Beautiful days | ナノ



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  潜水艇は青が群れ集まった潮路を抜けていく。あの『大騒動』から一夜明けて、固唾を飲み戦々恐々としていたのはハートのクルーその面々であった。沈痛さを隠せずに奥歯を噛み締め、或いは悲痛に瞳を塞ぐのは皆同じ、しかし最期を見届けたシャチとペンギンは殊更に打ちひしがれていたのだった。
  いとの死に目、慟哭の男、ありとあらゆる絶望を押し込めた、あの部屋。
  クルーの中にこの部屋を開ける資格のある者など誰もいない。いると、するのなら。

「…おまえら…どうした…?揃いも揃って…」
「きゃ、」
「きゃぷてん…」
「あれぇ…?」

  絶望の淵から身を投げて、遂に気が触れたのか。口には出さずともそれぞれの顔を見合わせるクルー達に合点がいったのかキャプテンの顔を取り戻した…少なくとも幾分か落ち着いたローがその部屋から出てきたのであった。のたり、と唇を動かし周りを見回す。

「…当面の危機は去った。いとは生きている。」

  その一言で或る者はぽかんと豆鉄砲を食らい、或る者は素っ頓狂な声を漏らしていたのだった。何で?どうして?と無言の問い掛けが膨らんでいく。

「だが暫くは面会謝絶だ。」
「キャプテン、でも、いとちゃん全身滅茶苦茶で…」
「それについてもシャチ、ペンギンおまえらに経緯を説明する。後で全クルーに伝えておけ…騒がしいといとが起きる。」

  酷く穏やかな男の声は扉の向こうに投げかけられて、その部屋はもう絶望が詰まった場所では無くなっていた。
 もうここは元通りの処置室だ。彼女の命が零れて落ちていく場所では無いとローは言い、狂気を含まぬ地に足の付いた声音を保っていた。

「来い。」
「は、はい!」
「…わかりました、みんな取り敢えず解散しといてくれ。」

  そうして呼ばれ入った処置室。二人が見たものは血の気が取り戻されつつあるいとの姿である。ローは今だ安らかに寝息を立てる彼女を起こさない様に静かな声でゆっくりと口を開いたのであった。
いとと自分の内臓を交換した事、二人揃って暫く絶対安静である事etc…。

「…と、いう訳らしい。以上がキャプテンからの説明だ。」
「よ、よかった、」
「いちお、無事なんだな…っ。」

  漸く気が抜け、戦々恐々の空気が溶けていく。溶けた常温の空気に漏れたのはその場のクルー全ての安堵の息と声であり、潜水艇の中でそれは幾重にも折り重なっていった。

  ーーだがここで疑問が、大いなる疑問が残ったままである事を忘れていない者が一人居たのだ。
  
「言いたくないかもしれませんがもはやそんな段階は通り越してます。」
「…は…?」

  キャプテンが全てを話し終えて、クルーに現状が伝わってひと夜明けた潜水艇の書庫。普段から人気の無いこの場所を選んだのはペンギンのローに対しての配慮である。
  珍しくも困惑したローの目の前には真面目くさったペンギンの顔、ドッカリと椅子に座り長丁場になる事を見越しているその眼差し。そしてローが視線を下にずらせばノートとペンが握り締められていた。
  
「何がどうしてこうなった、という事を知りたいんです。…というか今回の『これ』はうちの海賊団史上最悪の大騒ぎでしたからね。おれ達は知る権利がある筈です。」

  淡々と語るペンギンは無表情である。しかし感情が込められているよりも迫力があるのはこれいかに。さあ、吐け。と溢れ続ける気迫は戦いの最中よりも強く、キャプテンである筈のローから黙秘権すら奪っていたのである。
  因みにいとの方にはシャチが聴き取りに向かっている。

「…話を、途中で折るな…」
「折りませんからさあどうぞ。」
「ぐ、」

  ローの最後の足掻きをバッサリ切って、ペンギンはノートを開いたのであった。勿論記録は取らせてもらう、当然だ。事情を知らなかった所為で己達は何の手助けも出来なかったのだから、万一似た事態が起きた時には今度こそ支えになれる様にとの思いがあった。
  白いノートにローの言葉がそのまま文字となり、罫線の上に文章の帯が出来上がっていく。彼方の世界での事、ローが彼女に吐いた言葉の暴力達…それでも静かに耐えて、着いてきてくれたいと。ささやか過ぎる最期の望み…。一頁二頁と紙は捲られ、相応の時間が経った頃漸くペンギンの腕が動くのを終えた。

