Beautiful days | ナノ



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  微睡みの温もりは遠い過去を連れてくる。二人して抱き締めあい眠る中、隈で縁取られた瞳は遠い昔を眺めていたのだった。


【魚釣りの思い出】

  『その日』は快晴、波のご機嫌も上々。ならば食糧でも見繕ってこいとコックに釣竿を押し付けられたのは何時もの顔触れであった。
  ペンギンとシャチ。事付け易いのか暇そうに見えるのか、こういう細々とした用を頼まれるのが常であった。

「…釣れん。」
「だなぁー…かもめみっけ…」
「ウミネコだ、」
「にゃー…」
「やめろよイラっとした。」

  春島の気候に入ったのだろう、ほうっと溜息が漏れてしまう様な陽気に件の二人はすっかりと和んでだらけ切っていた。欄干に寄り掛かって日がな一日ぐうたらしているのはあのハートの海賊団、キャプテンに最も近しい人物達…と聞かされてしまえば訝しんでしまう事間違い無し。

「あったかいですねぇ。」
「…いとちゃーん…」
「…昼飯は釣れたか?」
「キャプテン。」

  だらりのたりとした二人に更に二人加わってきた。どうやらいとは『のんべんだらり達』が気になってしまったらしい。いそいそと寄って来て、そして傍らには当たり前宜しく隈が印象的なキャプテンも着いて来るのであった。

「やる?」
「わ、いいんですか?」
「竿ならまだあるしさ、どーぞ。」
「ありがとうございます。…ロー、してもいい?」

  嬉しげに竿をシャチから受け取り、彼女が振り返ったのは隣のキャプテン…ローである。おずおずと見上げ伺う様に是非を問うていた。

「…。」
「…ロー…?」
「そうだな…。」

  逐一いとがこうしてローに尋ねるのは彼女が『此方』の人間で無い所為らしい。この海でしていい事、悪い事は只今勉強中であった。
らしい、と付くのは単なるシャチの憶測でその実際のところは不明だからだ。まあ似たり寄ったりだろうとシャチはキャスケットを被り直しながら考えている。

「…余り身を乗り出すな、落ちれば事だ。」
「うん。気を付けます。」
「なら、いい。やってみろよいと。」
「ありがと。」

  それから少し思案してローは吐息まじりの声を出していた。しょうがないなと小さく呟いて、のっそり身じろいだかと思えば甲板に転がっていた予備の竿を拾い上げる。

「え、キャプテンも?」
「…おれがしたら悪いのか?」
「いえいえとんでもないっ!」

  むくれたのは一瞬。そして何とも物珍しい光景が誕生したのであった。欄干に横並びになって心地よい潮風に髪を遊ばせるのは名立たるハートの面々達と一回り小柄ないと。
  糸を垂らすキャプテンを見る日が来ようとは、とペンギンは妙な感慨深さに襲われていたのであった。

「いやぁ、しかし…アレっすねェ…。」
「うーん…」

  釣れない。そう誰一人としてアタリが来ないのだ。よもや魚までもがこの陽気に負けて海底で脱力しているのではあるまいな、とシャチは深い群青色を眼を凝らして見下ろすのであった。

「…うーん餌は…っと付いてるしなァー…」

  一度竿を上げてみたが針にぶら下がっているのは餌の小エビのみ。シャチに倣って竿を上げたのはペンギンでこれもまた全く同じ状態であった。いとも見よう見まね、えっちらおっちらと釣竿を持ち上げたがこちらは付けた餌が消えているという体たらくであった。
  眉をハの字にした彼女に「餌ならそこのバケツにあるから。」とペンギンが微笑い、いとはいそいそとバケツの前でしゃがみ込んでいたのであった。

「いと、餌付けれたのか。」
「うん。なんとか。」

  再び横に並んだいとを見下ろすローにもアタリ、というものはついぞ来ない。しかし特に焦る訳でも無く、このひと時を慈しむ様に何方とも知れず眦を下げていたのだった。

「風、気持ちいい…」
「そうか。」
「うん。」

  ほの暖かい潮風がローといとを撫でていく。まどろんだ沈黙に甘んじる二人の、その隙間を掻い潜って長閑をもたらす。

「…これが噂の贅沢な時間の使い方…」
「…なんだそりゃ…」

  たまにはボウズがあってもいいんじゃね?バカ、なら今夜はコメとツクダニノリだけになるぞ?そんな応酬をシャチ達が繰り返してはや数刻。

「…また。」
「無いな。」
「そうデスネ…ローさん…」

  何度か竿を上げては餌が無くなりしょんぼりする、といったサイクルを続けていたいとにいち早く気が付いたのは隣に陣取るローであった。ニヤ、と作ったのは実にニヒリズムに溢れていて、そのまま残念だったなと彼女の頭をじゃれる様に小突いていた。

