Beautiful name | ナノ




「…、」

    ここは何処だったっけ、からその続きが頭の中に降って来ない。
    瞳を一巡してみると自分の腕には何やら脱脂綿やチューブが物々しく貼り付けられていた。ベッドから離れたところにはたくさんの医療機器が並んでいて、ここは処置室だと遅れて記憶がのたのたやってくる。

「…ぁ、」

    声を出そうとしたがそれもままならない。何故?ギシギシと関節が錆び付いている感覚に自然と顔が強張った。長い間座り込んでしまっていた感覚に似ている。いや、それよりもっと酷い。

「…ぃ…た、」

    軋む体を騙しながら上半身を起こせば、ベッドサイドにいた人物と視線が合った。時を止めた様に瞳を開いて、しかしその刺青で飾られた指は小さくカタカタと震えていた。唇がわなないて、声が絞り出される。

「いと…っ、」

    悲痛さに眉を歪めている癖に瞳には安堵を滲ませた、ごちゃごちゃの感情を持て余している顔のローがあった。そんな顔見たの初めて、とぼんやりとしたままのいとはあっさりとローに肩を抱かれて腕の中に閉じ込められる。まるで奪われるのを恐れているかのような、強いが頼りげの無い抱擁だった。

「いと…いと…っ、」

    起きた、と心労をありったけ詰めて吐き出した声音にいとはローの心情の揺らぎを察して腕を背中に回す。遠慮がちに軽く背中を摩ってやると男の震えは収まって脱力していった。

「…憶えているか…?」
「ぇ?」

    力は込められていないがそれでも抱き止められたまま、ローは腕をいとの腰に落ち着けてじぃと彼女の瞳を覗いていた。一拍置いてからはた、と睫毛を動かしたのはいとの方である。

「私、見張り台から…おちて…」
「あぁ、そうだ。」
「でも、どこも痛くは…無いよ…」
「おれが受け止めた。安心しろ、骨折なんてしていない。」

   おれはそんなヘマはしないからな。と言い切ってもう一度ローは薄っぺらな肩ごといとをその腕の中に収めてしまった。目障りな管は彼女から未だ取れない、しかし目を覚ましこうして己を見つめ言葉を交わしている。擦り切れた感覚がいとが生きていることで蘇ってきた。ふつふつと湧く静かな歓喜に男は目をそっと閉じる。

「ロー、ごめんね…手を煩わせちゃって…、」
「別にいい、」
「それに治療も、」
「いい、」

    それにおまえはまだこのままだ、とローは名残惜しそうに体を離した。そっと口にした己の言葉に男は現実をここで漸く思い出した。『世界から拒絶されて死にかかっている』という事実に否が応でも渋い顔が戻って来る。

「…っ、」
「いと…?」
「わた、し、」

    やっと、意識を失う前後がいとに蘇って一本の線に繋がった。ローに迷惑をかけてしまったと無い血の気が更に引いていく。

「ごめんね、本当にごめんなさい…私大丈夫だから…っ」
「…おい…っ?!」

    いきなり体を動かそうとしていとは身じろいだが、長い時間眠っていた身体は当然の様に力なんて入らない。弱り切っているのは誰の目から見ても明白であるのに彼女はその事実から逃げる様にローから離れ、そして勢いのままポスリとシーツの上へと戻ってしまった。

「っ!いとっ?!」
「…ぁ、」

    慌ててローはもがくいとを抱き起こし、改めてその細さに愕然とする。あの僅かな時間でこんなにも弱っていったというのか。がむしゃらに喚き散らしてしまいたかった。

「止めろ、横になってるんだいと。今おまえは普通の状態じゃ無い。…頼む、から…」

   最後に掠れる声で願う様に呟かれて、いとはピクンと肩が跳ねる。けれども彼女はこの男の手を煩わせてしまいたくなかった。自分はここで何の役にも立てていないというのに、頑張れば頑張る程空回りしてしまうというのに。…いつか必ず終わってしまうけれども、それまではいとしいひとに寄り添っていたい。そんな呆れる程に小さな願いすら自分には叶える事が出来ないのだろうか。

「迷惑をかけてごめんなさい、何でもないの、何でもっ…!」
「いと…?」
「ほんとうだから…っ…」

    自分だってきちんと気が付いている。自分の体がおかしいことぐらい、自覚する時間は充分にあった。わかるからこそおもいが手綱を無くして口から転がり出て、ローの手を振り払ってしまう。どきどきと心臓が騒いで、目尻が勝手に熱くなる。
    面差しを痛々しくしかめたいとは、とうとう頭を抱えて小さく丸まってしまった。

「大丈夫だ…落ち着けいと、大丈夫だ。」

    まるで己自身に言い聞かせる様な口振りでローはいとを再び抱き締めた。ぎこちなく震える背中をとんとんと軽く叩いて宥め、彼女の小さな拒絶で生まれてしまった己の、酷い寒気に蓋をしながら。

「どんな状況になっているか、全部説明する。だからおれの話を聞いてくれ。」
「…私、の…?」
「…そうだ。いとの…疾患…いや、症状と言った方がいいな。」

    いとはローに抱き止められたまま暫く心音だけに包まれていた。とくとくと傍で聞こえる男の血液の流れにやがて荒くなった自分のものが重なって、いとはふぅ、と一息をついたのだった。

「…いとはおれが『彼方』から奪ってきた。これが話の大本だ、」
「ぅ、ん…。」

    小さな子どもにこわれるまま手を引かれ、やって来たこの海。子どもは何時の間にか成人した男性になっていて、自分との大きな差異に足元が崩れ落ちた感覚に襲われたのをはっきりと覚えている。
    違い過ぎる世界、違い過ぎる、ひと。

「いとはここの世界に元々いた人間じゃない。…言い方はきついが、異物だ、いとは。」
「そう、だね…」

    僅かに低くなるいとの声。ローは堪らず、眉間に皺を寄せた。こんな顔をさせないためにはどうしたらいい?

「…、…人の体と同じだ、入り込んだ異物に対して排除しようと自衛反応が起こる。この『世界』はいとを『異物』として…殺りに掛かった…」

    生きる為のラインを切り離して、今この世界は空気ですらいとに慈悲を与える気など持ち合わせていなかった。そう教えたあの子どものわらい声が脳内で反響する。ああ、何もかも苛立たしい。

「…しぬ…の?…わたし…」
「っ!…この、ままだと、だ。大丈夫だ、そんなことにはならない。簡単にそんなこと言うな…っ、」
「…ろー?」

    いと以上にローが怯えていた。その単語でさえ聞きたくないと体中で否定して彼女を殊更に、何かから隠すかの様に腕の中へと引きずり込む。心臓の一番近くにいるからいとにはわかってしまった。ローの鼓動が乱れて、速い。

「心配ない、解決策はあるんだ。」

    その体の不調も全て世界と断絶されているせいだ。逆に言えば接続さえしてしまえば問題は解決する。そう話し終わるとローはひと心地ついた様にいとの首筋に頭を埋めたのだった。
    男の額に当たる彼女の肌は、未だ、冷えたままだ。