「っぅ、あ…」 声を出してしゃっくりまで上げて泣いたのなんて久しぶりだった。「close」のプレートが掛かったカフェの中でなまえは涙も拭わずただひたすらに泣いていた。テーブルの木目だけが歪んだ視界に広がる。その両手にはお守りの様にパステルカラーの手帳があって、静かに彼女を慰めていた。 それでも心はこのカフェの名前にそぐわない濁った色のままだった。 「…誰かいるのか?」 「っく、…ぇっ?ろーさっ、ん…」 「…酷い顔、だな。」 カロンカロン、と金属がぶつかり合う。 ドアが開いたという音が響き男の言い淀む声が遅れて聞こえた。知っている声に慌てて手帳を隠そうと両手で握り締める。どうして此処に?と目線を上げると眉間に皺を寄せた顔とかち合っていた。 「こっちの台詞だ、全く。プレートが『close』の癖に人が中に見えて気になった。…あんたとは思わなかったが。」 コソ泥でも居るのかと様子見したんだよ、と言いながらローはなまえの頭を不器用に撫でる。 「わざわざ、ありがとうございます…、紛らわしくってごめんなさい。」 「謝るな、何があった?」 「…ローさんにご迷惑かけてしまうから、あの、」 「迷惑かどうかはおれが決める。」 「…ただの愚痴です、よ…?」 「構わない。」 「…え、と…ヤキモチ、妬いてしまったんです。私が、勝手に…偶々、目にしちゃって…」 碌に確認も取らないまま…逃げ出しちゃってとまとまらない言葉で言い連ねなまえは不器用に笑って、また涙を零していた。ローは弱り切った彼女に手を伸ばし目を細める。 「…なまえ、あの男が原因だな…?」 ローは彼女の頭にやんわりと手を乗せた。乱暴な物言いの癖に撫でる手はどこまでも柔らかで、止めようとはしなかった。ローの問いは確信めいていて、その声になまえはわかりやすく肩を揺らしてしまう。 そうか、とだけローは言葉を落とした。 「あの男の場合…寧ろ今まであんた一人に入れ込んでたのが異常だ。」 「…どうして、ローさん、そんなこと知っているんですか…?ドフラミンゴを知って、いるの…?」 「…あの男とは、色々因縁があるんでな…」 元々ここに来たのもあの男が入れ込む女に興味が湧いて、あわよくば弱味でも握れないかと思ってた。と淡々とローは話す。 「結局収穫なんて手に入らなかったが。」 その変わり、あんたを知っちまった。と目の前の男はどこか諦めた様に呟いた。 「…ぇ?」 「シンク、借りるぞ。」 なまえの小さな疑問には答えずローは勝手知ったる何とやら、手拭きと保冷剤を引っ張り出し簡単なアイスノンを作る。手早く作ったそれをなまえに手渡し使え、と短く言った。 「あ、すみません…」 申し訳なく眉を下げたなまえは冷えたそれを閉じた目に当てる。しかし目を瞑ってしまえば瞼の裏に映るのはつい先ほどのあの光景だった。あの人は誰?どろどろしたものがまた湧き上がって、なまえは自分が怖かった。…心が苦しい。 「あいたい、」 本気の気持ちだからこそ心は苦しくて悲しくて、こんなにも寂しい。寂しくて悲しくて堪らない。 ドフラミンゴに、会いたい。下腹を撫でる。 「…それを、言うな。」 「ごめんな、さい、」 「…謝るな。」 「…っ、」 「泣くな。」 「すみませ、止まら、なくってっ…」 「あの男の為に、泣くな…!」 張り詰めた声が華奢な体を包んでいた。勢いよく硬い胸へと引かれなまえの薄い背中は男の腕で逃げることが叶わなかった。顎に大きな、すらりと長い指が掛かる。 「ロー、さ、」 「なまえ…あいしてる、」 やめて、と言おうとするがその前に聞かないとばかりに唇が降ってきてしまった。今のローの想いを代弁する様な、熱い口付け。強く押し付けてくるかさついたそれは何度も角度を変えてなまえの唇を食む。歯を立てて、舌で舐められて、時折苦しげな吐息が漏れる。