Beautiful name | ナノ



「ROOM、」

    ベッドにいとは横たわり、ただじっとローを静かに見つめていた。真剣な顔付きの男は何時もと寸分たがわぬ言葉を発する。そう、何時もと何ら変わらない…呼吸する事と同義の、『能力』の発動であった。不協和音が一拍だけブゥンと響き、辺りは半球状の"手術室"で覆われる。
    後はいとの主要臓器をローのそれと半分ずつ入れ替えるだけであった。いとの心臓を、生命を維持する他の臓器を己の手で、
    
「…っ、」

    途端血の気が、ざあっと音を立てて引いた。
    生々しい臓器の重みと脈打つ振動が掌に不意に蘇ってくる。急に固まってしまった青白い顔のローを心配してか、いとがおずおずと見上げて話しかけてくる。

「ロー、顔色が悪いよ…辛いならやっぱり、」
「!」

    痛々しいばかりに肩は跳ね、震えながらローは己の掌を呆然と眺めていた。
    能力が発動しない。どうして。おかしい、何故だ。
    何一つ変わらぬ過程であるのに、

「違う。違うんだ、」

    一瞬で駆け巡った思考の羅列にローは己のアイデンティティが崩れ砕けていく錯覚を覚えた。今まで生きて積み上げた『不変』である己のオペオペの能力が、錆び付いて軋みを上げる。発動しない、馬鹿な。と男の自問自答は繰り返された。

(ちがう、ちがう…)

    半ば恐慌状態に陥っていた。己の脆さが浮き彫りになってしまった感覚に男は心中悲鳴を上げる。
    去った筈のあの絶望の影が再び両足に巻き付き、淀んだ底に引き摺り下ろそうとしてくるかの様だった。

「…!ロー、どうしたの?震えてる…」
「いと、ちがうんだ、」

    瞳孔さえも震えるローに気付いてしまうのは必然であった。いとは一度体を起こし冷や汗の流れる背中をゆっくりと摩って、時折赤子をあやす様に優しく叩き宥めるのであった。

「…能力が、出ない…」
「オペオペの…?」

    いとのたわやかな掌で、ローは幾らか落ち着きを取り戻す。冷や汗に不快を感じながら男は言葉を選んでいった。

「空間を、能力で包む事は出来た…だがそれから先が、」

    喉から声を必死で絞り出しながら、ローはそれでも何とか原因を探ろうとしていた。今だにその大部分をパニックで塗りたくられているが、いとを治すんだろう、冷静さを手放してはならないと己の心を打ち据えて叱咤する。

「体の調子が悪いから、とかかな…?」
「いや。おれは至って健康体だ。」

    順序よく物事を考えていけば自ずと原因は浮かび上がってくる筈だとローは呼吸を整える。冷静になれ、今ここで己がしくじる事などあってはならないのだ。何一つとして。
    身を任せてくれて信用してくれているいとをこれ以上不安にさせてなるものか、と硬く拳を作りローはひとつずつ思考を整理していく。

「少し試させて、くれ。」
「うん、」

    考えられる原因を一つずつ潰していく為にローは先程と同じ言葉を口にしようとした。枕と、近くにあったペンを引っ掴み隣に放り「ROOM」と声にして能力を呼び出す。忽ちに辺りは半透明のサークルで包まれ、慣れた手付きで指を動かせば枕とペンはいつも通り『入れ替わる』のだ。

「能力自体に問題は無ェ。」

    ならば、とばかりにローは右手を己の胸に押し当てて躊躇う事無く能力を呼び出す。どくん!と鼓動が響いた次の瞬間にはその手の内にはローの心臓が小さなキューブに覆われて現れていた。いつも通りの重さと温度である。そして再びそれを胸に押し付ければ、難なく心臓は元に戻った。

「…あの、ね。」
「…?どうした、いと…」
「もしかしたら、私が彼方の世界の人間だからローの能力が及ばないだけかもしれなくて…」
「…確かにその可能性も考えられる」

    苦虫を噛み潰した顔でローが頷くのを見てからいとはそれと、もう一つとゆっくりと声を出していた。酷く悩む男を見るに忍びなく、出来る事なら思い詰めないで欲しい一心からの言葉をローへと伝える。

「…もしかして、私のこと身内だと思ってくれてるのかな、って思っちゃって…」
「だからそれ以上だと…おれの命よりも、と何度言ったら…」

    恐る恐る、といった態でいとがローにか細い声を掛けていた。突然の問いかけに静かに驚いたローは溜め息と、己への苦笑混じりの声音を洩らすのだった。

「…"医者は身内の手術は執刀できない"って聞いたことがあるの。」

    ローのその声に泣きそうな微笑みを一つ浮かべてからいとは静かに呟いていた。

「なんだそれは。おれは身内しか手術したことねェぞ。」

    訝しみながら応えるローに彼女は少し意味合いが違ってね、と尚も言葉を続ける。

「どうしても助けたいって感情が入り込むから…冷静に手術出来なくなるの。だから成功の確率が下がるし、それに失敗したら自分の手でその人を殺すことになるでしょう?」

    昔、大学の講義でそんな事を聴いて…と静寂にとり囲まれたままでいとは話すのだった。

「だからローに軽はずみにお願い出来なくて、」
「いと?」
「試して…みる…?さっきのを…その…、私の心臓で」
「っ!?」

    このたった一言で全ての悪条件を理解してしまった。うず高く積もった困難に眩暈すら起こしてしまいそうだった。
    執刀の経験は多い。だが今まで『明確』に救おうとしての手術の数など片手の指で事足りてしまうのだ。その他の大部分は実験であり、失敗しても己にとっては精々『残念だった』程度のものばかりなのだ。
    今回は違う。そう、『違う』のだ。
『絶対に失敗できない』
『成功の確率が全く分からない』
『自分の生存本能を押さえつけなければいけない』

