目の前の霧が一気に晴れていく感覚だった。何故気が付かなかったと我ながら呆れ、次いで高揚に似た昂りが心中を支配して動悸が増していった。
これでいとをこの世に繋ぎ止めておける、その猶予が手に入った。ローは彼女を見据えて「構わないだろう?」とだけ言い肩に置かれた手を離した。そして間を少し開けて指を絡ませ様といとに手を伸ばす。しかし男とは裏腹に彼女は戸惑って…いや躊躇っている様子であった。困ったと如実に眼差しは語り、伸ばされた男のその指先を僅かばかり絡ませたばかりである。
「ちょ、ちょっと待って、私とローの臓器を入れ替えるって…。」
「??…まァしばらくは二人仲良く闘病生活だろうな。だがそれがどうした。」
ローにとってはようやっと見つけた解決策だったのだ。この猶予で己は、今度こそいとに愛を伝えていくのだ。周り全ての禍いから護り、いとの『総て』を愛しむのだ。実行しないという選択肢などローはハナから切り捨てていた。
分からないのはいとのその困り顔だけである。それが純粋に分からなく眉を僅かに顰めてはローはつい、問い返していた。
「そんなことしたら、ローの身体が、」
自分の体の『ボロボロさ加減』は嫌という程、いとは身に染みているのだ。そんな自分の中身をローに引き受けさせるなんて、とそれこそ心が引き裂かれそうになった。声が詰まりあくあくと口だけが動いて、いとの指先は頼りなく震え始めていた。
「だって…だって、ローは"ひとつなぎの大秘宝"を見つけて海賊王になるんでしょう…っ?」
視界が涙で歪み、頬に生温さが伝っていった。嘗て、その夢を聞かせてくれたのはまごうこと無くこの男だ。まだ見ぬ先のその望みに、男は瞳に深い焔を灯していた。いとは昨日の事の様に鮮明に憶えている。だのに。
「…じゃあ、この海を進んでいくのに…私のボロボロになった身体なんて引き受けるような事しちゃだめだよ。例え半分でも、だめ。…お願い…、」
グランドラインは甘くなんて無い。雄大で美しいこの海は人間なんて知ったこっちゃ無いのだ。晴れたと思えばその次の瞬間にサイクロンが前触れも無く襲ってくる、そういう海だ…ここは。それはこの世界に馴染めていない自分でさえ分かり切っているというのに。
そんな危険と隣り合わせの海を渡るというのに、自分の弱り果てた臓器をローに?健やかに生きて欲しいとこれ程までに願ってやまないのに、
「弱った私の身体じゃローを支えきれないし、戦えなくなっちゃったらどうするの?ローを慕ってついてきたみんなが困っちゃうよ…っ」
必死で言い募るいとの姿に男は心臓の底まで揺さ振られた。自分自身の命よりもいとは己を、己の夢を、この体を、一味の奴らの事を心配しているのか。誰にとも鷲掴まれた訳で無いのにぎゅうぎゅうと心臓は音を立てていく。
ああ、全く、いい女だ。どう育ったらこんな女が出来上がるのだろう。
だが、いと…惜しむらくは前提が間違っている。
「…もう無理なんだよ。」
「?」
スルリと、赤心が唇から滑り零れて彼女の耳に届いていった。嘘偽りなど入り込む余地なんて存在しない、それ位の強い、狂おしいまでのローの想いであった。
そう、もう無理だ。
「お前が死んだらおれも生きちゃいられねェのさ。すぐにでも心臓を撃ち抜いて…死んじまうだろうよ。」
それは諦めでも、ましてや脅しなんてものでも決して無い言葉だった。唯の真実の様にローは呟いていく。例えるなら風切り羽を失った鳥が飛べない、底に穴が空いた船が沈む…そんな『当然の事』を話す様な口振りにいとは瞠目する。淡々と聞こえる筈であるのにローの声は鬼気迫るものが含まれている。
それに気付いて返す言葉を失くしたのはいとの方だ。
「ろー、それ、は、」
「だから結果は変わらねェ。お前が死んだと同時に絶命するか、それをおれが認識して後追いをするかの違いだけだ。」
「そんな…っ。」
いよいよ血の気が引いたいとはふるりふるりと体をぎこちなく震わせてローの瞳を覗き込んでいた。青白い顔が恐怖でますます色味を失っていく。
「…私の、せい?」
唯でさえ青白い顔だったのに、とローはそろりと手を伸ばし漸くお互いの指を絡ませていった。いとの指先の冷たさに感情が掻き毟られ、己の温もりを半分でもいい…与えたいと殊更に強く、こいねがっていた。
「違う…お前は何も悪くない。おれが自分が思ってるほど強くもなんともなかったってだけの話だ…」
「…ロー…」
「しかも命より大事な女を殺しかけてるとか馬鹿にも程があるな。」
クク、と自らを嘲うローに、今度はいとの心が揺さ振られる。余りにも強く深い、おとこの真実の想いに触れて彼女は瞳から雫を幾つも落としていた。自分の声をかの男に囁いてしまっても、許されるのだろうか?一つ一つ涙が溢れていく毎に、その想いが閉じた蓋をこじ開ける様に心の中で渦巻いていく。
「頼む、これから一生をかけて行う償いの第一歩をどうか許してくれ」
「…っあ、」
「おれは…もっとおまえを見つめていたい、おまえの隣を歩いていたい。」
「ロー…っ…。」
「…おまえの、名前を呼びたい。」
隈で縁取られた男の瞳にはあの日見た、焔が灯っていた。男は限りなく美しいおんなの、その名前を気付けば呼び掛けていた。何度も、何度も。
「いと、」
彼女はローのその心にそっと触れ様としていた。手を伸ばしていただけだった過去と、今は…随分と違って想えてしまう。…そうおもっても…いいの、だろうか。自分はローの隣にまだ居てもいいのだろうか。
「頼む、いと。」
「いいの…?」
「それがおれの望みだ。」
「ほんとうに、ローはそれでいいの…?私の、半分なんか引き受けて…」
「いとを守る。…いとの弱ってるもん、全部おれが癒す。…医者、だから、な…おれは…。」
随分前にクラバウターマンに吐いた言葉を思い出して、その真実の意味合いの差に少しだけ口の端を上げた。ローは真っ直ぐにいとを見つめ、それこそ睫毛を数えられる位まで近付いていた。
いと、どうか、とおとこは真摯をおくる。
「私は、ローに助けてもらってばっかりだね…」
「いと…」
いとははらりはらりと泣き濡れてそして、愛おしさを注ぐ様に絡められていたローの大きな指を撫でていた。力一杯握り締めていたが男の手に傷は無い、それにほっとしながら赤くなってしまった目尻をゆるりと弛めていく。
そして意を決した、静かな声。真っさらな、眼差し。
「…私の半分、どうかよろしくお願いします…」
静寂が一拍だけ訪れて、そして力んだものを緩めたいとの声が部屋に響いていた。ローはその言葉にありとあらゆる感情が手綱を引き千切っていき、血液が逆流を始めてしまった。
「いとっ!」
なりふり構わず、ローは掻き抱いてしまったのだった。愛おしい、愛おしくて堪らない己の唯一のおんなを。
この冷たい体をおれが治すと硬く誓って、おとこは彼女の柔らかさに打ち震えていた。