Beautiful name | ナノ



 
「…いと、」

    思えばあの時も、いとのその名前を馬鹿の一つ覚えの様に呼んでいた。
    『あちら』世界での事だ、強い雨が降り始めた午後だったと、よく憶えている。

「…な、俺めっちゃ見られてないか?…いとが預かった子、だっけ。スゲぇこっち見てる…」

    本人は小声で話している様であったがその声はローへと届いていた。当然だ、同じ部屋にいるのだから。一定の距離を置いて子どもは剣呑な光を宿してボソボソと呟く男を睨め付ける。

(なんでこの男はここに、居る?ここはおれといとだけの場所だろう、)

    その日もいつもの調子で部屋に籠って、見慣れぬ文字の本を眺めていた。適当に積み上げられている背表紙はカラフルで、図鑑が割合を多く占めている。…全ていとがお節介にも用意したものだ。
    『暇潰しになるかな、って思って』と取り出した本を間抜けにポカンと眺めたのは記憶に新しい。二十を越える男に随分と幼稚なモンを、と思ったが『見てくれが子ども』と成り果てた己は文句を口走ることすら今更すぎて億劫になっていた。
    しかし己はこの女が構ってくることに満足していることもまた事実。

『…読んでやらなくも無い。』
『うん。他にも欲しいものがあったら教えてくれると嬉しいな。』
『いる時はな、』
『…これから私、学校に行かなきゃいけないけど…本当に一人でお留守番、大丈夫?』
『粗方は出来る、適当に放っておけばいい。』

    普段はこんな素っ気無い態度のローは、時折例えるならお使いの途中で迷子になってしまったような顔をする。それは大人びた雰囲気を醸し出している時程顕著に現れていた。いとは目線を子どもに合わせる為に身を屈め眦を下げる。ローのこの瞳がどうしても切なくて、矜恃高いこの子どもを導くことは出来なくても、せめて暫しの憩いを提供出来るようにはなりたかった。

『早めに帰るからね。…今日の夕ご飯、ローの好物にしよう?』

    子どもは子どもで、『子どもらしく無い』と己に奇異の目を向けるでもらしさを強要する訳でも無いこの女を嫌ってはいない。
    いとの隣はひどく、心が凪いだ。

『…焼き魚が食いたい。』
『ふふっ、はあい。もしよかったら、だけど帰ってから一緒にお買い物行く?』
『暇が潰せるなら、』

    うん。それじゃ昼過ぎには戻るからね、と後ろ髪を引かれる様に『大学』へと出向いたいとを見送ってはやもう昼過ぎ。

「ただいまー。」
「…、」

    その声とともに聞こえた引き戸のからからという音と軽い足音。『子ども』は緩慢な動作でその方を眺めて、音のする方へとノタノタと歩を進めた。
    やっと帰ってきた、はやく己の傍らへ戻れいと。『本来の姿』ならばあの女が何処へも行かない様にすることなど容易い筈であるのに。とその感情の名前も付けられないまま、空恐ろしさを持て余していた。

「いと、遅…。…それは何だ…?」
「…それ扱いかよ…」
「あ、はは…遅くなってごめんね。…ほら急に雨降ってきちゃったから、」

    見慣れ無い男が一人、いとの隣にさも当然の様に立っていた。途中まで一緒に帰ってきたらしいいとと同年代のひょろりとした男は確かに雨に濡れていて、髪が湿気ているのが見て取れた。心が凪ぐ女が、やっと戻って来たというのに。どういうことだこれは。
    この家はいとと己だけの空間でそれ以外は不可侵である、と何時の間にか己の中で定義付けられていた。にも関わらず、この男はそれをあっさりと踏みにじる。

「ごめんなー。小降りになるまで頼むわ。」

  慣れた調子で上がり込む男を無言で睨み上げる子どもに違和感を感じたいとは『突然でごめんね』と視線を落とす。不可思議な登場をした子どもは警戒心が強いことをいとはよく知っていた。

「びっくりしちゃったかな、」
「…別に。」
 
    口には出さなかったが内心はどろりとしたものが渦巻いている子どもは、あいつはここに不必要だと無言で唸っていた。早く追い出せばいいものを、といとさえにも強い視線を向ける。