「…っ、クソ…」

『失敗したら己の手でいとを殺す感覚が残る。』
    例え手術が成功しても、いとの体が術後の変化に付いていけるかというのも全く分からなかった。確かに己の能力での手術なら負担はほぼゼロだ、だが。拒絶反応はどうなる?
そもそもこの手術は彼女の体を変化させる事が目的なのだ、その時衰弱しきったいとの体はついていけるのか?
    その可能性にローは心の芯から怯えてしまう。

「クソッタレ…ッ!」

    ローの動きはぎこちないものに変わっていく。彼女の命を己が刈り取ってしまうかもしれない。あの、心臓の痛みに耐えかねて胸を抑え、苦痛に喘いで震えるいとの姿が浮かんでくる。その意味に男の指先からどんどん体温が消え失せて氷の様に冷えていった。

(今、発作が起こったら、)

    本能が、彼女の死を拒む。

「…!」
「ごめんね、ごめんなさい…私、余計な事言っちゃって、」
「…いとの、所為じゃねェ…!」

    『拒む』理由を自覚した途端、ローの手は強く震え出す。震えるてのひらを何とか止めようと手を握り締め、それでも止まらず遂にはベッドの金具に打ち付け始めてしまっていた。

「ここで手術しなくたって…!おれがこいつを殺すことに変わりねェだろうが!震えてねェで動きやがれ!」

    唇はわななき、顔に血が集まってくるのがわかった。醜態を晒す事も厭わずに捨て置いて必死に震えを止めようとしたが、どんなに力を入れて手のひらを握っても…汗が出てくるばかりで、掌はかたかたと震えているままだった。

「チクショウ、チクショウ……!」
「ロー、お医者さんが手を痛めちゃだめだよ。」

    握り締めすぎてローの掌からパタパタと鮮血が溢れ落ちシーツに赤い滲みを作っていった。目を見開いて声を失くしたいとであったがそれも僅かな間で、血の出てきた拳にそうっと触れて撫でるのであった。

「ロー、大丈夫…だいじょうぶだからね…」

    力を抜こう、ね?そう言っていとは目尻を下げていた。瞳の奥には雲が出来て、今にも涙が降り出しそうな面持ちであった。しかし彼女は柔らかな声音のままだ。

「だが、」
「…そんなになってまで、助けたいと思ってくれて嬉しかったよ…。『自分の命よりも』って言ってくれて、本当に幸せ者だね、私は。ありがとう、ロー…」
「どうして、おまえはそんなに、」
「…それにね、」

    不意に涙を降らすのを止めて、いとはゆるりゆるりと甘やかな微笑みをローに差し出していたのである。瞠目したローは黙って見つめる事しか出来ない。

「ふふっ、結婚式の誓いの言葉みたいで…嬉しい…」
「?」
「私の世界では、結婚するときに神様に誓うのよ。」

    あなたはこの者と婚姻し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり共に歩むことを誓いますか。
   それはいとの柔らかであたたかい声で彩られていく。

「とても尊い言葉で、素敵なおもいが詰まっているんだよ。」
「…もう一度言ってくれ、」
「?…うん」

    世界で一番うつくしい言葉を聞くようにローは目を閉じて聞き入っていた。力の入った掌は彼女の声で弛められ、血は乾き始めている。

「"あなたは、この者と婚姻し…神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、これを…愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり共に歩むことを誓いますか"」
「…。」
「"誓います"」
「え、」
「だいすきよ、ロー」

    聖母の様に微笑んでいる愛おしいおんながローの目の前に、居た。
   
「いと!」

    琴線がかき鳴らされて気が付けばローはなりふり構わずベットに乗り上げて、愛おしいおんなを抱き締めていた。
    心は極彩色に染まっていき、かけがえのない想いが次から次へと湧いてくる。ローは身を尽くして、その総てをいとに捧げたかった。

「おれも…」
「なあに?」
「おれも、"誓う"。」
「ろ、」
「…それに今なら出来るかも知れねェ。」

    ローはそっといとに見せる様に両手を持ち上げていた。震えが止まったてのひらが二つ、彼女に差し出されて何かを待っている様子であった。

「…いいか…?」
「…はい。」







    皺の寄ったシーツのベット。その上でに抱きしめ合いながら横たわっていたのはローと、いとであった。穏やかさが醸し出されて二人の眼差しは柔らかい。

「汝、トラファルガー・ロー。…あなたはこの者と婚姻し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。」
「…、」
「…あなたはその健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、…そのいのちのかぎり共に歩むことを誓いますか…?」
「誓います。」

    いとが紡ぐ、美しい言葉達。その声は己の心に何度も暖かさを注いでくれる。心からの愛しさで満たしてくれる。
    優しい、いと。
    愚かなおれを愛し続けてくれた、美しいおんな。
    ぎゅっと、それでも硝子細工を扱う様に抱きしめて、男は意を決した。固く瞳を閉じる。

「"シャンブルズ"」