『積もる話もあるでしょうから…』
面持ちを悲傷に塗り潰され、ペンギン達は部屋を後にしたのだった。後ろ髪を引かれる佇まいのままでゆっくりとドアは閉められ、ローといとは二人っきりとなる。
空気は澄んで冷たくて、冬の清廉な明け方の空気によく似ていた。ほう、と一息付くいとの呼吸が白らけてみえた気すら起きてしまう。
うら寒い空気を感じ取って話し掛けたのは彼女の方からであった。重たい腕を引き摺って両手を組み合わせ、無言の男を柔く見つめる。見守る様な眦は穏やかに、何処までも優しい。透明感に満ちたいとの想いそのものの様な眼差しだった。
「ね、ロー…」
話す度にどんどん弱くなるいとの声。だのにその声も慈しみに溢れていた。切なく胸が引き千切られそうで、ローは視線を彼女の方に向ける事ぐらいしか出来ない。
「眠りたくないから話していても、いい?」
「…あぁ」
漸く絞り出せた声は情けなくていっそ嗤ってしまいそうになる。
よかった、ありがとうと微笑むいとの顔は『彼方』にいた時の様な温い顔であった。心をあたたかくする眼差し、かたくなだった己をゆる、ゆる、と溶かしていった優しさで満ちたいとのかんばせ。ローは声と共に微かな嘆息を洩らす。
そうしていれば彼女はあのね、と切り出して…まるで夜眠る前に明日したい事の計画を立てる様に穏やかに喋り出していた。
「…また、宴会…したいね。」
ポツリと響いた言葉は当たり前の、日常の一コマだった。夜が水平線の奥へと帰り、朝陽が昇れば誰しもに与えられるいつも通りの明日の話。ローは応えず唇をきつくきつく噛み締めていた。己の感情を何処に向かわせればいいのかと、持て余した想いを喉で転がす。
「今度は落ちない様に気を付けるから…また釣りがしたいな。」
山ほどある悲しみには故意に触れない様、置いて逝くローを傷つけてしまわない様。いとは言葉をひとひらずつ選び、そして痛々しい面持ちの男へと差し出していた。
文字通り、身を削る程のいとの心遣いは穏やかな彼女の一番奥の感情だった。表に出さない心の底の、その苦痛は…遺してしまう男に見せない為の精一杯のひたむきさだった。想いであった。
一抹の危うさが篭る、いとの願い。
「空っぽのプランター見つけたの…何か育ててみたいなぁ…」
夢というには本当に些細な、他愛もない望み達は止まる事無くほろりとまろび出る。ローも、もう『わかってしまった』からこそいとのはかない想いに、胸中忍び音を上げた。
そんな風に気遣われているのはわかっている。この期に及んで、己に殺されかけているといっても過言ではないのに…いとは己をまだ愛してくれている。
「ローとお出かけ、も…したい…」
「…っ、」
いとの喋る望み全てが相手が己で無ければ、若しくは己があんな莫迦をやらなければ。十二分に約束されていたはずの未来だというのに。ささやかな願い達は心全体を恋しさや苦しさ、かなしみに染め上げていき、一入身に沁みて痛くて仕方が無い。
思わず眉間に皺が寄って、震えは静かな慟哭へとローを引き摺り込む。
「…私もう、黙った方がいい?」
静かすぎるローにいとが気付くのは当然だった。しかしながら怯えたのはローの方で、びくりと肩を跳ね上げたかと思うと過剰に反応して首をぶんぶんと横に振る。
「いや、そんなことはねェ。…ずっと喋り続けていてくれ。」
「でも…」
ジリジリと焦がれる想いは、抑え込めば抑え込む毎に氾濫しようと騒いで沸きたってくる。
無理矢理仕舞おうとすれば己を仄暗い海底の様な場所へ道連れにしようとするだろう。みにくいもの、おそろしいもの、どろどろとしたもの…。色々なものが沈んでいるその場所へと。
「頼む、死なないで、くれ…。」
「…、」
無茶な願いだった。
自分の体の事は何より自分がよく知ってしまっている。もうこの体は、もたない。いとは口を閉じて黙って、静けさの中でどんなに胸の鼓動に耳をすまして確かめても…答えはただ一つしかなかった。
返答に窮して黙りこくってしまった彼女の顔は青白かった。ローは己の台詞の、その無理を痛いまでに噛み潰す。彼女の内心は己が思っている事ときっと寸分たがわない筈だろう。
「いと…」
そもそもいとも死にたくて死ぬわけでは無いのだ。己の仕出かした愚行のツケが全部彼女に回っているだけで。
…何故、彼女に向かうのだ。全ての罪は己にあるというのに。己が彼女を傷つけ続けて、それでどうして…その罰さえもが彼女に降り注ぐ。
考えてみれば己がいとに与えたものは痛みばかり、苦しみばかりだった。
そんなつもりじゃない。抱きしめてやりたい。心と体の全てで、大切だと愛していると幾らでも語り掛けたい。
変われるものなら、変わってやりたい。
…そう。かわれるなら、