己が『能力者』であることは息をするに等しい。筈であったのに。
「いと!オイいとっ…!?」
人の手から放り投げられた操り人形の様だった。見張り台から真っ逆さまに落ちた薄っぺらな体は流星のような軌道を描き、何もない夕暮れの茜色に染め上げられていく。これ以上いとを赤に染めてなるのものかと半ば条件反射の様に腕を差し伸ばした。一言も思い付く事なく、馬鹿の一つ覚えの様に突き出された二本の腕はいとを掴もうとする。
途端、ズシリと掛かる体重。仄かな彼女の香りにホッと、した。だが、
「どうした…!?…気絶した、のか…?」
反応の無いいとに北の海よりも冷たいものが背中を走る。弛緩したいとの体はだらりと己へとしな垂れて、潤む瞳は力無く閉じられていた。
(…いやちがう、)
掻き消えてしまう様なその姿に思わずいとを抱きしめて、漸くわかった。あたたかな優しい体温が、どんどん低くなってきている。
低い己の体温より低い、その不快な温度に今度こそ全身が総毛立った。
これはちがう。
「シャチィ!!ペンギンッ!!どっちでもいい来いッ、此処だ!」
喉が張り裂けても構わないという荒々しい声でクルーを呼び付ける。その直後に聞こえ始めるバタバタという足音とドアが乱暴に押し開けられる音。バタン!と共に「どうしたンですか!?」と焦りと疑問を入り混ぜたシャチが顔を出す。
「点滴と!…輸血の準備しろ!こいつの血液型だ、今直ぐっ!!」
「…え、は?いとちゃんっ!?」
「何してる!?行けェ!」
「は、…ハイッ!!」
顔色が青白くなっていくいとに肝を潰したのだろう、たたらを踏んだシャチを叱り飛ばし医務室へと先に走らせる。
「…いと?いと、いと、返事しろ、いと…!」
いとの細い手首に指を押し当て脈を取れば、それは打つごとに弱々しくなっていく。体温も呼吸もこの暗がりに落ち消えていくかの様だった。
「待ってろ、直ぐに、」
起こしてやる。その声を飲み込んでいとの軽い体を抱え直し、次の瞬間には半開きのドアをつんのめる様にくぐり抜け、走っていった。…心はただ焦燥を訴えている。
「キャプテンッ!バイタルセンサーの準備出来ました!」
「ペンギン、点滴は!?」
「点滴も輸血も何時でも出来ます!」
「シャチ!」
「ベッドこっちです!」
それからはまさに怒涛であった。染み込んだ体の記憶だけで処置をしているのではないかと他人事の様に己の動く腕を眺めていた。腕の刺青を視界に入れて随分と経った頃、ドサリと乱暴に丸椅子に座り込む。
出来得る全ての処置を終えて、身体中に細い管を付けた、どこもかしこも青白いいとをローはぼんやりと見つめた。目尻を緩ませる柔らかな眼差しも、己の名前を呼ぶ甘やかな声も何も無い。優しいあたたかさ、さえも。男は無意識の内にいと、と口の中だけで呼んでいた。
どれ位時間が過ぎたかわからないが「タオルどうぞ、凄い汗ですよ。」とペンギンに言われてやっとハッとして顔を上げる。
「…あの、キャプテン…何があったんすか…?」
もう聞いてもいいだろうか?と及び腰になりながらシャチが座り込んだままのローに問い掛けた。叫び声に呼ばれれば力無いいとが己に抱えられていたのだから無理も無い。
「…急に、おちた。」
思い出したくも無い記憶が脳を塗り潰す。夕暮れに照らされた、たなびくいとの髪と宙ぶらりんの体が瞼に焼き付いて鳥肌が浮いた。
「見張り台から落ちて、それからは意識が無い。バイタルも見たまんまだ…異常に弱い。」
「原因に、心当たりは?実は何か持病があった、とかは…?」
「…いや…少なくとも『向こう』じゃそんな素振り見受けられなかった、」
その言葉にペンギンがピクリと僅かに身じろいだ。そうか、いとちゃんはそうだったよなと手を顎に当てて考え込む。そうやって独り言を呟いてから顔を上げて、いぶかしむ二人を交互に眺め見た。
「おれが考えた仮定、であるんですが…いとちゃんが『向こう』の子だからでは、ないんでしょうか?」
ローは嘗てのいとの家が頭を過ぎった。おおよそ雰囲気の違う作りの一軒家に、その門前を呑気に歩く人々。海の無い不可思議な街。
「むこう…あぁ、」
そう。彼女は元々、この海の人間では無い。
グランドラインの人間では無いという意味でも、ましてや他の残りの四つの海出身という訳でも無かった。いとは違う『世界』の人間なのだ。
その奇妙な出会いは一昼夜この潜水艇の長が掻き消えてしまった事から始まる。そして文字通り、空気を突き破って舞い戻った男の腕に引かれて来たのが、このいとであった。