「へたくそ。…くくっ、」
「仰る通りで…ハイ…。」
「いとちゃん…もしかして、釣りした事無かったり?」
「あ、はは…無い訳じゃ無いんですが、縁遠かったもので…」

  海から引き上げられたJの字に曲がった針は何も引っ掛かっておらず、プランと寂しそうに揺れていたのであった。これで三回目、竿の所為でも針の所為でも無いだろう。勿論魚が掛かった気配も無かった。

「どうしてでしょうか?」
「取り付けが甘いな、波に攫われちまってる。」

  竿、揺れてないだろう?とペンギンに問われ、彼女は素直にコクリと頷くのであった。ふむ、さてどうしたものかとそれに何故か考え込む度に『PENGUIN』の文字は下を向く。

「?ならおれが付けたげるよいとちゃん。」
「え、そんな、お手を煩わせてしまいますし。」
「いーって、いーって。ほら貸してよ。」
「あ、ありがとうございます。」

  黙りこくってどうしたんだよ、手伝えばいいじゃないかとペンギンにそんな眼差しを向けたのはシャチである。一番の新入りで、何処か妹に見えてしまういとが困っているのだから助けてやるのが兄貴分というものだろう。シャチはここは一つ任せとけとばかりに意気揚々と彼女の釣竿を受け取っていた。

「お世話になりますシャチさん。」
「ちょっとずつ慣れればいいんだ、ほらこうやって…頭から刺して、尻尾までずっと針通して…」
「成る程…」

  シャチの手捌きにいとは感心、そしてまた感心であった。瞳を僅かに開いてどこかキラキラと子どもの様な尊敬の眼差しを向けている。シャチも得意げにあれやこれやと、彼女に教えてやるのだった。

「…シャチ…。」

  和やかな二人は案外に集中している。故に、あちゃーと顔を顰めたペンギンにもローのシャチに向ける眉間の皺も気付かない。

「ほら、これでダイジョーブだ!シャチくんの念力が篭ってるから釣れる事間違い無しっ。」
「ふふっ、はい、頑張りますね。」
「ならシャチおれの分もやれ。」
「…え、ペンギンそんくらい自分でしろよ。」
「シャチ、やれ。」
「ええ、キャプテンもっすか?!」
「やれ。」
「うっす!」

  シャチ特製をポチャンと投げ込んだのは四人。それぞれの餌は群青色を潜って行き、糸はゆらゆらと揺れている。
  潮風が吹いていく。一回、二回、そして。

「…来た!」

  いの一番に釣竿がしなったのはなんとペンギンであった。ギシ、と音立てながら湾曲になるそれを目一杯の力で持ち上げる。

「っしゃ、昼飯!」
「おお雑魚じゃ無い!」
「シャチ網頼むっ、」
「よっと!…お、こりゃスズキだな。」

  網で引き上げた魚を見てシャチは歓声を上げた。水飛沫を撒き散らしながら引き上げられたのは中々の大物である。網の中でビチビチ跳ねる魚に圧倒されつつ彼女はそれでもじい、っと眺め入ってしまった。

「…スズキってこんなに大きいんだね。」
「見たこと無いのか、いとは。」
「『あっち』は殆ど切り身で売ってたから…目新しくて。」
「…『こっち』じゃいとみたいなのの方が目新しい、というか珍しいな。」
「…そ、だね。」
「…おっ、いとちゃん釣り竿動いてるぞっ、」
「!」

  シャチの声に振り返ったいとは欄干に固定しておいた、動き始めた釣竿を慌てて手に取っていた。その釣り糸は不規則に波間を引き裂いてバシャバシャと大きな水音を上げる。

「網の準備しとけ、」
「アイアイ!」
「いと、力任せに引っ張るなよ、釣り糸が切れる…」
「は、はいっ。」

  先程も大きなしなりだったが今度はそれの上をいく。ギシギシと悲鳴を上げる釣竿をいとは懸命に握っているのだが、釣竿は折れそうばかりに歪み、釣り糸はピンと千切れるまでに張張って右へ左へ上と下、不規則に振動しているのであった。

