルーをバラバラにしたこの隈の男はその後いそいそと愛しいおんなの元へととって返し、甲斐甲斐しく世話をしたのだという。

「ほら、あーんしろ。」
「ぇ、あ、私、自分で食べれるから…」
「駄目だ。」

  食事では匙すら持つ事も体に毒だとさせず。

「汗、拭いてやる。」
「…!!」
「ほら、いと…」
「ひ、あ…っ…」
「…っ、く。」

  あちこちを真っ赤にさせたいとに我を忘れそうになりながらも(おれは医者おれは医者)と内心唱えながら清拭し、それはそれは丁寧に着替えまでさせてやったそうだ。


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