「…クラバウターマン、が原因って言ってましたが。」
総て、この一連の奇妙な出来事を巻き起こした原因はこの潜水艇に宿る精霊の所為であった。…何故そこまで言い切れるのか、なんて今となっては愚問だ。何せ当の本人がいとの下へ現れて言ったと聞き及んでいるのだから。
「…!そうか…あいつだ…!!」
「おわっ!?」
ペンギンの声に弾かれた様に立ち上がったローにシャチが驚いた声を上げる。そんなシャチなど目にもくれず、カツカツと真っ直ぐに壁まで歩いて行くと男は何を思ったのか足を後ろに振り下げ、そのまま勢いよく前に出す。ガツン!当然響くけたたましい硬い音。
「出て来い!いるんだろうが!」
「きゃ、キャプテンっ?」
裏返った声で男を呼ぶシャチは突然の奇行になす術無く右手を宙に彷徨わせるだけである。ペンギンはややもあってから合点がいったのか「そんな簡単に呼び出せるんですか。」と男を見守っていた。
「え、キャプテン、クラバウターマン呼んでる?もしかしなくとも!?」
「だろうな。」
「えぇ!?蹴って出てく「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」
「…出たな…狂言回しめ、」
「本当に、こいつが…そうなんですか…?」
音も無くローの真後ろに現れたのは、紛れもないコートの子ども。実際にまともに話すのはこれが初めてであるが、いとが話していた子どもで間違いない。
「いよっ、こんちわまたまたっいいお日和でげすなっ。とか言ってみたり!」
「うわ、なにこいつ。」
ふざけているとしか思えない言動に、大袈裟な身振り手振り。演技じみた恭しいお辞儀を遥かに自分より高い身長の男達に披露するとニンマリとわらう。
「あ、今ウチのことウザッて思ったなら正解ですから。今ウチはウザさ倍増キャンペーン中だから。」
しかし皮肉めいたニコニコ顏に構う余裕などこの男には無かった。頭にあるのはただ一つ、いと。それのみ。うねる感情を喉から吐き出せば忽ちに唸り声となり、それはコートの子どもに覆い被さってくる。
「テメェ、こいつがこうなった原因知ってんのか。知ってたら包み隠さず話せ、」
「うっわ怖。クラちゃん超怖い。余裕がないと言うか遊びがないと言うか、いやはや…突き詰めて考えるならそれが原因なのにね。」
相手を凍りつかせる様な男の視線に子どもは肩を竦めて、やれやれ。と溜息をついた。噛み付かんばかりに睨んでくる男と呆れる様な顔の子ども。実に奇怪である。
「ふむふむ…君らわかって無い、と見える。しゃーないなー…もー!」
ローの事などお構い無し。こきりと首を回した子どもに遂に男は堪忍袋の尾が切れた。利き手を上げて小さく呟けば一瞬にして現れる己の愛刀。その柄に力を込め、白刃を晒そうとする。
「タンマ!落ち着いてキャプテン!」
今にも抜刀しそうなローの利き手を慌てて掴み「おまえも煽んなよ!」と子どもを見下ろした。しかし子どもは尚も態度を崩す事なく男を抑えているシャチに呑気に口を開いた。
「君!ローよりも冷静だから答えてよ。…体内に異物が入った時の生体の防御反応はー?」
突然の問い掛けにどもるシャチであったがこの子どもの独特の雰囲気にのまれてしまったのだろう。問われるがまま声を気付けば出してしまっていた。
「え、えーっと、非自己物質と認識して免疫系により排除、ってあ、」
「そ。この娘は当たり前だけど他の世界の人だから、この『世界』にとっては異物なわけ。だから今絶賛排除中。わかった?」
これでご理解いただけたー?と間延びした声をローに送ったが男は鋭さを強めただけである。視線で人を殺せるならこの男は一体何度子どもを葬った事だろうか。
「ふざけるな。それならもっと前からこうなってる筈だろうが。いとがこっちに来て三ヶ月だ、三ヶ月経っている…。それ程持ったなら、それを回避する方法があるだろう。」
動きを縫い付ける様な視線を子どもに向け続ける男の声はどんどん低く剣呑になっていく。
「もったいつけてねェで話しやがれ」
最後の一声は猛獣の威嚇と言って差し障り無いものである。
「えー、だってクラちゃんが知ってる方法はもう全部試したもん。こっちに来る前にやった血の呪いで血液のラインを繋げてー、こっちで体を重ねてそこでもラインが繋がってる。あとは精神のラインが繋がってれば理論上は大丈夫なはずなんだって、」
そうさ。精神の…心のラインが繋がってれば、ね。
子どもは胡乱な眼差しをのそりと猛獣に向けていた。