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首筋がすぅすぅする。それもそうだ、ほんの少し前ここにはおとこの温度があったのだから。甘ったるい吐息が混じった声は耳朶を擽り、鎖骨の窪みに流れ零れていったその記憶は前頭葉だか海馬だかに刻印されてしまっている。首をぷるぷると横に振っても滑り落ちてはくれないし、毛布でばふっと体全部を包んでも瞼に焼き付いた光景は一向に薄れたりはしなかった。
(…はずかしさで…じょうはつしそう…っ…)
いとが潜っているのはライオンの船首が波を切る麦わら一味の海賊船。その女部屋、ベッドの上。毛布を被りこれ以上縮こまれ無いのに更に縮こまろうとしているいとの隣、ソファにて長い足を優雅に組んだ二人が事のあらましを聞き出しなんとも言えぬ表情をしているのであった。
「…とんだ公開処刑ね…」
「…。…ふっとうしそうです…」
「もうしてるじゃない。」
「あらあら。」
苦笑する航海士はいとの台詞をバッサリと切って、考古学者は悠然とくすりくすりと微笑うのだった。さもありなん、服を脱がされ襲われている光景を第三者に目撃されるなんて一般の女性…ましてやこの船で誰より初心ないとには羞恥の極みであったろう。
「バカやろー!って蹴っ飛ばしてやればよかったのに。」
「もう、あの時は、あたまパンクしちゃってて、」
「居た堪れなくて逃げ出した。と。」
「ハイ…」
そしていとの頭の中、瞼の裏でまたも先程の衝撃映像が上映を始めてしまう。重心を前に傾け、ゆるゆると動くおとこの掌は大きくて熱かった。名前を呼ぶ声は何処か渇いていた。羞恥だけで無く、切羽詰まったおとこの気迫に雁字搦めにされてしまっていたのだ。
(ろーのえっち…)
いとと同じ指輪を嵌めている死の外科医は、ローは今頃どうしているのだろうか。
「羞恥で人ってこうもなるものなのね。」
「ハムスターみたいになってるわよあんた。」
「…ハイ…」
まさに小動物の様だと顔を見合わせて二人の意見は纏まってしまうのであった。本当にどうしてこんな引っ込み思案…いや、控えめの恥ずかしがり屋とあの傲岸不遜な外科医がくっ付いてしまったというのか。世界とは不思議で出来ているとでもいうのか。
『オイ、開けろ。おれの女を返せ。』
小首をかしげるばかりの頃合い、噂をすれば何とやら。女部屋のドアをノックする音が響いたのであった。苛々しているのだろう少々乱暴な、テンポの硬い音にびくん!と体を震わせたのは矢張りいとであり女性陣はその姿に再び苦笑いを漏らしてしまうのであった。
「噂をすれば。困ったちゃんが来たわ。」
「困ったちゃん、っていうかあれはただの駄々っ子よ」
不敵な笑みを浮かべた黒髪に、オレンジ色も舌を出して相槌を打つ。どうする?と毛布の塊に声をかけるとそろそろ覗く顔。真っ赤な顔のいとである。
「ロビンさん、ナミちゃんお騒がせシマシタ…」
ふるりふるりとあえかな様に名前を呼ばれた二人は見事な苦笑いを浮かべたのであった。そんな襲ってくれと言わんばかりの状態で、襲う準備はいつでも出来ている狼のもとへ帰ろうというのか。この小動物は。
「あなたはまだここにいなさい。…ね?」
「え…?ロビンさ、」
「ナミ。この子見ててくれるかしら?」
「はいはい、いってらっしゃい。」
示し合わせて一瞬。阿吽の呼吸とも言うべき早業。ナミはいとの隣に腰を降ろし、そしてもう一人は鍵の掛かったドアを開いたのだった。
「あら、なんのご用事かしら。」
「ニコ屋…。」
「苛々しては体に毒よ?」
「白々しいな。…あいつを迎えに来た、早々に引き渡せ。」
演技ぶった余裕の口調に隈で縁取られた眼光は鋭くなる。
「まあ、」
男が威嚇しようとも部屋に踏み入れさせる気など一切無く、求めてやまない女を差し出す気も更々無い。事実ドアは後ろ手に閉められてしまった。
