Beautiful name | ナノ




    何処かに熱を置いてきてしまった、いとの手。はかなく薄い花弁の様な爪はいつ見ても小さく白い。血の気が無いとはこういうことかと己の手で掬い上げる。僅かでも構わない、己の体温がいとに流れ込めばいいと切に願う。そうしてローは腰を彼女が横たわるベッドに降ろして、硬く閉ざされた瞼を眺めたのだった。

「声がききたい、ひとみのいろが、見たい、」

    間抜けに呟いた譫言は誰にも届かず宙に掻き消えた。進むことも叶わず…かといって後ろ足を引いた瞬間己の全ては奈落の底に落下し、砕け散る。トラファルガー・ローという存在そのものが。
    淀んだ、例えるなら流れの無い水溜りに両足をどっぷりと浸した気分だった。足掻いてももがいてもドロドロした水が足に絡み付いて、深く暗い底に引き摺ろうと嗤っている。いととは似ても似つかぬ薄汚れた両手が身体中を這い廻り、鋭い鉤爪で突き刺しながら此方へ来いよと呼んでいる。渦巻きながら迫ってくる。

「…いと…」

    ローはいとにすくい上げて欲しくて。『あの時』の様に抱きとめて欲しくて声を震わせた。

「…たのむ…いと、たのむ…」

    茫然と彼女の名前を何度も呼んだ。優しい陽だまりに似たいとの心地よいその名前は、鼓動と同じ様にローから生み出されては体の外へと溢れていく。

「…たのむ、」

    鼓膜に声が届かないのならせめてこの想いが熱に乗っていとの眠る心まで届いてくれ、と願った。はかない細い指に己の黒が混じったそれと絡ませながら懸命におもいを伝える。…伝えようとした。

「…、いと、」

    口を開けばもう、口にするのはいとの名前だけ。これ以外の音を言葉にする気が起きない。自嘲するのも億劫でローは上半身をベッドへと沈ませた。ギシリと鳴ったスプリング、視界を埋める白いシーツの合間を縫って見えたいとの顔は矢張り、白い。鼓動が聞こえる程に近付いてそれが一層わかる。
    動かないいとの表情、からだ。こころ。
    歯痒くて喚く気力も削がれてしまっていた。見離されたこどもに似た、悲壮な眼差しでいとを見つめ続け唇を時折わななかせた。

「…、」

    やがて彼女の指を親指から人差し指…その次は、と順番に一本ずつ己の親指の腹でもって触れ始める。指が終われば手の甲と掌。触れるだけでは熱は移らなくて、収まらなくなった己の気持ちをローは制御することが叶わなかった。唇にありったけの熱を込めて、冷えたいとの掌に落とす。ローはそのまま小さくちゅ、ちゅ、と音立てながらいとの存在を確かめていた。

「いと。」

    目を開けてくれと、懇願した。

「いと、」
「いと、」
「いと…」

    それを何度繰り返しただろう、己でも忘れてしまった。

「…いと…いと…」

    掌に口付けを贈りながら、想いの熱をこめていと、とその名前を掠れる声で囁き続けた頃。

「…、…?」
 
    己の口許にあった彼女の指が、微かに動いた気がした。
 
「…いと…?」

    ながくいとが生きている証に触れていなかった所為で上手く反応出来なかった。幻を見てしまったのかと錯覚してしまう程に追い詰められていたから情けない程に戸惑う。

「いま、まさか、いと…っ?」

   今一度、薄い爪先が。――今まで何の反応も返ってこなかった手がぴくりと動いた。錯覚などでは、錯覚であってたまるものか、

「あ、あ……!」

   ローは言葉にならないまま、締まりの無い声だけを上げてギシリとベッドから立ち上がった。いとの髪の一房がはらりと落ち慌ててまた顔をいとに近付ける。何度も髪を撫で付けてやりながら、瞼が閉じているのにも構わず直向きに眼差しを交わそうとした。閉じた瞼に合わせ、生きている証を見つけようと血眼になる。

「いと、いと、わかるのか、おれがわかるか?いと、」
 
    彼女の名前を呼びながら顔を覗き込むとまたかすかに動いた。微かだ、だが間違い無い。

「おれはここだ、ここにいるんだ、だからいとっ…!」

    今度は睫毛が一瞬揺れた。見間違えてなどやるものか、こころの音さえ聞き逃してやるものか。
    真っ直ぐに伸びる一縷の希望を取り落としてなるものかと、溢れ出る感情と共に尚も冷えた薄い手を握り締めたのだった。

「わ、わかった、ずっと名前を呼んでいる、いてやるからな。だから、早く起きてくれ、いと…っ」

    動悸が激しい、血液が暴走を起こしている。全身が粟立って感情という感情が叫び声を上げて打ち震えている。いとが、いとが、とローは一心に彼女の生きている証、その兆しに取り憑かれていた。