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さてさて、このトラファルガー・ローという海賊。ここ最近で一番の機嫌の悪さを頭の端から爪の先までたっぷりと滲み出させていたのであった。
事の起こりは一つでは無い、というのがこの不機嫌のミソになる。先ずは朝方の出来事だ。寝起き独特のぼんやりとした頭で朝食を取り、そういえば同盟一味の船医と医薬品について話す用事があったと思い出した。
(いと、は…)
ならばいとも交えて話そうかと、呼吸するのを疑わないくらい自然に結論づけて可愛い可愛いおんなの影を探したのである。
「…いと?」
ここでおやと眼差しだけで疑問を浮かべ、漸くこの男の脳は回転を始めたのだった。朝食の間は確かに隣に居たはずのいとの姿が無い。そうなればローはキョロキョロと忙しなく動き出すのであった。何せいとが視界に入っていなければこの男、精神安定剤が切れた患者よろしく足元が覚束なくひどく不安定になってしまうのだ。
いとは何処だ?
「おーい!トッラおー!」
「…麦わら屋…?」
「うーえーだぁー!」
上?と呼ばれるまま振り仰いだのはサウザントサニー号の見張り台であった。マホガニーよりもずっと優しい色合いで出来た遥か高い位置で誇らしげな声を上げる人物は、本日も大切な麦わら帽子を被り元気一杯に笑っていた。潮風を全身に浴びた笑顔は、いっそ腹が立つ程背景の空色に似合っている。
「…なんの用だ。」
対照的な表情に声音。抑揚の欠片も出さずに下から返事する男に、麦わら帽子をはためかせた笑顔は意も介していなかった。ただご機嫌、何時もの事だ。
「あのよー!朝めし食った後にな!涙っ子と見張り番の話になったんだよ!」
「…は…?」
「んで最初にサニー号の案内したときにな、そういや見張り台には登ってなかったなぁって思い出して!こんな気持ちいーとこ知らねェの勿体無ェだろ?だからよ、今一緒に登ったんだ!」
「なっ?!」
眩しいのは笑顔の所為では無く逆光の所為だ。陽気な声を出す男の表情は影が掛かってまるで見えないが、見なくともわかる。邪気の無い実にタチの悪い顔をしているに違いない。
「…いとっ?」
陽の光で目を細めたローは自身でも気付かぬまま、勝手に喉から彼女を呼ぶ声を出してしまっていた。その場に縫い付けられた様に一歩も動かぬまま、ずっと上を向いていた為に痛みを伴い出した首筋を無視して男は同じ場所を見続けている。
「…ろー…?」
「…っ!!」
ぞわり。鳥肌が、立つ。
つたり。冷や汗がたちどころに噴き出す。
恐る恐る見張り台から下を覗き込む様に身を乗り出したのは探しに探していたいとだった。居なくなってごめんね、と眉を下げている顔には風で靡いた髪が少しだけ掛かっていた。
「…っ!」
唐突に蘇るのは、忌まわしい記憶だった。そう『あの日』だ。赤い赤い夕陽の中、意識を手放して真っ逆さまに落ちたいと。何も知らなかった、『知ろうともしなかった』愚かしい己の残骸が仄暗い感情の底から腕を伸ばして自責と後悔を至る所に食い込ませてくる。
まだ昼時にも届いていないのに、ローの瞳にはかつての恐怖が、夕暮れの絶望が走馬灯の様に通り過ぎていった。その恐怖たるや筆舌に尽くし難い。
「…ロー…?…!ルフィくん、私降りるね…!」
遠目でもわかるくらいローが無表情だ。様子がおかしい、僅かにたたらを踏んでいる。…もしかしてあれは震えている?まるであの『大騒ぎ』の頃のローが居るみたいだといとは面持ちを曇らせて木目を掴んだのだった。
「…ロー、気分が悪いみたいで。」
「なに?!ホントか!」
そいつはいかんと目玉をひん剥いたのはこの船長の気質だろう。ならば直ぐに向かわねばと思ったのも、考えるより動くのも。更に言うならば悪意なんてこれっぽっちも無いというのもこの船長の気質、なのだ。
ここに他の一味がいたなら話はまた違ってくるのだろうが、生憎ここには三人だけ。
「トラ男待ってろ!」
「えっ?」
「ほいっ。」
気が付けば米俵そっくりに抱え上げられた。いとの目の前は赤一色でそれがルフィの背中であるとわかったのは瞬きを二回してからだった。そして浮遊感。
「き、きゃぁあっ…!」
「今行くぞー!」
ぽぉん、とゴム毬が跳ねたかと思う程のなだらかな曲線を描いていた。お腹の中身だけが落ちる速度に遅れている微妙な感覚、髪の毛が一気に巻き上げられ、再び声を漏らしたのは着地した瞬間の衝撃の時だ。猫の着地、といとは赤い背中から降ろされながら呟く。
「…いと、」
「顔真っ青…びっくりさせちゃった…ね、」
「っ…は…」
「ろ、私は大丈夫だよ。」
「どこもいたくないか、」
「ちっとも。…ローの方がしんどい顔してる。向こうで休もう?」
いとがここにいる。とわかった瞬間に張り詰めていたゴチャゴチャとしたもの全てが弛んでいく。ヒビ割れから空気が漏れる様に息をついてから、ローはのたのたその場にしゃがみ込んでしまうのだった。
いとがいる、ここに。そう無意識に右手は彼女の服の端をつまむのだった。
「どしたトラ男〜?」
どしたじゃねェよ…!