「…っ、」
「…っく…!」
「デカイぞありゃあ。」

  魚影を目に捉えたペンギンが思わず驚いてしまう程の大きさ。さてあれは何だとシャチは身を乗り出して網を構え、掬うタイミングを推し量っているのであった。

「お、もいっ。」
「無理するな、いと、」
「だい、じょうぶ、っきゃあっ!」

  顔を真っ赤にして腕に力を込めるいとはローにそう告げ、釣竿の先端に視線を向け直す。その瞬間に大きく釣竿が上下にしなり、そして次にザバン!と水飛沫が大仰に跳ね上がる。キラキラした水滴に包まれ、跳び上がって来た巨大な魚に一同は唖然とするのであった。

「エレファントホンマグロ!」
「え、れ?」

  その名前にたたらを踏んで、特徴的過ぎる象の鼻が付いた魚に瞠目するいとだった。ポカンとしてしまい思わず踏ん張っていた筈の足の力が抜けてしまう。

「ひゃっ!」
「いと!」

  ぐわりといとの体は傾いて、そのまま重力に逆らえず海へと引き込まれていく。上半身があっという間に欄干を越えて竿を手放す暇すら無かった。
  いとの目には大口を開けたままのシャチ、手を伸ばし掛けたペンギン。目を見開いた血の気の無い顔の、

「ROOM!シャンブルズッ!!」

  鬼気迫る声に、ビクリと体が固まったのはいとであった。喉が張り裂けそうなまでの荒々しい声で彼女はローを凝視してしまう。

「ろ、」
「…いとっ、」

  低い音叉の音。
  ビタン!と水っぽいものが打ち付けられる音。
  ザボン、バシャンと水飛沫。
  走馬灯の様な一連は全て僅か瞬き一つの間の出来事であった。

「ロー…」

  男の名前を心ここに在らずのまま呟いた瞬間に、手加減など全くされずいとはローに抱き締められていた。ぎゅうぎゅうとローは両腕を彼女の肩と腰に回し、「怪我は?」と掠れる声で一言洩らす。

「わ、たしはどこも。でも私海に引っ張り込まれたんじゃ、」
「落ちてねェ。」
「え?どうやって…?…ぁ。」
「能力を使った。『入れ替えた』から、いとは無事だ…。」
「あり、がとう…あの手を煩わせちゃって、ごめんなさい…」
「いい。それより…。」

  ローは彼女の肩をひと撫でして存在を確かめる様に深い溜め息をつく。そしてそれ以上は言ってくれるなとばかりに男は別の場所に視線を送り、顎でしゃくったのだ。

「大物だな。」
「わ、」

  『水っぽいもの』の正体は甲板でビチビチと跳ね動く巨大な魚であった。見た目は限りなくマグロに似ているがその特徴を一切合切帳消しにする長い、鼻。

「ビギナーズラックってヤツか。高級魚だぞ、いと。」
「…食べれるの…?」
「美味い。」
「へ、へぇー…」

  抱き締めたまま中々離そうとしないローの腕の中。もじもじと身動きしながらおっかなびっくりといった態でいとは跳ね回るマグロを眺めていたのだった。
  ローはローで子どもみたいだと、その姿に満足そうに微笑い、彼女を抱え直す。そして魚の近くにてペンギンが「マグロパーティーだ…」と小さな歓喜を上げていた。

「…。…ロー…。」
「なんだ?」
「…シャチさんが、いないの…。」
「…。」
「シャンブルズした、ってことは、えっと、つまり…。」
「海だ。」
「や、やっぱりっ。」
  
  マグロを甲板へと移動させたという事はつまり、甲板にあった『何か』とこの巨大な魚の場所を『替えた』という事だ。要するに、シャチは今、マグロが居た場所に居るという事で、

「おーい、浮き輪持ってこーい。」

  …何とも間延びしたペンギンの声が潜水艇の甲板に響いていたのであった。

「ちょ、酷いっすよキャプテーン…」
「あァ?じゃあ何か、今日の昼飯を釣り上げた功労者を海に放り込めってのか。ボウズのテメェが身代わりになるのが妥当だろ。」

  無事に救助されたずぶ濡れのシャチは開口一番に情けない声を上げていたのであった。そしてそれをバッサリと切り捨てるキャプテンの声も響く。
  『魚釣りの手ほどき』に対するヤキモチで八つ当たり。だとはこの先一生、男は口を割る事は無いだろう。

 


(アァ、そんな事もあったか…。)

  微睡みの水中から一度だけ顔を上げた男はあの時よりもほんの僅かだけ低くなった温度のいとを抱え直し、そしてまた小さな寝息を立て始めていたのであった。



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