Beautiful name | ナノ



 
「かいけつさく、」
「…ああ、」

   冷えたいとを元に戻したくてローは淀みなく頷いた。世界と断絶しているいとが曲がりなりにも三か月生きられたのは、自分がそのライン代わりとして緩衝材のような役目を果たしたからだ。これからもいとは世界と直接の接続はできないが、自分との繋がりを強化すればちゃんと生きられる。
    言い切って、何より己が確信している間違いなどない、と視線だけで訴えた。そうすればいくら何でも、生きる努力をしてくれるとその瞳を見つめたのだった。

「身体面のラインは…おれがいとを抱いているからもう解決している。後は精神面のラインを繋がないといけない。」
「…こころを、つなぐ…」
「そうだ、」

    彼女もわかってくれている様だ。なら、とローはいとの顔を覗き込んだ。きちんと目を覚ました筈であるのに、ちっとも温もることの無い薄っぺらい姿に酷く不安を覚えてしまう。

「…いと?」
「そう…じゃあ、仕方ないね…どうにも、出来ないね…」

    困ったようにいとはわらっていた。瞳の虹彩が仄暗く見えてしまうのは気の所為、なのか。彼女は力を抜いてなすがまま、最悪の結果へと自分の命ごと流されようとしている。
   諦めてしまって、いる。

「……は?ちょっと待て、このままじゃてめェ死ぬんだぞ、」

    途端に心臓が跳ねたのはローの方であった。疑問しか浮かばず、痛いくらいにいとを凝視する。いとがいなければ己は正気でいられないというのに、それ程までに彼女の存在がトラファルガー・ローという人間を形作っているというのに、何故?どうして!?
    思いがけないいとの言葉に喉が干上がる。嫌な感覚が背中をぞろりと這い上がった。無意識に突き刺さる様な眼差しを彼女に向けてしまったが曖昧な空気を通っていくばかりで、まるでいとには届いてなんていなかった。

「…うん。みたいだね…」
「じゃあ何でなにもしようとしない。おれと一緒に居たくねェのか…?!」

    男の声は血反吐を混ぜた色合いによく似ていた。信じたくない信じるものか、強い想いが男の体を震わせた。いとはかたかたと小刻みに揺れるローの手に自分の掌をそっと重ね、切ない潤みを帯びた瞳を送る。

「ううん、違うよ…」

    居たくないなんてそんなことはない。居られるものならずっと一緒に居たかった。
    でも、

「…ずっと一緒にいたいよ…」
「なら、」

    ローが続きを言い募ろうとするが彼女は静かに首を振っていた。切ない色を含んだ困った顔は嘗て『彼方』でよく見た気がする。諦めたような微笑みを己は何度注がれたのだったろうか。

「好きだよ、ロー」

    だいすきだよ。不機嫌そうな顔も、低い声も、全部。私じゃ不釣り合いなぐらいに格好よくて…優しくてクルーの皆さんのこと、とても大切にしてるローが一番、すき。真剣な眼差しに、誇り高さに息が止まりそうになるくらい見惚れてしまう。
    時々物凄く意固地になって、不安定に瞳を揺らしてしまう幼いあなたが愛おしい、支えたい。朝ご飯ちゃんと食べてくれない駄々っ子なところも可愛くて、怒れない。
    この関係が、ローの気紛れであっても最初から構わなかった。いずれ彼の気が変わったら海に沈んでしまう恋だとしても…私は確かに幸せだったと想う程には、大好き…だった。
    まだ傍にいたいのに、けれどそれはもう叶いそうにない。

(海に溶けてしまえたら、いいのに…)

    もう自分は傍にいられないから、きちんときれいに消えてしまわなくては。ローにとって何のプラスにもならない私が、未練がましく縋って迷惑を掛けてしまうのだけは嫌だった。

「だいすきよ…でもね、むりなの、」

    透明な言葉はするりといとの喉から零れて男の鼓膜へと落ちていく。砕けた心の切れ端が海に沈んでいくのをぼうっと見つめているかの様な、ひどく曖昧で生気の無いいとの表情、声、存在感。

「…、」
「だからごめんね…」

(すき、と言ってくれたけれど。本当かどうか、信じられなくて、だから…ごめんなさい。)

    ローの言葉を信じたい。本当は。けれどもその度に蘇るのは嘗て自分が居た『彼方』の、彼との出来事。

『そうやって媚びを、』
『虫唾が、』

    その言葉が心を麻痺させて、何処に『本当』があるのかわからなくなる。やっぱりローは私なんて、アイシテルなんてそんなわけ無いのに。といつもそこへと辿り着く。自然と目頭が熱くなって視界に水の膜が出来てしまう。嫌だ、直ぐに泣いたらまたローに呆れられてしまうというのに。
    ああでも、もうすぐ消えて、しまわなくてはならないんだからもう関係ないのかな。
――心を、繋げるって、一体どこへ。

「ごめんなさい…」
「……なんでだ。簡単なことじゃねェか。好きだって何度も言ってんだから素直に信じりゃいいだろ。なんでもかんでも受け入れる、底抜けのお人よしのてめェがなにを似合わないことをしてるんだ…!」
「…、」
「いと…っ!」

    気付けば男は叫んでいた、渾身の想いを込めて最も愛している女へと赤心を曝け出していた。けれども、遅かったのだ…何もかも。

「…、」

  後にはかなしそうな顔の女が、ぼうっとこちらを見返してくるばかりだった。