声にもならず、しかし己の晒した醜態を思い返せば居心地の悪いこと山の如し。内心で自らに悪罵を投げかけつつその後はいとを傍に置いて落ち着きを取り戻したのだが…。
それも昼時までの話。
「いとっ!できたぞ!」
「モモくんは覚えるのが早いなぁ。」
「へー…器用なもんね…。」
「おナミ、見たかっ。うまいだろう?」
「中々やるじゃない。」
ところ変わってラウンジのテーブル。既に昼食は片付けられて、一日の中で最も時間の流れが緩やかな頃合いとなっていた。
たしか始めは…そう、ここの航海士が読んでいた新聞と手持ち無沙汰にした小さな侍モモのすけをいとが交互に眺めてからだった。
「オリガミか…懐かしいものを見た。」
「何処かで…と思っていたけど、ワノクニの文化だったのね。」
「うむ。」
暇つぶしになればいいんだけど。とナミから古新聞を貰い受け、いそいそと灰色の紙を折り始めたいとは随分と手際がよかった。聞けば祖母に習ったとの事でものの数分で三角形を作っていた。袋状になっているところをぱこっと開いて、興味津々の男の子に微笑んで被せてやる。
「はい、お待たせ。かぶとの出来上がり。」
「おお!」
灰色の紙兜ではあるが子ども心を擽るものがあったのだろう。拙者も作る!という流れになる頃にはナミ以外にも今日の新聞を探しに来たロビン、そして錦えもんまで集まって和気あいあいと急拵えの折り紙を楽しんでいたのであった。
「…。」
「…ぇー…またこのパターンかよー…」
「…いと…。」
「うん。ソウダッタネー…」
しかしこのほのぼのとした雰囲気をぶち壊さんばかりの暗雲を発生させているのが一人。壁に寄り掛かったままでじっとただ一人の女を見つめているのだった。
「…はァ…。」
モコモコでお馴染みの帽子を深く被って、その影に隠れた瞳はそれでも憂いを帯びていた。腕を組んだその物憂げな姿に見惚れる乙女は数知れず…しかしこの姿を目に焼き付けてほしい乙女は絶賛取り込み中。おまけに女性陣によって己が視界に入らない微妙な位置に移されてしまったのだった。…己がまた動く、というのも癪だ。
「こっちを見ろ、いと…」
午前中のゴタゴタのおかげで精神は随分と磨り減ってしまった。出来るならいとの隣を明け渡したくなど無いし、そもそもいとは己のおんなで隣に陣取るのは自然の摂理というものだ。
もういっそのこと縄でぐるぐる巻きのぎゅうぎゅうにして傍に置いてしまおうか。いや手錠の方がいいかもしれない、などと危うげな名案で頭を一通り埋め尽くした後重っ苦しい溜息をつく。
『ソクバッキー』。いとが僅かでも離れるとわかりやすく不機嫌になり、見つけて追い回して腕を絡ませる。そんな執着を近年稀にみるレベルで備えたこの男子…一味の誰がつけたかわからぬが、まことしやかにそんな不名誉な名前を与えられ囁かれてしまう様になっていた。
「…。」
「あーもー…。」
近寄るに近寄れず、『まて』をくらわされた男は見るに忍びない。いとのもとへ行きたくて苛々、ウズウズを繰り返しているローに止せばいいのに声を掛けてしまったのは長鼻の狙撃手であった。元来面倒見が良いからそれも手伝っての事だろう。無論それだけではなく、恐っそろしい二つ名もちのスリリング野郎だが、恋人が関わってくるとコイツはトラ男ならぬダメ男だ。はやく何とかしないと、という使命感めいた感情もある。
「トラ男くーん、どしたー?」
溜息交じりのその声にちらりと目線を向ければ、向けた相手も溜息で返す。
「…おれが子供の姿だった時はあんなに構ってくれなかった。」
再びローが眼差しをおくるのはロビンの影に半分以上隠れてしまったいとだ。新聞折り紙は今だ楽しく続いている。祖母と嘗て一緒に暮らしていたというだけあって、彼女は細々としたものを習っている様だった。小さな侍をとうとう睨みながら不貞腐れた呟きを漏らす男に狙撃手ウソップはまた溜息を、今度は盛大に吐き出すのだった。
知るかよ。まさにこの一言に尽きる。
「…いとのヤツから聞いた話じゃ、お前の方からこっちに干渉するな余計なちょっかい掛けて来るなオーラ満載だったそうじゃねえか。構いたくても構えなかったんじゃねえ?」
「……」
(図星かよ!自業自得じゃねぇか!)
