Beautiful name | ナノ



    いとは最後のその瞬間まで、視覚を失ってからも憶えておける様にと静かにローの姿を瞳に焼き付けていた。置いていく悲しみと切なさは涙に伴って心に落ちる。
    自分は果たして、この男の糧となれただろうか。生きた証として少しでもいい、愛おしい温もりの記憶を一番大切なローに贈れたのだろうか。

(幸せになってほしかったの。)

    懸命に伸ばされた、心の拠り所に飢えた腕に言葉のひとひらを差し出す事が出来ていればいいのだけれど。それさえ…出来ていればもう、かまわないの。
    たったそれだけを想って彼女は肩の力を抜いた。

「何で、いとが、」

    慈しみと愛しさを贈られた男は、その想いをいとに返したかった。ローが思うのはそればかりであったのだ。その想いは願いとなって喉からぽとりと零れ落ちる。
    変わってやれるものなら、何だってするというのに。男は思考の坩堝をぐるぐると掻き回していた。渇望と虚しさが重なり合い、目の先は寄る辺無く置かれた自身の節くれ立つ指。意味も無く己はそれを捉えるばかりであった。

(無様だ、)

    刺青の施された、それ。
    荒波を越え、幾多の戦いをくぐり抜けて、そして数えきれない程の治療を施し続けてきたと自負していた己の指先。しかし今は愛おしい女の命を掬い上げる事すら出来ない役立たずの、十指。
    一つ、またひとつと指の並びを追っていく程に遣る瀬無さが幾重にも積み重なっていった。

「何でおれじゃ無い、」

    声に出せばその分だけ掌に力が篭っていく。そうだ、死に値する罪を犯したのは自分だ。それで何故彼女が死なねばならない。世界が理不尽に満ちているのは知っている、知っているがこればかりは許せない。
    ぎりりと結ばれた二つの拳は硬度を増して、それに気が付いたいとは心配そうに眉を下げる。そうっと握り拳に冷えていく指先を乗せて、男を落ち着かせ様と穏やかに声を掛けていた。

「…ロー、手が真っ白だよ。爪が食い込んでるから、力緩めよう?…ね?」

    力を入れ過ぎた指は小刻みに震え、掌に爪はぐさりと立っていた。直に硬い爪は肌を突き破り血が吹き出すだろうが、いとの痛みを想ってしまえば些末にしか感じない。
    『D』から始まり『H』へと至るその両手、それは己の誇りであった。      
    海賊であり医者、オペオペの実の能  力者である己の――

「あ…!」
「?」
「あった、解決策…!」

    ベッド傍の丸椅子を蹴倒したが、気にも留めずにローは立ち上がった。瞳に込められた感情は先程までとは少し違って、その掌は緩められていく。

「なァいと、この三か月で少しは信用してくれてるんだろう?」

    見下ろし、問い掛ける様な言葉であったが半ば懇願の様な声音で、そうであってくれという想いが篭っていた。視線は真っ直ぐにいとへと進んで、彼女の答えを待っている。

「?う、うん…」

    体温が下がって思考が鈍りかけた頭  では、いとはローの真意を汲み取れ切れずにいた。しかしながら彼の後悔も、贖罪の願いも全て痛い程伝わっていて自然と声は是、と洩れていく。
    その応えにローの瞳の奥で光が灯ったのであった。

「じゃあもっと。ずっと。いとと一緒にいればいいわけだ…」

    この世界でいとが生きていく為の唯一。ローとの心の繋がり。絡まり合って千切れ掛けたそれは、それでも最後の一本だけを残して留まっている。ならばその糸をよすがに、これから時間を掛けて言葉を交わして。そして想いを確かめて、ゆるりゆるりと紡ぎ治し繋ぎ直せばいいのだ。

「…そう、だけど…」

    しかし、そんな時間は無い。いとにはそんな時間などもう、残ってはいないのだ。彼女も、そしてこの男も痛い程身に染みている筈だというのに。

「…お前の、」

    何かを決心した声でローはベッドへと腰を再び降ろし、いとの細い両肩に手を添えた。心の深い場所から一つずつ確かめる様に言葉を選び取り、可能性へと灯火となる筈の『答え』を告げる。

「いとの悪くなってる臓器と、おれの臓器を半分ずつ入れ替える。そうすれば当面の危機は去るはずだ、」

    だから、いきてくれ。傍にいてくれ、いと。
    ただ一心であった。懸命に、その懇願をおとこは静かに叫んでいたのだ。