「何やってんすかキャプテンッ!!」
呼び付けられた処置室で見た光景にシャチは顔面蒼白となって悲鳴を上げ、ペンギンは絶句の後両腕に抱えていた輸液のパックをぼとぼとと足元に落としてしまった。
目を閉じた無抵抗のいと。その胸ぐらをあろう事かローは両手で掴み揺さぶっている。
鬼気迫る、激昂。
癇癪か、悲憤か、我を失った男の瞳の底は仄暗い。
意識を失ったいとの白い腕はだらりとシーツに投げ出され、揺さぶられる度にゆらゆらと小刻みに動く。
「ふざけるないとっ!起きろ!」
「落ち着いて!」
血眼で。シャチの声すら耳に届いておらずローはその腕を彼女から解こうとはしない。握り締めたいとの服はあり得ない程皺が寄り、比例する様に男の眉間の皺も深く彫り込まれていくのであった。
「キャプテ、」
ギロリ。強烈な殺気が飛ぶ。
トラファルガー・ローという男の強さを最も身近で見続けたからこそ、その眼光だけで畏怖が湧き立つ。だが、このままでは取り返しがつかなくなってしまう事など明白だ。いとは勿論、この男にとってもまた。
「止めるぞ、」
現状を飲み込めたのはペンギンの方が早かった。輸液を踏み付け無い様に蹴飛ばし、一歩前へ出る。果たしてこの二人だけで怒り狂う男を止められるか甚だ疑問ではあるが今はそんな事を言っている場合では無いのだ。
「キャプテンいとちゃん殺す気っすか止めてくださいっ!!」
「…いとっいとっ!」
「いい加減に…しない、と、ホント、っ、」
「…っ!…シャチ引っぺがすぞ手伝え、」
「キャプテンすんません!」
斬られる事も辞さず、ローといとの間に自らの体を捻じ込ませ、生まれた一瞬の隙。その一瞬を逃さずにペンギンはローの腕を掴み、シャチはいとを抱え込んだ。
そのままいとをシーツに横たえ、そしてシャチは取って返しペンギンへと助力する為腕に渾身の力を入れたのであった。
「押さえてろォ!」
ペンギンは一旦腕を離す。今この男は正気ではない、錯乱の兆候さえ見られるのだ。何を話しても通じ無いと覚悟を決めた。すぐに用意したのはクロロホルムである。
「すんません!」
その辺にあったガーゼの束を鷲掴み、薬液を乱暴に振り掛けて力任せにローの顔を覆う。
一秒、二秒、
…殺気が、萎んでいく。
「シャチ、」
「わかってる。…いとちゃんちょっとごめんな、強心剤打つな?」
ゼンマイの切れた人形の様に静かになったローをベッドの隅へ凭れさせてから、二人は的確な処置をいとに施していく。今だ震える手に「ハートの船に乗るクルーがこれぐらいで怯むな」と檄を飛ばしながら。
点滴を開始して、いとのバイタルや容態がある程度安定して、漸く。シャチとペンギンははぁー…っ!と大きな溜息を同時についてしまったのであった。
「…なんでこんな事になっちまったのかなぁ、」
二人して顔を見合わせると、情けない顔をした男がそこにいた。おそらく自分も同じ表情なのだろうことなどすぐに見当がついてしまって、それが益々情けなさに拍車をかけていく。
「…わからねェよ…ちくしょう、」
これ、が二人の偽らざる本音であった。悲壮感がこの部屋を包んで逃げていってはくれなくて、もう溜息付くしかする気が起きなくなりそうであった。
「どこでどう捻れちまったんだろーなァ…」
いとが倒れるまでは本当に仲の良い、相思相愛の恋人同士に見えたのだ。くすぐったくて、見ていられなかった筈のラブロマンス(しかも世界を越えた!)であるのに『ローといと』というだけで思い切りの感情移入をしてしまう。それぐらい幸せそうだったというのに。
例えば、皆で肩を並べた魚釣り。例えば、驚く程に穏やかに微笑うキャプテンを見た時。
「こんなのは嫌だなぁ…」
彼女が倒れてしまった途端に内側に潜んでいた、澱んだ病理が一気に噴き出して皆を蝕んでいく。彼女の息の緒がか細くなっていく毎にローの存在全ても引き摺られるかたちでボロボロと崩れ落ちてしまう。
「早く、さ、」
「あん?」
「元みたいに、仲良くしてるトコ…見てェなァ…!」
ぐず、と鼻を啜る音がシャチから漏れる。サングラスを掛けたまま大の男がベソをかいて嘆いている。
「…そうだな…」
ぽつりと一言だけ呟いたペンギンの声もまた、随分と沈んだものだった。彼女はひどく穏やかな気性の持ち主で、仲間同士であってもいとと話せばポッと心に灯火が燈った様に温かくなる。…恋人のローならそれは尚更の事だっただろう。だからこんなになるまで彼女を求めて止まなかった。
「簡易ベッドが倉庫にあったろ…運んどくか、キャプテン用に。」
「一緒にして大丈夫、かな…。…や、一緒にしとかねェと駄目か。」
「あぁ、」
きっと別室に移動させたところで、意識がはっきりすればこの男はいとの傍へと舞い戻るだろう。それこそ彼女の隣でないと息も出来ないという態で。
「キャプテンが起きるまでおれがバイタルを測る。」
「んじゃ、おれ血液検査もっかいしとく。」
「任せた…」
「ん、」
この船を蝕む仄暗さに何とか捕まらない様に、と。二人のクルーは足早に歩き出したのであった。