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海の機嫌も上々、兎の様に波が遠くて跳ねていたが時化にはならないと航海士が太鼓判を押したのでこうして船医は一人こうして篭っている。
医務室はしぃんとして、ゴリゴリと乾燥した薬草をすり潰す音だけが聞こえていた。麦わらの一味・船医チョッパーは今日もせっせと薬品や漢方を広げている。何やらゴソゴソと新しい薬の研究でもしていたのだろう。
「うーん…」
暫くはゴリゴリ音と二人っきりだったのだが、ゴリゴリの隙間をぬってコンコンとドアをノックする音が聞こえチョッパーは片耳をピクリと跳ねさせたのだった。
「どうぞー。」
「お邪魔します、チョッパー君。バンソコウ貰ってもいい?」
いとだ、珍しくも一人で来て人差し指をピンと伸ばしていた。連れの男はどうしたのかと、頭を一巡させたがとりあえずは彼女の用事を聞こうと口を開く。
「おぅ。どうしたんだいと。」
「紙で指をちょっとだけ。」
「分かった、ちょっと待ってろ。これ片付けたら、うおおっ?!」
「きゃっ?」
消毒もしとこう、と脱脂綿を思い出した瞬間にサニー号が大きく揺れた。散らばる薬品、飛び散る粉末、乳鉢が床に叩きつけられたが割れてはいない。ただ小瓶が、いとの目の前に降っていっただけだ。
そう、蓋の開いた小瓶が。
「…え…?」
「いとっ、大丈夫かっ、ってぇぇぇぇええ?」
その頃遠くの方から医者ー!!という声が響いたのをローが聞いていたのだった。
「騒ぎ過ぎだ…」
ここに乗船した時から静かになるところを見た事が無い。お祭り騒ぎをしている船長とその面々を片目だけで一瞥して一人ごちている。船が揺れた程度で愉快愉快と大騒ぎをしているのを傍目にいとが戻ってくるのを待っていた。
「揺れなんてよくある事だろうが。」
「岩礁に乗り上げたって訳じゃ無いから安心しなさいよ、あんたら。」
外の様子を伺っていた航海士顔のナミがラウンジに戻ってきた。何だ不思議揺れか、と変な方向に結論付けた船長を横目に騒ぐ面々をたしなめていたのだが…
「たたた、たいへんだみんなァ!」
その次の瞬間にバタン!と大きく扉が悲鳴を上げてチョッパーが転がり込んできた。船の上では珍しく人型で、本当に見事なスライディングで、二の句を告げるナミは口を閉ざしローは両手で抱え上げられた『もの』を見て絶句する。
「ちっちゃくなっちゃった。」
チョッパーの呆然とした声に今度こそ一同が釘付けになる。
大きな両腕にぶら下がっていたのはダボダボ服の幼い女の子であった。きょとんと面々を見回して、その後小首を傾けてからここどこ?とか弱い声で呟いていたのだった。
「…『モドモドパウダー』…」
テーブルの真ん中に置かれているのは先程、いとの真上に降ってきた小瓶である。苦虫を噛み潰したような顔のナミ、そして申し訳なさそうにするチョッパー。両者とも何やら嫌な記憶が忌々しくも蘇っている様子で、うむうむと唸り声を漏らしていたのであった。
「島に寄った時に手に入れたんだ。…半信半疑だったけど、」
「効能は本物だったって訳ね。さっきの揺れでかかっちゃったって事でいいの?」
「うん。吹っ飛んでいとに中身が全部…。」
ナミと話すチョッパーはおもむろに顔を上げ、先ほどよりも何倍もぎゃおぎゃおと大騒ぎする方を眺める。小さくなったいとに誰よりも先に興味津々となり飛び付いたのは考えるまでも無く楽しい事が大好きな我らが船長ルフィであり、楽しさを追求した結果肩車して遊ぶという事に落ち着いた様だった。
「ほらみろ、いと!トナカイだ!」
「となかいさん?赤いおはな?」
「こっちだこっち!」
「おはな、赤くないね。海の色とおんなじだね。」
「すげーだろー!」
「うんっ。」
「す、すごいだなんて言われてもちっとも嬉しくなんてねーんだからなコノヤローが!」
全力で構い倒されているいとを心配してか騒ぎの中に飛び込んだチョッパーだったが、何時の間にかペースに乗せられて一緒に騒ぎ出してしまった。どうやらいとは記憶まで後退しているらしい。男連中をおにいちゃんおじちゃん、女性陣をおねえちゃんと真っ直ぐに見つめて呼んでいる。
