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水色と外科医
  遥か上の水面は揺れて、空から降り注ぐ夕陽は水を通り分厚い硝子の壁を抜けてネイビーのカーペットタイルに光の網を作っていた。
  澪を生み出すのは悠々と水中で仲間とたわむれているベルーガ達だ。白い尾を優雅に動かしては、硝子越しの人間を興味深そうにくりくりとした黒目で眺めているのだった。

「可愛いなぁ…」

  水面越しの夕陽は赤みを帯びて、自分たち以外の入館者はもう出口へと向かってしまった様だ。なまえはぴったりと隙間を無くして隣に座る男の方を見ずに、愛嬌を振り撒くベルーガに見入っているのだった。

「ロー、あのこボールと遊んでるよ。」
「ん?あぁ、」

  水槽を正面にしたベンチに二人して並んで座り、なまえに名前を呼ばれた男は相槌を軽く打つ。何をする訳でも無く水色の世界に浸って、時折妙にキラキラとした眼差しのなまえを眺めては目を細めているのだった。…いや、この男の場合逆であろう。何時の間にか水槽では無くなまえばかりを眺めているのだ。
  この水色の中で二人きり。こぽこぽと泡の音が聞こえてきそうだった。時間潰しに、と入った水族館だったが…なまえがここまで喜ぶとは思わず、これは中々良い『誤算』だ。

「気に入ったなら何よりだ。」
「うん。水族館久しぶりだったからすごく楽しんじゃってます。」
「…そうか。」

  なまえの嬉しそうな眼差しは見ていて飽きる事が無い。彼女のいとけない姿は己の心にあたたかいものを注いでくれるのだ。心底から、愛おしいとこのローという男はそうおもっているのだ。
  だから、だろう。そろそろこちらを向いてはくれないかと、自身の膝に乗せてあったなまえの掌に己の大きなそれを重ね合わせていく。

「ろ…?」
「なんだ?」

  態とらしく水槽に視線を移した男は細い指を握り、桜貝よりも可愛らしいとおもう小さな爪を指の腹で撫でてやる。己よりも高い体温は心地よくてローはゆっくりと息を繰り返したのだった。
  なまえはローの好きな様にさせている。どこか擽ったそうに、そして彼女もまた目尻を下げては男の大きな親指をきゅうと握ったのだった。

「おかえし。…ふふっ。」

  いじらしくも微笑むなまえはローと指を絡み合わせて、軽く力を込めていった。瞳と瞳は水の世界ばかりを移していても互いが心に映しているのは愛しいひとのぬくもりなのだと、言葉無くとも共に感じ取っていた。体温が少しだけ上がる。
  じゃれる手つきは、ベルーガ達の様にどことなく優雅で茶目っ気に溢れていたのだった。

『ーー間もなく閉館です、』

  蜜月よりも甘ったるい水色の中に響いたのは、時を告げるアナウンスだった。回数は二回、一回目と半分まで聞いた頃に顔を見合わせてそろそろ行くか、とローは立ち上がる。指は絡めたまま、なまえを立たせてやるとゆっくりとしたペースで歩き出す。

「皆さんのお土産どうしようか?」
「出て、その辺で買えばいい。」
「ん。じゃあそうしよっか。」

  他愛無い話をしながら歩き抜けていくのは薄暗い二人きりの通路だ。両側は壁では無く、ローの身長よりも大きな水槽が間隔を明けて並んでいる。暗がりの水槽の中にはライトアップされた海月がふわふわと泳ぎ、動きを止めては沈んでいく。

「わ、こんなところもあったんだね。」

  なまえは乳白色が揺れる水槽にポツリと呟いて綺麗だね、とローと絡めた手に一度きゅ、と力を入れたのだった。

「きれいだな。」

  『なまえの方が綺麗だ』と三流の台詞だと思っていたのにローは掠れた声で囁くのだった。柔らかい眼差しで己を見上げて呟くなまえのその背景は幻想的な光で満ちていてなまえのその姿を引き立てていたのだから、さもありなん。

「うっとりしちゃうね…」
「なまえに、な。」
「え、ぁ。」
「なまえ、キス…」
「…んっ、」

  絡めた手を自らの方へと引っ張ってしまえばなまえは簡単におとこの胸へと仕舞い込まれてしまう。一度抱きしめ包み、鼓動を確かめた後にローはふっくらとした唇を己のそれで塞いでしまったのだった。

「んっ、ん、」
「…なまえ…」

  想いがこの幻想の空間に揺さぶられて高まってしまった。頭を過った言葉をそにままにローは口付けの合間に掠れた低音を囁くのだった。小さな頬を片手で包むと温かい、赤く熟れてしまったその頬を見たくておとこは微かに瞼を開いていく。
  見えたのは赤い頬、そしてその背後に硝子越しに重なり合った人影が二つ見えた。

「…、」
「ふ、っは…ぁ…」

  ややもして唇を離すとなまえの温い呼気が己の濡れた唇に当たって背中がゾクリとした。粟立つものにさして抵抗もせずにおとこはぺろり、ぺろりとすっかり潤みきった彼女の口許の雫を舐め取って、最後に同じ様に潤んだ目尻に口付けを落としたのだった。

「なまえ、海月、ちょっと見てみろ、」
「くらげ…?」

  含みのある声。しかしおとこに惑わされたままのなまえは素直に言われた通りにローが名指した光源にぼんやりと目を向けるのだった。
  光の加減で、まるで鏡の様に自分達を映す硝子。

「でかい鏡、みたいだな?」
「あ、ほんと、」
「そのままよく見てろなまえ。」
「え、ひゃ、んんっ…」

  なまえが理解する前、瞳を閉じる間も無く、ローは覆い被さる様に再び彼女の唇を塞いだのだった。ご丁寧にも硝子に二人が重なり合っている、一番熱を持っているところがはっきりと見える様な傾き加減で。

「見えたか?」
「…っ!…ろー、っあ、」
「…よく見えたみたいだな。」
「わ、わかってたでしょう…っ?」

  してやったり、口角を上げて機嫌がすこぶる良くなった男は再びなまえを抱き締めるとくつくつと喉を鳴らしていたのだった。

「おかえし、のおかえしってやつか?」
「…もう…っ」
「拗ねるな。おまえが綺麗だったから勝手にサカっちまったんだ。」
「耳もとで、言っちゃ、…くすぐったぃ、」
「ワザとに決まってるだろ?」
「ろー、」

  ローはなまえをしっかりと赤くさせてからわかってる、と甘い悪戯を漸く終わらせる。そして悪戯に成功した子どもよろしく男は実に愉快そうに、再び愛しいおんなの手を引いて水色の世界を後にしたのだった。
  


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