彼女は硬く唇を結び、微かに体を震わせることしか出来なかった。 「…っは、」 「はぁっ、は、ぁ…」 何時間も重なり合っていた感覚だった。何時もと違う感覚だった。…違和感、だった。やっと開放されて息を吸い込んだなまえの瞳はぽろぽろと雫を落とす。どうして、なんで、と潤む視界で揺れるローを眺め入っていた。 「…あんたは、おれの為になけばいい…。」 「おねがい…です…やめて、ください…はなして…っ」 「あんたの涙をおれに、くれ。」 「…私はドフラミンゴのもの、なの。」 「あんたがなんだろうと…構わない。あんたの涙に惹かれてしょうがない。」 「私、ローさんの気持ちを受け取れません…」 「それでもいい。」 ローは更にきつくなまえを抱きすくめ、涙にくれる瞼を啄んだ。彼女は懸命に押し返そうとするものの、男と女の差は歴然だった。 「迷ったさ…何度も。だが迷うことすら心地よかった、我ながら呆れたな…。あんた、だけなんだ。あんたが欲しい、おれはあの男から奪うと決めてしまった。」 哀切極まりない、激情に総て身を任せた声だった。掠れ焦がれたおとこの声は締め付けるまでになまえを遣る瀬無い思いへと追い詰めていく。 「気持ちに、応えることは…できません…それでもいいなんて言わないで。ローさん、今酷い顔してますよ…?」 そう言われてからローは初めて己の全身に力が篭っていたことに気がついた。強張る眉間がじくじくと悲鳴を上げていた。 「私がローさんを好きじゃ無くてもいいなんて、それでも、構わないなんてかなしいです。」 「…なまえ、」 「…ローさんは素敵な人で私のお店にも来てくれて…私はローさんにあたたかい気持ちでいて欲しいんです…苦しまないで…」 仲良くなった人が苦しむ姿なんて見たくありません。これだけは譲れないんです、どうか許してください。となまえはまた涙ぐむ。声はどこまでも柔らかい。 その言葉でローは肩の力が無くなっていく。腕の中からなまえを出してやると彼女はそっと男を見上げた。 「私…お腹に子どもが、いるんです…、ドフラミンゴとの子ども、です。」 「…だろうな。」 絞り出すなまえの声にさしてローは動揺してはいなかった。彼女が体調を崩したあの時、もしやと思っていたのもある。 「私は。…ドフラミンゴにどんな風に思われても構いません。…別れろ、と言われれば別れます。何処かへ消えろ、と言われればこの街から出て行きます。…自分で言って重い女だなっていうのはよくわかってるつもりですよ。」 「子どもは…どうするつもりだ…?」 「お父さんが居ないのはこの子にとって寂しいでしょうけど、もしドフラミンゴに反対されてしまっても…私、産みます。」 どんなに嫌われようが拒まれようが想うのはドフラミンゴばかりだった。例え他の誰かがこれ以上なくいつくしんでくれようが、なまえはドフラミンゴ以外、もう愛せない。 「ローさん、愛してると言ってくれてありがとうございます。でも私はきっとどこまでも『ドフラミンゴのもの』ですから。」 「いいのか、」 「…はい。」 痛そうに泣き笑いを浮かべた彼女は手の届かない場所に居るおんなだった。ローは一度だけ、目を伏せた。 「…もし、本当にそんなことが起こったら、巣を無くしたらおれのとこに一度来い…助けぐらいにはなる。」 「でも、私は、」 「おれは未練がましく無いんでな。」 「…ローさん、」 「あんたが上手く立ち回れるぐらいの手助けが出来る、と言ってるんだ。あの男の手が届かない場所に『その時』は連れて行ってやる。」 「…は、い…。」 暫くはアイスノンで冷やしてろ、いいな。と医師と患者の様な会話をしてローはドアを押した。風が頬を撫でることすら気になって仕方ない。 「…馬鹿なおとこだ、」 ローは答える相手を求めずにズボンに手を突っ込み、ややあって通話ボタンを押していた。 |