「…いと、夕飯を、

    買いに行くんだろうが、と言い切る前にあっけらかんとした声が子どもの言葉を遮った。子どもは眉間に皺を寄せる。不快感を取り払おうとした筈が遮られて更に神経を逆撫でられた。
 
「いとー、ついでに古典のレポート見せてくれよー。全然やってねぇ、ヤベェ。」
「えぇ…!?あれ提出明日だよ、」
「…教えていただけませんでしょうか…いとサン…実はこれ狙ってマシタ…」
「…もぅ…」

    丸写しは駄目だからね、要点だけだよ。と困った様に笑ってからいとは気遣う様にローに声を掛ける。先程からの眉間の皺が気になる。
    何時もなら子どもを和ませる様に『伸びろ伸びろ』と撫でているのだが、知らない男の手前でこれをすれば子どもの機嫌はかえって悪くなりそうだった。
 
「ちょっとだけ、お話してくるね。」
「…、」

    小さなその眉間を撫でる筈の、その手を引っ込めパタパタと男を追って行ってしまったいとの背中を眺めながら子どもは不機嫌さを強めていった。どうしておれよりあんな男を優先するんだ、とほの暗い感情を己自身で制御出来ずに持て余す。

「あ…ロー?どうしたの?」
「…、」

    気が付いた時にはローはいと達が居る部屋へと足を踏み入れていた。二人は低い机を挟んで床に直に座って本やノートを開いていた。子どもはそれに視線を向けたが、ミミズがのたくったような字が並ぶばかりで意味など皆目検討もつかない。

「…俺めっちゃ見られてないか?」
「…、ロー、どうしたの、顔色悪いよ…?」

    小声で呟く男を出来るのであれば今すぐこの場から消し去ってしまいたかった。
    いとも、いとだ。ここはおれ達だけの場所で、異物はこの男の筈だ。ここにはおれといとだけ、おれにはいとだけしかいないのに。いとはそうじゃないのか。おれよりもこんな男を、
    いと、いと、どうして、
   祈りのように嘆きの様に、いとの名を心の中で、心から呼んでいた。
    何度も何度も、それしか言葉を知らない様に。叫びにも似た声で。

「おまえはそうやって媚びるのか、簡単に招き入れて、」
「…ロー…?」
「そうやって…都合の悪いものは見ないフリをして、」
「え…、」
「自分の思い通りにならない時は、泣くんだろ…?」
「…っ!!」

    途端にビクリと体を固まらせるいとを嘲笑う様にローは目を細めた。ほら、こう言えば泣きだしそうになったではないか。お前はそうやって泣いておれの事しか考えなければいい。
    その感情の名前を知らないまま、ローはその感情に支配される。

「…何だこのクソガキ、いい加減にしとけよ…!」
「いいの、大丈夫だから…っ」

   勢いよく立ち上がる男を宥めようといとは切羽詰まりながら声を出した。その脳裏には嘗て嫌という程聞かされた、あの人達の暗く鉛の様に重たい声。毒を塗りたくられた言葉達。
    湧き上がるその感情にギリギリで蓋を閉めることに成功した。
そしてそのままローに笑いかける。貼り付けたわらい顔がおかしく見えていませんようにと願いながら。

「…ごめんね、ろー、突然のお客さんだったから驚かせちゃったね、」
「…、」

    予想に反して笑いかけられたことにローは無表情の下で動揺した。
    何故だ、いと。おれのことばはお前を泣かせるには足らないというのか。

「はー、オトナの対応だなーいとー。おれだったら暴言吐かれた段階で叩きだしてるわ。さすがキング・オブ・お人よし。」

    先程いとを庇うように立ち上がった男も呑気に座りなおしている。まるで何もなかった、あるいは大したことではなかった様だ。

「まぁ子どもの癇癪にいちいちつきあってても仕方ないってのはそうなんだが。しっかし全然わっかんねー。平安時代のバカヤロー」
「、もう、」

    この国の古語だというそれの解釈に戻った二人を見ていられず、その部屋を飛び出した。