Beautiful name | ナノ




誰にも知られずにこの恋が終わってゆく。





  潮風は頬を撫でるだけ、背中なんて押してはくれない。
  夕陽は水面を同じ色に塗りたくるだけ、行く末の路を照らしてはくれない。

「…ぃ、た…」

    もうすぐこの茜色すら届かなくなる闇が降ってくる。波の音と嫌な心音しか今の自分には聞こえなかった。黒紅の衣を纏った波が幾重にも浮上して進む潜水艇を叩いている。

「…だいじょうぶ、わたしは、まだ…」

   この嫌な心音と痛みが襲う様になったのは暫く前のことだった。どくんどくんとまるで唸っているのだ、この心臓が。日増しに膨らむ悪い想像は現実味を帯びてきて、いとは顔を顰めて痛みが治まるのを凌ぐことしか出来なかった。特にここ二日は酷い、立って居られないのだ。…どくんどくんと心臓が唸っている。
   カウントダウンの様だ。と自分で自分を抱き締めて服の上から胸を押さえ、ただ『おさまって、』と念じる。皺が出る程強く服を掴み、蹲る。脂汗が額に浮かぶのを感じていた。

(ここでよかった、)

  いとはこの一人きりの見張り台で静かに苦痛をやり過ごすのが日課になりつつあった。見張りを、とこの潜水艇の長に無理を言って許してもらったのが遥か遠くに感じる。夜空の様な色のかの男はかなり渋って、それでも最後は『陽が落ちるまでなら』とごちていたと、苦く微笑んだ。
   これで誰にも迷惑を掛けなくて、済む。意識が白く揺れて、涙で景色が歪んだ。
   
「…は、ぁ…っ」

   願いが通じたのだろうか、この日は程無くして痛みが遠退いていってくれた。いとは零れ落ちる涙を今だ小刻みに震える指で拭って一度深呼吸をする。それから掌を開けば爪の痕が食い込む様に残っていて、相当力を入れていたのがここで漸くわかった。

「…ローに、なんて言われちゃうかな…」

   とりとめなく声に出した言葉は思っていたよりもずっと強く自分の心に突き刺さっていく。目敏い、かの男はどんな反応をみせるのであろうか。物珍しい『自分』という女に何と声を投げ掛けてくるのだろうか。

『おまえみたいな甘ちゃん虫唾が走る。』

   あのひかりふる庭が夕焼けの向こう側に霞んで見えた。
  『彼方』に居た時に出会った奇妙な少年、夜空の様な髪に不健康そうな隈を顔に貼り付けて降って来た。名前を、トラファルガー・ローと名乗った。
   冷静で、やたら大人ぶっていて。そして時折瞳に影を落としていたその少年はまるで発作が起こる様に、酷く自分の体温に固執してくることがあった。…次の日には無かった事の様に普段通りになるのだが。
   そのか細い腕にいとが絆されてしまったのは、果たしていつからのことであったか。

『いつもそうやって男に媚びてんのか?』

   あの頃、伸ばされる細い腕とは裏腹に少年は強い言葉をナイフの様に投げ飛ばしてきた。他の人にも良く言われていたことであるのにローに言われたことだけが何よりも痛かった。
   何故かは、いとにはわからない。泣いてばかりの自分が勘に障ったのかもしれない。わからないがローの言葉は日増しに鋭くなり、それでもさみしげに腕を伸ばしていた。そして隈で縁取られた瞳は何かを孕んでいる様に見えたのだった。
   その少年に絆されたいとはただ甘んじてそれを受け入れていた。
   気紛れに差し出された小さな掌を拒む事が出来なくて、遂にいとは気付けば広がる海原に、居た。ひかりを通って彼方と別れて、しまった。
  少年に請われるまま。

(けっこう、長続き…してる、のかな…?)

   彼の許す限りそばに居たいんだけど、もしかしたら私の体が駄目になる方が先かもしれない。…いやだな。まだそばに居たいのに。と願っていても考えはぐるぐると深淵へ潜っていった。

(私の体が先に、)

   おとなしくなった心臓の上に手を添えていとは先程とは違う涙を流して静かに瞳を閉じた。

「…もうちょっと頑張って、私の心臓…」

   届かないものを追いかけることが自分の役割になって幾月が過ぎたのであったか。
   彼の気紛れが終われば、全て無かったことになる関係になるのだろうか私達は。
  愛されなくても、あいしたいと願ってしまったのは、はたして。

「…おい、いと。時間だ降りて来い。」
「…!」

   低過ぎない男の声がいとの鼓膜を揺らした。のろのろとした動きで見張り台から下を覗けば紺に黒を混ぜた色の髪が潮風に遊ばれていた。

「ロー…」
「陽が落ちるまで…約束だろう。夜が来れば冷える、医者の言う事は聞く方が利口だと思うんだがな。」
「…はい、」

   見張り台の縁から身を乗り出す。男の姿が全て見えた。『彼方』に居た時よりもずっと身長が伸びて、しなやかな筋の身体つきの、その姿。それもそうだろう、トラファルガー・ローの真実の姿は成人した、男なのだから。

(いろんな意味で、住む世界が違うひと、だもの…)

   鉛を飲み込んでしまった様な感情にいとは嫌悪し、それを振り払う為に一度首をぷるぷると横に動かした。

「…どうした?」
「何でもないの。…なんでも、」

   中々降りてこない自分を訝しんだのだろう。ローが不機嫌そうに呟いている。これは早くしないとお仕置きと称してまた寝室から出して貰えなくなるかもしれない。

「いと、」
「ごめんね。今おりる、か、…っ!?」

  どくん、なんて生易しい音では無い。その事だけはわかった。
  ローに返事をした次のその瞬間、心臓が嫌な音を立てて動いた。ずくりずくりと血液が出鱈目に暴れ出して途端に全身の自由が利かなくなる。指先すら言う事を聞いていない。体の回路がどんどん断ち切られて、いく。

「か、は、」

  その後は空と海が逆転していた。潮風が体中を撫でている。掴むものは自分以外無く、浮遊感が巡る。あぁ、落ちてしまった、

「いとっ!?」

   最後に彼女の目に映った情景は、夕日が海に沈んでいくところ。そして目を見開いた、