子どもは尚もヘラヘラした態度を崩そうとはせずに今にも自分を叩き切ろうとしているローを見上げている。しかし見上げられた男は応える気など微塵も見せず、沈黙に耐えかねたシャチが声を上げた。
「…精神のライン、って…何さ。」
「繋がり、だよ。つーなーがーりー。心…想い…大事なもの。命さえもゆらがす。お互いの想いが向き合っていりゃラインは繋がるの!さ!なのにね!」
「…何が言いたい、」
眉間の皺を深めて唸ったローを思わず振り向き見たのはペンギンだった。子どもの言葉がこの三ヶ月間の『二人の関係』を、自分達の認識を、ガラガラと崩していく。
「え、まさか、『あの時』いとちゃんが言ってたことって、このことなのか…!?」
「…おまえの言い方だとキャプテンとこの子が、まるで、」
挙動不審、目を白黒させ、それぞれ声を大にするクルー達に子どもは決定打を叩きつける様ににんまりと口を歪ませた。
「想いが繋がってない!しっちゃかめっちゃか!かな。君らが言わんとしているのは。」
「ふざけるなクソガキ…!」
上限が無いのかと疑う程に殺気の純度を高めたローの形相に慄くのはその二人のクルーだけで、向けられたその張本人は「いンや、」とだけ言い鼻を鳴らす。
「いンやいンや?君らが…いや、君の認識は間違ってないと思うよ。君はこの子が好きだしこの子だって君が好き。それは傍から見ればとてもよく分かることだよね?…だけど、ねぇ。」
ここに問題の端緒が覗いてるんだよ、と声を低くした子どもは海底の様な暗がりを瞳に落とす。
「この子の性格、よく考えなよ。」
「いと、の、」
ローはその言葉のままに今だベッドに横たわるいとを返り見た。風が吹いただけで消えてしまいそうな彼女は静かに、僅かばかり息をしている。見慣れた無機質な管が忌々しかった。
「いと…」
己が伸ばした手を取り、持ち得るものを差し出してくれたおんなだ。住む場所も温かな食事も。…ぬくい掌も、やわらかい声と眼差しも。あまやかな涙、さえ。
お人好しで。馬鹿みたいに、何でも、
「与える、だけが上手い…」
独り言じみた声に子どもは呆れ顔を隠さず「あぁ、それは知ってんの。」と囁き返す。
「なんもかんも、故郷だって捨てちゃってさァ。全部あげちゃったもんね…これからの人生を丸々『君』に上げた訳だ。… なのにねー。」
シャチ…君、だよね。この子が言ったの憶えてるの。さっきも言いかけてたし。と子どもはそちらを見上げた。ギクリと体を揺らすキャスケットを見つめたローは視線だけで「言え、」と促す。
「…初めて会った時に、『これからしばらくの間よろしくお願いします』って言ってたんスいとちゃん。」
「『しばらく』…?」
「まるで、暫くすれば自分は居なくなる、って言ってるみたいで…気になって。だってキャプテン達すげぇ好きあってるなぁってのが見てるだけでも伝わってくるのに!ずっと一緒に居るのが当たり前って思っちまう位で!…だからなんかの聞き間違いかなって…。それにここから出ても行く当てなんて無いし、」
でも、このちびがさっきから言ってるのつまり、そういう事で、と声を段々と小さくしていくクルーにローは目を見開いていった。一瞬絶句して口をわななかせてから漸く口が開く。
「なんでそんな大事なことをさっさと言わねェ!」
まるで自分が要らないもののような口振りでは無いか。期限付きで…そう、例えるならば己が何時かはいとを手離すのが前提になっているような台詞だ。
「いとはおれのものだ…。おれはいとを何処にもやる気は無い…!」
「いや、だからね、あの子はそうは思って無いんだよ。だからそんな台詞が出てくる。」
「…!」
「…なんもかんも上げちゃう子だからさァ、『そう思って無くても』君についてこの世界に来てくれた」
あの子と両想いになった後、こっちにくる来ないでしばらく揉めたでしょ?その時こう思ってたんだよ、『自分は君にとって今まで周りにいなかったタイプだから珍しいのかな?だからおれと来いって言ってるのかな?』って。そりゃこっちにくるの嫌がるわ。けど君があんまりにも欲しい欲しい言うもんだから仕方がないって諦めて、君が欲しがってるものを差し出しちゃった…『いと』っていうものの全部を、ね。
親も友人も故郷も全部捨ててさ。そうしていつか君が飽きたら、自分も捨てられると考えてる。
それでも君の望むまま、その命さえも差し出そうとしてるんだよ。
「そんな子、だもの。…そうずっと想ってる。あの子は君の事ちゃんと好きさ、ただ絶望的な想いの捧げ方をしてる。それがラインの断絶になった。それだけのことサ、」
「…!」
子どものほの暗い声に今度こそ本当にローは言葉を失くしてしまった。何だそれは何の冗談だ、ふざけるなと心だけが叫んでいる。その感情を読み取ったのだろうか、子どもはコートを揺らしてわらう。
「アハハ…!つまりね、あの子は君が自分を好きだなんて欠片も信じちゃいなかったのサ!」
「黙れ!」
今にも子どもの息の根を止めようと腕を上げたローを再び抑えたのはシャチだった。今はこの子どもから少しでも情報を聞き出さなければ、本当にいとの命が潰える。
腹立たしそうに皮肉る子どもにペンギンがとうとう堪らなくなって口を開けた。困り顔でローを眺めてから「…向こう、」と切り出す。
「…『あっち』で何があったんですか…いや、おれらが口を挟む事じゃ無いかもしれませんけど…」
「なんでそんなややこしいことになってるんスか…!!」
続いてローを抑えていたシャチも声を出してしまう。答えたのは、子どもだった。
「そりゃああんだけいじめ倒せばそうもなるわー。ただでさえ自分に自信のない子なのに。ねぇ?」
「……」
「好きな子をいじめるとか今時、十のガキでもやらないよ、」
記憶に蘇るのは『彼方』での事だ。
『おまえみたいな甘ちゃん虫唾が走る。』
『いつもそうやって男に媚びてんのか?』
いとのトラウマを抉るその仕打ちは、彼女の希薄だった自信を完全に奪うには十分だった筈だ。日なたに置いた氷のように見る間にそれは失われてしまっただろう。
『ロー、私は貴方のことが好きだよ。』
それでもいとは最後にはそう言って、己の手を取った。ほんの少しばかり諦めた、けれども柔らかな涙を湛えて。
己はその時諦める、という言葉の意味をもっと考えるべきだったのだ。
「わらっているからといって、心から笑っているとは限らない。これは君、良く知っているはずじゃない。逆パターンがすぐそばに居たんだから、」
「…、」
「彼女の国の人と付き合う時にはさ、時に"言葉にされなかった言葉"の方が大事なことがあるんだよ。…告白の言葉は『私は貴方のことが好きだよ。』だったかな、クラちゃん不可抗力で聞いてたんだけど。」
「だまれ、」
「それさ…どこかに"貴方が私を好きじゃなくても"という言葉が隠れてそうだよね、」
「黙れ、」
「あ、何度も言うようだけれども彼女は今世界によって絶賛排除中だから。このまま目が覚めずに心停止してそこでお終いって可能性もあるよ。彼女の末路その一って感じで」
「黙れェ!」
「ほんっとに、間抜けな話だよねー。」
子どもはただ、わらうばかりであった。