気が、狂いそうな痛みだった。
『入れ換えた』いとの臓器は診断と寸分違わずボロボロに傷み、弱り切っている。機能している事が奇跡、まさに文字通りであった。
今それは弱々しくもローの体の中で、男の体温に包まれて懸命に脈打っている。
…激痛を、伴って。
「ろ、…っく、う…」
「いと、大丈夫だ、おれ、が…いる…、」
深く吸い込まれてゆくのは己の意識か、それとも命そのものなのか。
境を無くすまでひしと抱き締め合い、お互いのぬくもりだけを支えにしてその苦痛を耐え凌いでいた。荒波がうねる嵐のど真ん中に投げ込まれた小舟の様な心細さも不安も、ローは総て『いとを護る』、その唯一にして至上である想いで掻き消しているのであった。絶対に気絶などしてやるものか、と男は奥歯を噛み締めていた。
「…ろー、ごめん、ね、いたいよね、」
「ばか。いとの方が痛いだろうが、」
「っう、」
「喋らなくて、いい…しがみついてて、くれ、」
「あ、ぁあ、…ろー、ロー…」
「いと、…いと…ク、」
この苦痛は今までいとが耐えてきた『いたみ』のほんの一部でしかない。彼方の世界でのあの諦めた様な微笑み、此方側での切なすぎるまでに一途で悲しい献身…数え切れないいとのいたみは、緩やかに死に至る絶望へと彼女を引き摺り込んでいたのだ。
己はこれくらいの事で音を上げるなんて許されない、彼女のいたみを全て贖うのだから…気絶しているなんてお話にならない。
「いと…っ、」
激痛の巨浪に飲まれながらもおもうのはただ、いと。やさしい優しい、唯一人のおんなの名前を許しを乞う様に何度も呼び続けている。抱き締めたいとと離れるなんて考えつかず、負担にならない様にとゆるゆると腕を回した。変化の苦しみに震え忍ぶいとの背中を摩って、時折小休止を入れる為に深く息を吐く。掌、いや己の体中びっしりと脂汗が浮いていた。
「いと…、いと…」
彼女の名前を呼ばなければ息が出来ない。もう錯覚では無いと言い切れてしまうまでいとの名前を呼び続けた。何処までも真っ直ぐなローの想いは声となって、痛苦の嵐を潜り抜けいとへと降り注ぐ。
「ロー…」
いとの声は掠れて静寂にとけていく。
どれ程まで、時は過ぎたのであろうか。
嵐が鎮まった後、動きの鈍くなった瞼をローはゆっくりと開いていた。こめかみの汗が流れ落ちて、ひと息入れる様に喉を上下に動かし、そうしてそろそろと目線を下方に向ける。
「…いと?気を、失っている、のか?いと?…いとっ?!」
「…」
「いとっ!」
己の汗ばんだ腕の中にいる、微動だにしないいとに血の気が引いた。目に飛び込んで来た光景に一瞬ビクリと肩が跳ね、転がる様に起き出すとローは慌ただしく、そして乱雑に聴診器を引っ掴む。
「バイタル…それに、血液の検査、」
慌てていた所為でカルテや体温計が床に落ちて散らばっていったが、ローは気にも留めず彼女の数値を測っていた。先程までとはまた違う汗が頬を伝って落ちるのだった。
「…っ、はー…、」
数値全てが改善傾向にあった。己の臓器はヘマをする事無く彼女の中で機能しているようだ。その数字を食い入る様に眺め何度も確認してから漸く、ローは腰が抜けるほど安堵した。実際ベッドの隣に置いてあった丸椅子にへろへろと座り込んで大きく溜め息をつく。
「いと…、」
半ば呆然としながら安堵を声にすれば、自然と彼女の名前となって口から零れ出していた。傍らのいとの頬は未だ青白いが直に温もりが蘇り、うす紅色が注すだろう。
そうやって暫くの間いとをぼんやりと見つめ続けていたが、乱れた髪にようようローは気が付いたのだった。直してやろうと手をするりと伸ばすとその瞬間に彼女の睫毛がぴくりと揺れる。
「…っん、」
「!、いと、」
身じろいだいとに瞳が開いて腕の動きが勝手に止まってしまった。どきどきと走る心臓は彼女のもので、ひときわ熱く疼いたかと思えば熱は胸を広がり埋め尽くす。…得も言われぬ感動が押し寄せて来たのだった。
