月光は変わらない、今の己にはたったそれぐらいしかわからなかった。叫んだ訳でも無いのに喉がひりひりとして重い。
あの部屋から飛び出してどれ程時間が経ったというのだろうか、閉じ籠っていた部屋から縁側へ出れば雨はすっかりと止んで夜の帳が降りていたのだった。
「いと…、いと…」
けれども照らされるのは己の体ばかりでその内側には暗闇だけがうずくまる。二人だけの場所である家が侵され穢された、何故いとはあんなものを此処に招いた、どうして、
その感情の名前を考える事すら拒み、口を開いた。呼ぶのはただ一人だけ。
「…いと、」
与えられた己の部屋、その隣のいとの部屋をちらりと見れば灯りも点かず人の気配は無い。わかっているのに馬鹿の一つ覚えよろしく彼女の名前を呟き続けた。
己の足元の影は言葉を重ねる度に暗くなっていく気配が、する。
「ぁ…ロー…、」
か細く、不安定な声が縁側に小さく響いて消えた。聞こえた方を振り返れば、少し離れた廊下に目を伏せ気味のいとが一人ぽつねんと立っていた。ずっと前から会っていなかったような感覚がローを襲ってくる。
「…いと…、」
「一人にしちゃって、ごめんなさい。」
閉じ籠ったのはローの方であったのにまるで自分に全て責任がある様にいとは滲んだ瞳を揺らしていた。ローが言い放った鋭い刃に塗れた言葉達を思い出さない様に硬く硬く蓋をして、気持ちを切り替える為に一度目を閉じる。
そして直ぐに苦笑いにも似た微笑を浮かべて、よかったら今からでも夕ご飯食べる?お腹減ったでしょう、と小首をかしげたのだった。
「…あれは?…もう消えたか…?」
「『あれ』?…あぁ。あのお兄さんはもう帰ったよ。」
悪かったって言っといてくれよ、と帰り際に彼もまた苦笑して玄関をくぐったのは随分前であった。それを今ローに伝えてしまうのは何だか憚られて、いとはもうこの家には自分とローしかいないことだけを伝えていた。
「今からだったら軽いものの方がいいかもね。…お茶漬けにしよっかな、」
「…いと、」
「なあに…?」
いとは何処か遠くの方からローが自分を呼んでいるような錯覚に襲われた。ローの、その仄暗い瞳がそれを一層に浮き彫らせる。何をこの子どもはおもい、願っているのかどうしても汲み取れない。それが堪らなくもどかしく切ない。
彼の気持ちは一体何処に向かっているのだろう。知りたいと、こいねがってもそれは今だ叶わない。
実際は精々数メートルの距離であるのに海を幾つも越えなければならないまでに遠くにその小さな『子ども』がいる様にみえたのだった。
「…いらねェ…」
絞り出された声にいとは心配そうに眉を顰めた。唯でさえ食の細いこの子どもは放っておけば絶食じみた真似を仕出かしてしまいそうなのだ。
「…いと、」
「どうしたの…?」
「…こっちに来い…いと…」
ローの瞳に影が落ちて、僅かにその小さな掌がピクリと揺れた。抵抗無くいとは子どもの近くまで歩いて行くと、視線を合わせる様にしゃがむ。ローは力加減も考えずぎゅうぎゅうと抱きついて静かに暗い瞳を閉じたのだった。
「…ロー…?」
子どもはこうやって時折、いとの体温に固執して――というよりいっそ依存しているとでもいうべき素振りをみせる。
「おれから離れるな…。…朝が…来るまでは、離れるな…」
離れる時間を後から付け足す様に囁いて子どもは更に腕の力を強めて、離さない。いとは胸の切なさから目を逸らして「うん。」とだけ頷いた。
「…私の部屋に行く?」
「あぁ、」
そのまま近くのいとの自室へ入って、ベッドに腰を降ろした。明日の朝、お風呂に入ろうと頭の隅で考えた後、ローの分の布団を彼の部屋から持ってこなくてはと思い立ち上がる。
「いと、どこへいく、」
その途端ひしりとローに抱き着かれた。ローの分の布団を持ってこようと思ってと言いかけたが、子どもの目がおおよそどの様な理由でも受け入れられない程に切羽詰まっていたのでいとは黙ってベッドに座り直した。
「…どこにもいかないよ。…一緒にいるんでしょう?」
「…、」
「…もう寝よっか。…ちょっと狭いかもしれないけど、どうぞ」
いとが先にベッドへ入って端に寄り、ローの為のスペースを空ける。子どもは無言でそれに従い、彼女に寄り添う様にシーツに体を沈めた。目を閉じれば自然にいとは子どもの小さな背中をポンポンと軽く叩いてあやし始める。その手を決して振りほどこうともしない子どもはようやっと得た己の安寧に微かな溜息をついていた。
(…ガキだったな、全くもって…)
そうやっておもい返すのは、どれもまだいとが自分の意思で動き、まだ己を見ていてくれていた時の優しい眼差しだけであった。懐古に甘んじていた閉じた瞳を重苦しく上げれば、細い管とそれが絡まる横たわったいとが視界に飛び込んでくる。
「…こっちが夢ならどんだけいいだろうな。なァ、いと…」
思えば、今まで自分が名前を呼べば彼女はいつも振り返ってくれた。何処に居ても変わらない柔らかいあの微笑みを携えて。
『いと、』
『なあに?』
遠くにいれば時に苦笑しながら、時にはにかみながら。それでもパタパタと駆けて来てくれた。
『いと、ちょっと来い、いいもんが見れる。』
『はあい。ロー、どうしたの?』
今はそれがない。眠ったまま何度呼んでも答えてくれない。瞳は閉じられこちらを見ないまま、いつ自分に背を向けて彼岸に渡ってもおかしくは無い。
いとは目の前にいてまだ微かな温もりを持っているというのに。
「…いと、どうして…」
声を出した途端不意にぞっとした。このまま彼女は眠ったまま死んで、己はそれでも呼び続けているんじゃないだろうか。馬鹿みたいに何度も。答えは二度と返ってこないのに。
「アァ…随分と笑えねェ、」
夢と言うにはあまりにリアルな情景。それはありえるかもしれない未来だ。
眠る恋人の前でローは襲い来る恐怖に喉を締め上げられてしまった。
もう、声も出ない。