どんよりとした男の雰囲気など意に介さず、向こう側できゃいきゃい遊んでいるモモのすけといとをじっと見つめる男をウソップはただ見守るしかなかったのである。
臨界点が訪れやしないだろうか、という一抹の不安を胸に抱きながら。
「…まぁ、いつもの事だし…」
後でいとが宥めてくれるだろう。と結論付けたウソップだったが、彼は一つ大切な事を知らなかったのだ。『午前中』から今に至るまで隈の男が精神面をがっつりゴッソリ持っていかれているという事実を。
その晩、発露はその晩であった。
「いと、抱っこ…。」
「はいはい…よいっしょ、っと。」
「…!!」
湯上りと一目でわかるその光景。湿った髪に火照った頬、寝る前のラフな格好に着替えた愛しい愛しいいとは小憎らしい忌々しい餓鬼を胸に抱いてこちらに歩いてきたのだった。
律儀に愚痴の相手をしていたウソップも当然連れ立っていて、小侍を見つけた瞬間思わずヒィ!と悲鳴を上げかけた。このタイミングで火に油を注ぐ真似はヤメロよちくしょう!と頭を掻き毟りたくなっても無理はない。うつらうつらと船を漕ぎ出して女の胸に顔を埋める子ども程、強敵なものはいないからだ。
「いいお湯だったよー。」
サッパリとして機嫌の良さそうないとからは確かにお風呂に行ってくるとは聞いていたが、そのクソ餓鬼が一緒だなんて話は一切聞いてはいない。ローも、勿論ウソップも。
「いと。」
「はあい?」
瞼を微かに震えさせたまま小さないとを見下ろすと、何時もと少し様子の違う男に小首を傾げた姿が目に飛び込んできた。自らを見返すいとの澄んだ眼差しにひどく安堵して、漸く己のおんなが戻って来たと肩の力を抜いて、そして。我慢の限界を迎えてしまったのだった。
嫌な予感をいの一番に感じたのは矢張り『何かがヤベーセンサー』を搭載したかの男である。びくっと肩を揺らして隈のある顔へと視線を向ける。
「おれも…。」
「ローも?」
「おれも、一緒に風呂に入れて隅々まで洗ってくれよ。」
「…。…へ…?」
「その餓鬼はよくておれはダメなのかよ、いと、なぁ、」
「(へんな方向にこじらせたー!)い、医者―!」
何でそっちの方にかっ飛ばしちまったんだよ!おまえ何時にもまして思考が斜め上に行っちゃってんぞ!とモモのすけが起きる云々の配慮をまるっと放っぽり投げ、腹の底からの声を張り上げたのだった。
「あ?」
「テメェじゃねぇよ!おーいチョッパーコイツ診てやってくれー、主に頭を!」
「…え、っと…どう、すればいいのやら…」
ちなみにこれは余談であるのだが…。この騒ぎのあとローは、己の潜水艇に帰ったらやることリストの最上位にお風呂でのいととの『あれやこれ』を至極当然の顔をして書き加えたらしい。さて、いとは一体どうなってしまうのか。それはかの死の外科医の心中でしか預かり知らぬ事である。
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