Beautiful name | ナノ




『異海出身の人間が長期間生存した記録は未だ存在しない。』
『南の海で発見された異海人のデータ収集中、急激な衰弱とそれに伴う貧血が発症する。三日後死亡。』
『解剖の結果、大部分における内臓の機能低下がみられた。原因は不明。』
『主な死因は衰弱死である。』

「…なんだこれは、」

   医務室の机にうず高く積まれた医学書、記録。中にはペンギンの筆跡で殴り書かれたメモ。胸糞が悪くなる内容にローの瞳は仄暗さが強まっていった。その内容のどれもこれもが悲惨な結末で締め括られていて、いともまた同じ運命を辿るのだと念を押している様だった。
   今すぐに破り捨ててしまいたい衝動に駆られ、プライドなど踏みつけて大声で喚いてしまいたかった。

「ここの、書庫。クルーで手分けしてそれらしいもの探したんす。…それがこの記録で…おれたちも、いとちゃんの世界の人間、異海について調べたんすよ。」

   悲痛な面持ちでローと書籍を交互に見ていたシャチが肩を落としている。サングラスの向こうの瞳は滲んでいる。

「おれもあの後、キャプテンがいとちゃんを看てる間に『あそこ』と連絡取りました。」

    ペンギンもローと同じ考えだった様だ。膨大な知識を詰め込んだ『あの島』に電伝虫を繋いだと言う。求めていた情報は有ったが、しかし。その結末は絶望へと後押しするだけのものだった。
   ローはただ行き場の無い怒りがぐつぐつと沸き立った。その衝動に身を任せ、ガツンと書物ごと机を殴る。
   けたたましい机の悲鳴と、瞬間訪れる鎮まりかえった部屋。

「ふざけるな!」
「…キャプテン…」

   ぎりりと歯を食いしばり、口惜しさと怒りに満ちたローは床を睨み付けていた。
   睨んだところで黒い己自身の影しか見えない。

「『世界から拒絶されている』か、」

   苦虫を噛み潰した様に呟いたローに、ペンギンは重苦しく声を出す。認めたくないのはここにいる全員だったが、誰もがその『真実』に気付いている筈なのだ。

「あのちびの、クラバウターマンの言葉は…言ってた事は、本当だったんじゃないんでしょうか…」

   その言葉に眉間の皺を深めたローはクソッタレ、とだけ吐き捨てていとが横たわるベッドへと歩を進めた。

「…何も、できないのか…おれは…。いと…。」

    病人の証明であるかの様な、真っ白なシーツに全身を預けているいとをローはゆるゆると見下ろした。彼女もまたそのシーツと同じく血の気が無く、放っておけば色素が抜けてその存在すら霧散してしまう錯覚に襲われてしまった。そんな筈は無い、
   そんな筈など、

「…いと…、」

    気を効かせてか、シャチもペンギンも何時の間にか席を外していた。おそらく今頃ベポや他のクルー達に事情を説明している所だろうが、今のローには船の進路すら頭の中に浮かべられなかった。シーツの、その白さが己の脳内をも塗り潰そうとしている。
    白さを取り払おうと首を振って足下に視線を向けても、今度は真っ黒い影が広がっている。ぞわりとした己の背中には無視を決め込んだ。

「…横…座るぞ。」

    粟立つものに蓋をしてベッドの隣まで丸椅子を引きずってから、枕元に一番近い位置へとぎこちなく腰掛けた。微かに上下に動く胸元を確認して初めて、いとがまだここに留まっているのだと安堵した。

「なァ、いと…さっきの、クラバウターマンの言ったことは本当なのか?おれのことなんか欠片も信用してねェ、だったか…」

    いとの、返事は無い。
    瞑しているか、いないかの瀬戸際。
    彼女の方から聞こえるのはバイタルセンサーの無機質な電子音と管から流れ出る酸素の音だけだった。その無機質が男のやるかたなさを膨らませ続けた。
   所在無くなってシーツに散らばるいとの髪に触れて指先に絡めて、解く。

「いと、おまえから聞きたい…教えろよ、」

    此方に来たばかりの頃、よくいとは甲板を歩いていた。サラサラと風になびき彼女の髪の色が背後に広がる青い海原によく映えて、己は何度息を飲んだ事だっただろうか。そうやって想い出しながら声を絞る。

「じゃあなんでおれと一緒に来た?身一つで何もかも捨てて、」

    彼女がこの世界に持って来たものは、その体と心と、纏っていた白い服ぐらいだ。
    そう気付いてしまえば途端に白という色が憎くなった。こんな色にいとを塗り潰されて堪るか、と彼女の力無い手を取る。
    掠れそうな声で何とか言葉を絞り出しても、感情は深みにはまっていくだけだった。

「あぁ…おれが来いって言ったんだよな…。だからっていつか放り出されると思いながら来るか普通、」

    今度は細い手首に己の指を添える。癖の様に脈を計れば僅かばかりの振動が指先に伝わった。その朧げな振動だけを頼りにしてローは不自然なまでに尚も言葉を紡ぐ。

「…お前ならやりそうだな。お人よしが過ぎる。もう少し我を張るってことを覚えねェと損をするばっかだぞ、」

    いつもの自分のように皮肉を込めたつもりであったが、嘲笑いたい程にそれは単なる事実にすぎなかった。恋に狂ったおとこに腕を掴まれ引きずられて、家族とも友人とも故郷とも永遠の別れ。
   そのくせそんな苦痛を強いたおとこは呑気に『引き換えにどんな望みも叶えてやる』などと考えている。
    空から降ってきた得体の知れない餓鬼を自らの懐に入れてしまうような甘い女に、そんな望みなどある筈無い事は都合よく見ないフリをして。

「あっちでもおまえはそうだったよな。よく一人暮らしなんて出来たもんだ…なァ、いと…」

    その上事ここに至っては、強く握り締めていた筈の腕の先でいとが己の知らない間にその最後に残った命さえ失おうとしているという。
   その瞬間感情全てが締め付けられて己の存在が潰されてしまうのではないかと目を細めた。眉間に皺が寄るのを感じて、…あぁ、そうだった『彼方』でこんな顔をするといとは決まって「伸びますように、伸びますように」と目尻を下げてその場所を撫でたものだ。
    それは心の奥底を灯す様でもあったが同時に、子ども扱いするなと歯痒かった。よく憶えている。

「すぐ泣いてたな。…あぁ、だがおれはその涙にヤられたんだったか…」

    喋る度にずぶずぶと絶望に沈んでいく心地がしている。いとが返事をしてくれない。
    苦しみを幾重にも織り込もうといとは喋ってはくれない。どんなに眼差しを強めても、指を絡み合わせてもその柔らかいいとの声は己の鼓膜には届かない。
    ああ、だからだ。

「なァ…いと…こたえろ…」

    己が喋らないと沈黙が訪れて、そうすれば本当にいとが死んでしまった様な錯覚に襲われてしまう。無機質がずっと支配しているこの空間だからこそ喋らずにはいられなかった。

「…オイ、いと…!」

    そんな思考だけが千々に乱れるばかりでまともな言葉などドンドン頭から抜け落ちていった。

「いと…っ!…頼む、」

    そんな自己欺瞞が長く続く訳など、無かった。時間が過ぎれば過ぎる分だけ、己の心に重石が積み上がる分だけ無機質な沈黙はどんどん長くなる。
    己は。おれ、は…

「…いと…」

    もう、呼べるものは彼女の名前だけだった。