W Devil's food cake かそけき港街はしめやかに酒と、香水と、糖蜜よりも甘ったるい香りが漂っていた。大きな、港だ。しかしなまえは寝ぐらの船から足離さずにコックから借りた厨房のその隅でナイフのリズムを刻んでいる。 「……。」 あの男はどこか?と誰かに聞かれたならば…バッカスに手招きされたんでしょうと、微笑むのだこのなまえは。なにせ今回の航海はひどく長く、彼らが『満足できる量』の酒はすっかり無くなってしまった。今宵はこぞって酒精と踊って大笑いしているのだろう。 そしてあの男も、口さみしくなったのだろう『すぐ戻る』と言ってふらりと港風に紛れて行ってしまった。 口さみしいのなら、私のクーベルチュールでもいかが? キザったらしい台詞が薄っぺらく脳みそに浮かんで…自分に苦笑する。赤毛といかめしい眼差しと、黒のマニキュアを代わりに並べてひと心地したのは幾ばくもなく。 「ポートワインよりもシェリーよりも…とびきりのチョコレートを」 湯煎でダークブラウンを蕩かしながらなまえはひとり言を呟く。愛しい男の帰りを待ちながら、かの男の為のショコラをあつらえるのだ。彼の為だけの。 「…すきだよ、だいすきだよ、」 誰もいないからこそ、懐かしい旋律を唇にそっと乗せて秘密の一人きりを謳歌していた。なまえはダークブラウンに映る愛しいおとこに、夢中なのだ。 夢中だから、足音ひとつにも気がつかないときた。 「さて、ラムは…っ、と。」 「…そこじゃねェ、右から二番の奥に秘蔵のがある。」 「……キッドいつの間に…。おかえりなさい。」 「おゥ。」 バッカスのテーブルから無事帰還したのか。港街に出掛けて暫く、待ち望んだ男はとっくの前に寝ぐらの船に戻っていたらしかった。 キッドはボトル片手にドアに寄っかかって、『気づくのにどれくらいかかるか試していた』などと人を食う様な台詞を愉快げに漏らしていた。 「ラムは多い方が好きだ。」 「はあい。」 微笑みひとつ投げればキッドはボトルを持ったままぱしりと受け取って、にぃ、と口のたもとを動かす。 動かしたのはそこだけ、後は手を再び動かし出したなまえを見つめるのだった。 「さっきの歌。」 「聞いてたの…?」 「ベッドでもっかい歌えよ。」 「…もぅ。」 聞いていたの、と尋ねれば最近聴いてなかったからなと事もなげに言われてしまった。…少々気恥ずかしい。 約束を取り付けられて、オーブンから取り出したスポンジはもう充分冷えた頃。生クリームがチョコレートに溺れていく時までキッドはなまえの髪の流れを辿っていた。 ずっと眺めている気だろうかこの男は。 「あんまり見られると緊張しちゃうよ。」 「おれがおれの女を眺めてるだけだ。可笑しいか?」 「可笑しい、とはまたちょっと違うけど…見てるの楽しい?」 「サイコーだな。」 おれ以外の甘ったるい香りに染まってるなまえは、珍しいんだ。たまにゃそれに浸ってみたくもなる。 「おれの香水以外でおまえがまとっていいのは、服とその甘いにおいだけだ。」 「キッド酔っ払ってるでしょう?」 「さあな。」 嘯いているのか本気なのか、ボトルを煽って一拍。頬に酒精の一筋を作って拭いもせずに上機嫌となっていた。くるくると行ったり来たりするなまえをうっそり眺めてはその『悪魔』とやらに首っ丈の己の女の背中を目で追っては、また笑う。 ラムなんぞで酔っ払やしねェがおまえと『それ』で潰れる自信はある。なんぞ言い放ってやればこのなまえはどんな顔を見せてくれるのだろうか。 「何を作るか秘密にしたかったのになぁ。」 「おれに隠し事たぁいい度胸だな。諦めちまえ。」 「しょうがないキッドさんですねぇ。……悪魔のケーキを作ってたから秘密にしなきゃと思ってたのよ。」 「おれにピッタリじゃねェか。」 「ふふっ、悪魔の実を食べた海賊さんにぴったりでしょう。」 なまえはもう一度くすくす笑み崩れると、最後の仕上げに取り掛かるのだった。キッドのご希望通りのラム酒を表面に、少々多めに塗れば完成。 デビルズ・フード・ケーキ!悪魔の食べ物、人を虜にしてしまう魅惑の真っ黒なチョコレートケーキ。まったくもって『キッドらしい』ではないか、キッド程この悪魔そっくりな男もいない。彼を知ってしまえば他のものなんて目に入らない、そんな魅力的な愛しいおとこ。 「…はい、キッドお待たせしました。ハッピーバレンタイン。」 「おゥ、有難く貰う。…ああ、それとだ、なまえ。」 「なあに?」 ただでさえおまえとこれの所為で酔いが回ってるんだ、これを食ったら相当なモンになっちまう。と前置きひとつ。小首を傾げるなまえにキッドはいつもより小さな声で囁いてやるのだ。 「なまえが酔わせたんだ、何されても文句言うなよ…?」 チョコレートで酔っ払いになっちまうなんて!なまえはこの『悪魔』とどんな取り引きをしたのだろうか。 「私だってキッドに酔っ払ってるのよ。…ずっと前からだけど。」 「……今日はお口がなめらかだな、」 「悪魔の所為なの。」 「そりゃあいい。」 つややかに笑って、虜にされたおとことおんなはやおら重なっていく。 今宵は二人きり。 【いただきます。】 |