「…。」
「…。」
「…あなたはアホですか…。」

  ペンギンは開口一番、頭を抱えてしまった。いとの状態からして並々ならぬ事情というものはある程度予想して身構えていたのだが…なんだこれは…と呆れとも情けないとも何とも言い難い感情にペンギンは心中覆い尽くされてしまった。
  
「女に関しては百戦錬磨だと思ってたんですが…一番好きなひとにこの仕打ちって、」
「…。」

  ローは眉間に皺を寄せてこれ以上無い渋い顔で目を逸らしていた。自覚は嫌という程あるらしいその顔にペンギンはそれ以上物申すのを止めて、頁をパタンと閉じたのであった。
  どの言葉をこの男に掛けるべきか、そう思考を巡らせていたが遠くから何やらドタバタとせわしない足音が聞こえてペンギンは思考に埋もれていた意識をそちらに向ける。ローはローでペンギンよりも気付くのが早く、既に扉を睨め付けていた。
  ここに己達がいる事を知っているのは一人だけだ。

「キャプテーン、嬢ちゃん一体どうなってるんスか!?天女とか天使とかそういう種族なんスか?!」

  飛び込んで来たのは思い描いていた通りにシャチであった。ただ、予想外なのはグズグズに顔を歪ませて泣き腫らしていた事だ。ベソをかいたまま握り締められているのはペンギンの手元にあるノートと全く同じ物。違うといえばそちらにはいとの言葉が書き連ねられているという点だ。

「ん!」
「…読めってか?」
「んん!」

  ズビズビと鼻を啜りながら差し出されたそれをペンギンはやにわに受け取ってペラリと頁を捲るのであった。読みながら溜め息、そして何処からとも無く訪れる偏頭痛に近いもの。やがてペンギンは一度顔を上げて今もなお真っ赤な目のシャチに己が書いたノートを手渡すのであった。

「きゃぷてんのばか…ドS…いじめっこ…」
「…。」

  ローを除け者にしてノートを交換し、読み合ったクルー二人は全く同じ動作をして見せたのだった。頭を抱え、これでもかと溜め息一つ。

「とりあえずこれ、字がきれいな奴から回して読んだら写本。そんでクルー全員に回そう。」

  言い切ったのはシャチで、ペンギンも一も二もなく頷いた。ここには生憎自動でノートを増やしてくれる機械なんぞは無いので地道に手書きである。骨の折れる作業ではあるがそれ以上に存在理由があるのだ、このノートは。
  その後、読み回される度に数を増やしていく書き写されたノートはクルー達が読み込みに読み込み、遂に全てのクルーが今回の大騒動の原因を知るに至ったのであった。
  事件の概要に驚き、ローのあんまりな不器用さにもどかしさ諸々を覚え、いとの献身に不覚にも涙腺を弛ませる。

「これからしばらくキャプテン全力出せないんでその分おれらが頑張んぞー!」
「「「おおー!!」」」
「お嬢ちゃん、ついでに不器用なキャプテンはおれらが見守るんだ!いいかヤローどもー!!」
「「「うおおおおーっ!!」」」

  ハートの海賊団全員、心ここに一つとなる。
  キャプテンに言いたい事はごまんとあるが先ずは置いといて、己達が慕う男と妹分であるいとが幸せになる事をクルー達は願ってやまないのだ。ならやる事は決まり切っている。

「名前どうする?」
「…覚えやすいのがいい。」
「嬢ちゃんを守ろうの会で。」
「よしそれで。」
「んじゃ、嬢ちゃんを守ろうの会!ここに!発足!!」
「「「うおっしゃぁぁあ!!」

  こんな会が結成されたのもまた必然である。高らかに名前を叫んだのはシャチでおれはやるぜ!と熱い血潮をたぎらせていたのであった。



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