おれが誰かわかるか、とローが半ば無意識に絞り出した声にわかんないとだけ答え、いとは何とも『子どもらしく』大人達に無邪気に戯れつかれていたのだった。
「ああーもうやめろって!いとは普通の女の子で、しかも今は子供の姿なんだぞ!」
「ありがとう、ウソップおにいちゃん。」
「ん。いとはきちんと礼が言えてえらいな。」
「えへへ。」
元気にいとを振り回すルフィに見兼ねて、甲斐甲斐しく世話をやくのは矢張りウソップである。ぶかぶかになった薬指の指輪を、鞄から取り出した細い革紐でペンダントに仕立て上げて首にかけてやるのだった。
「これはおまえの大事なモンだからな。きちんと持ってなきゃな」
「ゆびわ。お母さんも持ってるよ?」
「そうだろうな。……あー、髪の毛もぐちゃぐちゃじゃねぇか。」
待ってろとまたもガマ口カバンを開けてブラシを取り出し、いとの髪を梳いてやるウソップに幼いいとは早くも懐いたようだ。
同じくテーブルにいたローはナミの方は見ずに残された空の薬瓶を手に取り、掌の中で弄ぶ。効能は一日と書いてあるが果たして本当だろうか。
大きく眉間に刻まれた皺の成分は不安と焦燥で、知らず知らずの間にいと、とその名前を呟くのであった。
「…ハァ…」
「どうしたの?おにいちゃん、お顔ぎゅーってなってるの。ぽんぽん痛い?」
その姿が気になっていたのだろうか。深い溜息にいとが気付いて近付いて、不安そうに顔を見上げてくるのであった。臆している訳ではなさそうだがおずおずと顔色を伺っている態でぱちぱちと瞬きの数を増やしていく。
「あの、おにいちゃ、」
「…何処も。何処も痛くない。そもそもおれは医者だ、テメェの面倒ぐらいテメェで診れる。」
「おいしゃさまなの?」
「そうだ。」
腰を降ろし、いとと目の高さを合わせると静かにローは語りかける。お人好しな気質はこんなにも幼い頃から備わっていたのかと感慨深さを覚え、そして幼子を心配させぬ様にだから大丈夫だと同じ意味を繰り返した。
いとを不安にさせるものは例え自分自身であろうと許せない。そう思っているというのに、いつも己はままならない。
「お顔ぎゅー、の時はとっても悲しい時なの。お母さんがそう言ってたの。…お兄ちゃんが元気になりますように、のびろーのびろー…」
これはいとにとって当たり前の行動なのだろう。手を差し伸べて、誰よりも柔らかな温もりを与えようとするのは。小さな掌で力の入った眉間を撫でるいとにローは愛おしさが込み上げる。
「おまえは何も変わってないな…」
お人好しで、人の心配ばかりして。語尾が震えるのを必死で隠してローはゆるゆると眉間に触れるいとを懐にしまい込んだ。感じるぬくみと命の重みに、愛しい、愛しいと喉が鳴る。
…もし、いとと幼い頃を共に過ごしていればおれはどんな人間になっていたのだろうか。頑是無い餓鬼の想像であっても、目頭は勝手に熱を上げてしまうのだった。
「いと、もういい。」
「でも、でも。おにいちゃん、なかないで…っ、ふっく、ふぇ…」
「おまえが泣いてどうする…。」
熱が移ってしまったのだろうか、それともいとの性格なのだろうか。どうにも貰い泣きしてしまった小さないとはくすんくすんと控えめな吃逆を出しては、頬を拭う事もせずにローを懸命に見つめていた。
「おにいちゃ…っ、」
「よし、よ、し…いいこだな…。」
頬を伝う雫を節くれた指先で掬い取ったローはぎこちなく小さな体を抱き上げると、不規則なリズムで背中を叩きいとをあやしてやる。
「おれはいとが居るなら、大丈夫だ。いとさえいればいい。」
「…どこも痛くない?平気?」
「平気だ。」
「よかったぁ…」
今の歳のいとに聞かせていいのかどうにも微妙な台詞を吐いて、ローはこの温もりに心地よさを憶えていたのだった。
さて、彼女が元に戻るまで一体どんな大騒動が待っているのだろうか。
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