そう言わずとも物語るのは弧を描く艶やかさを漂わせる口元、流石曲者揃いの麦わら一味ニコ・ロビン、その人という訳か。
「しばらく落ち着かせてあげてちょうだい。…恥ずかしがって震えてるわ、あのこ。」
ロビンが思い返すのはベッドで今だに縮こまっているであろう小動物。公開処刑じみた真似をされても、ちっとも男を責める言葉が出てこない心底からのお人好しの性分に微笑ましくなってしまったのは記憶に新しい。
このニコ・ロビン。実は可愛いものが好きなのだ。
そしてこのトラファルガー・ロー。その可愛い可愛い愛しい女が大好きなのである。いとを求めて、焦がれて焦がれてしょうがない。
「…いと、が…?!」
同盟、客分としてこの一味の船に乗っているのだから暫くは過度な触れ合いはなるべく、二人っきりの時に。といとのやんわりとした申し出をしぶしぶ、本ッ当にしぶしぶ受け入れたのだが。
「…恥ずかしがって…震えている…だと…ッ、」
(目がギラッ…!てなったわ。)
先日の『事件』も合間って我慢の限界はアッサリと訪れてしまったのだ。抑圧が過ぎての、故の押し倒しだったのだろう。あわれいと、ドンマイロロノア・ゾロ。
若いのだから仕方ないといってしまえばそれまでなのだが…矢張り集団生活にはTPOが求められる。
「今すぐ返せ…!」
「ふぅ…だから、そっとしておいてあげてと言っているの。」
無為!全くもって無為な押し問答の幕が上がったのである。…ちなみに、ではあるがこの男が無体をしでかさないのは件の事件でロビンに見事なフルボッコをかまされた為強気に出られない。という理由があったりする。
「すごいわ…ロビン…。」
開戦を察知したナミは、チラリと横目でいとを見る。申し訳なさそうに眉を下げた小動物は顔の熱に弄ばれっぱなしであった。
「いま、ローの顔見れない…あったら心臓こわれちゃう…っ、」
「そーねぇ…。」
心臓ぶっ壊すのはトラ男くんのほうかもね。と足を優雅に組んで、ふるふるするいとをじい、と見つめるのであった。あの執着と溺愛っぷりは驚きを通り越していっそ笑えてしまうぐらいなのだ、辛抱堪らずその場で押し倒す…考え過ぎか。
いやあり得る。
「…で、でも。もう少し落ち着けたら、ローのところに帰るね。」
「アンタ、ホントにトラ男くんに甘いわねぇ、」
「…ローは本当に繊細な人だから、私が逃げちゃったの気にしてるだろうし。それに…それだけ大切にしてくれてる、って思えちゃうから怒れなくて…。」
助長させているのは間違い無くいとのこの性分なのだが、ナミは『この性分』が嫌いでは無い。自分とは全く違う性格ではあるがいとは見ていて、落ち着く。
平穏さは美徳だ。
「あ、ははごめんねナミちゃん、なんだか惚気言っちゃった、ね…」
(何このこものすごく健気何このこ和む何このこ理想の平穏。)
パタパタと顔を扇ぐいとは一度頭を下げて再びお騒がせしてマス、はい、と照れが混じった微笑みを浮かべたのであった。そしてその目尻からはひと雫。涙脆いとは聞いていたが成る程こういう事か。
いとけない癖に、おんなの柔さと優しさが含まれる姿。きっとあの男を想っての笑顔なのだろう。
「…あんた今出て行ったら犯されるだけじゃ済まないわよ、孕まされちゃうわよ!?」
「は、はらっ…?!」
しかし、このいとの姿は今あの外科医には刺激物過ぎる。爆発するんじゃないだろうかあの男。ナミはいとの両肩をガシッと掴むと真剣な声を発したのであった。
そしてドアの向こう側に目線を投げかけて、さてあっちはどうなったのかしらと対岸の火事を思い起こしていたのだった。
口の達者な考古学者と、不遜な外科医の舌戦は今だ、続く。
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