Beautiful name | ナノ




    一体、どれ程時間が経ったのだろう。過去を夢想しては冷たい現実に胸を潰されそうになって。ぐるぐると廻る纏める気などこれっぽっちも無い、渇いた思考は無機質な空気に晒されていた。
    言葉を交わす事の出来ないいとの頬をしきりに撫でその命が灯っているのを確かめて、その度に仮初めの安堵を得る。その繰り返しをしていたのだった。

「…いきているよな、いとは、生きてる…」

    いとが横たわる白いシーツばかりが目に入って無意識のうちに眉間に力が入る。無駄なまでに白いシーツが己のドロドロとした感情と正反対の物に見えて忌々しくてどうしようも無い。

「キャプテン、」

    不意に声を掛けられてローはびくりと振り返った。なんてざまだ、こんなに近づかれても気づけないなんて。
    波立った感情を宥め声のした方向を見据えれば悲壮さを押し殺して、それでも漏れてしまっている様なクルーの顔が待っていた。遠慮がちな声でキャプテンもうずっと寝てません、と呟かれる。
   だがローはあぁ、そうだったかと他人事の様に受け止めて視線を再びいとの方へと戻した。

「…余り思い詰めても何も変わりませんよ。交代しましょうか。」

    切実なクルーの声が耳を通り、ふと遠い昔に目を通した医療関連の書籍の一節が脳裏をよぎった。曰く『直近に意識回復の見通しが立たない重篤な患者を看る場合には、看護側の疲労を考慮し交代制で行うこと――。』なんとも合理的な記述だ。理に合わせるなら、一船の長が一クルーの重病にここまで付き合ってやる必要はない。船長はクルー全員に等しく責任を負っているし、船全体を掌握するのも責任のうちだ。仕事だって溜まっているだろう。"そうだな…やらなきゃいけねェこともあるし。"そう答えようとしたのに口から出てきたのは正反対の意味であった。

「…いやだ、」
「キャプテン…気持ちは痛い程わかります。でも…」
「何も言うな、ペンギン。」

    振り絞るよ様な声だった。幾重にも痛苦を乗せたその声は尚もローの口から流れ出し、その言葉は己の首を締めていた。

「ずっとここにいる。いとはおれが診ている。」

    ペンギンが見たのは、そこにいたのは。キャプテンではなく、死に瀕した恋人を抱きかかえて蹲る、手負いの…トラファルガー・ローというおとこだった。

「怖い。…もし、もしもだ。おれが離れているうちにいとに何かあったら?…心臓が止まってしまえば?そんな…、おれはそれこそ、」

    己の世界を色付かせるのはいとの声であり、姿であり、微笑みであり。いとの存在全てが、己にとって生きていくには必要であった。
    この海よりも深い心からの感情だった。一縷の望みというには苛烈な想いは眼差しとなっていとへと注がれる。いと、唯一のおんな。

    しかしローの強すぎる想いに彼女が応えることは無い。

「…それこそ、気が狂う…」
「そんな…。…いえ…何でも、ありません、」

    ペンギンは帽子を深く被り直してから、喉から出掛かった言葉を抑え込んだ。自分達もいとと暫く生活を共にしていたのだ。ハートの海賊団クルーの中でも最若年層に含まれる、実際に末っ子の様な幼げな風貌であったいと。
    その実とても細やかな性分で女性らしい心配りができるいとに絆されたのは何もシャチばかりでは無い。彼女が心配で仕方ないのは自分含めて皆同じだ。

(それでもやっぱり、誰よりもいとをおもっているのはキャプテンでしょう。)

    それ故に大袈裟な、とも心配しすぎだ、とも言える筈も無かった。
    全て、確実に起こり得る事象なのだ。そっとペンギンがベッドを盗み見れば青白い顔のいとが目を閉じたままそこに居て、しかし生と死の危うい境界線の上を彷徨っていた。
    シーツの白に彩られたいとの姿にぞっとする。

「…今だってとっくに触れてるのかもしれないがな…」

    自嘲する男はのたりと揺れ動き乾燥した手を横たわるいとに伸ばしている。指を絡めて体温を分け与え、その心音を注ぎ入れているかの様にペンギンには見えてしまった。

「…いと…、」

    ローは切ないまでに彼女の名前を呼び続けた。たったひとつ、彼女の微かな体温だけが頼りのように小さな手を己のそれで握り締めながら。

    いと、いと。何処へも行けなくなってしまった迷い子が愛しい人を呼んでいる。彼女から己のもとへ舞い戻って来て、「どうしたの、ロー?」と声をかけて欲しい。いつものように、今の全てが悪い夢だったと言ってほしい。
    …そんな訳が無いのはわかっているのに、それでも震える声を何度も振り絞っていた。    
    おとこの望みはそれだけだった。