その驚きは震えとなってローの指先を小刻みに揺らしてしまう。
「ろー…?」
微睡みから抜け出たばかりの眼差しは、咲き始めの瑞々しい花によく似ていた。いとは目をゆっくりと開けてその姿を瞳に捉えると、彼女はローにだけに向ける愛おしそうな微笑みを浮かべるのであった。
「…おはよう、ロー…」
余りにも美しい、無垢で縁取られた花の微笑みにローは目を剥いて動けなくなってしまった。お互いの間に一拍静寂が通ったかと思えば、次の瞬間何かが一つ、ぱた、と落ちていく。
何だろう?といとは音が落ちた先へと視線をずらす。シーツが小さな丸い染みで、僅かばかり濃くなっていた。
「ロー…。」
ローが、泣いている。
「お、おは、よかっ、よかった、」
いとの中身を半分引き受けたから、だろうか。理由はわからない。今までどんなに苦しくとも、涙なんて出たためしは無かったというのに。痺れる様な迸りは尚も男の意思とは正反対にぼろぼろ零れ落ちていく。
「なんだ、これ、っくそ、とまんねェ、…〜っ、」
暫し様子を伺っていたいとであったが、ややもせず体をゆっくりと起こした。寝ていろ、と暗に眼差しで語るローに「辛くないよ、だいじょうぶ。」と穏やかに微笑みを向ける。
「ローもだいじょうぶ…?」
「、っ」
声を言葉にするのが難しく、ローは一つ覚えの様にただ首を縦に振る。目尻をゆうるりと下げたいとはその手を震える黒髪に伸ばして、男の名前を呼んだ。
なすがままローは頭をいとの首筋に埋め預けると、彼女はそっと後ろ頭を幼子にする様に柔らかく撫でるのであった。
「ありがとうね…ロー…」
「いと、」
「助けてくれてありがとう…。私の為に、泣いてくれて…ありがとう…。」
「ぁ、あぁ、」
優しくて柔らかないとの言葉と、温もり。ゆりかごに揺られた様に夢見心地になってしまう。遂には抵抗する気も無くなってローは素直に、すんすんと鼻を鳴らしてしまっていた。あろう事か、いい歳の男が、ハートの海賊団のキャプテンが、と頭にはちらつくのだがいかんせん止まらないのだから止めようが無い。
その間中いとは甘やかす事を止めずローの髪を梳いて、背中に腕を回してやるのだった。ありがとう、と静かに想いを込めて愛おしさで弛めた眼差しをベソをかくローにおくっていた。
「…いと…」
「…はあい、」
「眠ィ…」
泣いているとドッと気疲れが出て、瞼が重たくなってきてしまう。酷く安堵した所為もあるだろう。未だに痺れた様に動かない喉に見切りをつけたのかローは唇を閉じ、代わりに口付けをいとへと贈るのであった。耳たぶ、瞼、両頬。そして唇に。
「くすぐっ、たい…」
「…ん、いと、」
態と音を立てているおとこに、いとはときりと心臓が揺れてしまう。…これを愛おしいと言わずしてなんと言うのであろうか。この音はローが与えてくれたものだと想えば殊更に、胸のあたたかさは膨らむのだった。
「ねる…いっしょ、に。」
「…うん。」
緩やかに抱き直され、二人してベッドの上にポスンと転がればローは瞬く間にすうすうと眠りの世界へと旅立ってしまったのだった。眉間に皺が寄っておらず、それを眺めたいとは一度はにかむとそろりと頭を男の胸に預けて瞳を閉じる。微かな鼓動の音はローのもので、そして自分のものでもあった。
「…ゆっくり…休もうね…」
穏やかな海の中を揺蕩う様に進んでいる、微睡みの心地はいとをも眠りの奥へといざなおうとしていた。
いとは、そしておびえる事なく瞳を閉じたのだった。
瞳から零れたひと雫だけがその拍子に彼女の頬をするりと流れ、穏やかに眠る二人の傍らで小さな光を生み出していた。
…二人が寝息を立てていれば突然、毛布だけがひとりでに動いてローといとにフワリと優しく掛けられる。慈しみに溢れた空気をまとった、誰かの仕業で。
『しあわせに、なるんだよ。』
その気配はやがて、波間に掻き消えてしまうぐらいの微かな呟きを残し…そしてフッと消えたのだった。
おしまい。