或る街のニゼル・ブルー | ナノ


(名前、名前かぁ…)

   腰掛けたなまえは木製のテーブルに突っ伏していた。まず規模がケタ違いなプレゼントをされたところから彼女の思考回路は上手く機能していない。あれから三日、カフェの準備は着実に進み、知り合いのモネやベビーもドフラミンゴの計らいで共に働く事になった。気掛かりは未だにこのカフェに名前は無いことである。
   突拍子もないプレゼントだがドフラミンゴが贈ってくれたのだ、大切に考えたいとなまえは木目に指を這わせる。

「んー…、」
「…ィ、オイ。」
「は、い?」
「ここは客の対応をしないのか?」
「…あ、ごめんなさいっ、つい考え事を…」

   同年代か少し上か…それくらいの男だった。青みを帯びた黒髪、すらりとしたモデル体型。…隈があるのが少々気になるところだ。静かな物言いに思わず返事をしてしまったがこのカフェはオープン前だとなまえは我に返る。

「返事をしておいて、なんですが…ここまだオープンして無いんです。申し訳ありません…今日はちゃんとおもてなし出来ないんです…」

   ごめんなさい。と眉を下げるが男はあっさりと「知ってる」と答えた。

「しってる…?」
「ただの興味本位だ…。」

  『鳥のつがい』がどんな人間か、と男は声には出さなかったが。しかしこの隈の男にとってつがいは予想以上に地味な女であった。

「『close』って掛かってたしな。揶揄っただけだ。」
「からかうって…」

   初対面の男性に揶揄されるなんて、となまえはまた別の意味で眉を下げてしまった。

「悪かったよ…」

   ニヤ。はたして本当にそう思っているのか甚だ疑問である笑顔であった。

「しかし『ニゼル・ブルー』か…いい趣味だ。」
「ニゼル?」
「何だ、知らないのか?」
「はい。…何ていう意味なんでしょう?」
「…カラーバリエーションの一つだ。丁度ここの屋根の水色だな。」

   その言葉を聞いてなまえは噛み締める様に「ニゼル、ニゼルかぁ…」と小さく繰り返し、やがてぱあっと表情を明るくさせた。
    そうだ、この抜ける空の様な色がいい。ピースがかちり、と嵌った感覚だった。

「…店名、これにしよう…」
「ん?」
「ありがとうございます、あなたのアイディアでここの名前、決まりました。」
「…!…へェ…」

   『ニゼル』にします。とふんわりとなまえは微笑み、再びありがとうございました。と男に声を掛けた。
   予想を大きく外してしまったのは男の方である。まさか興味本位でちょっかいを出した『あの男』の女にこんな風に笑い掛けられるなんて。目の前の女はイメージしていた性格とも、あの男とも正反対だった。

「そうしたら名前を決めての、初めてのお客様ですね。…えっと。おもてなし、たいしたこと無いんですけど…名前のお礼にご馳走させてくれませんか?」

   余程嬉しいのだろうか、にこにことカップを取り出したなまえはコーヒーぐらいなら出せますので。と控えめに男に小首を傾げる。

「じゃ、コーヒーくれ。」
「はいっ。」

   いそいそとなまえは湯を用意し始め、店内は仄かに挽いた豆の香りが漂っていく。あ、そういえばスティックシュガーはどこだったかな。と辺りをきょろりと見回して高い位置の戸棚に目を向けた。確かあそこに仕舞った筈だ。

「よっ、しょ…」

   踏み台が見当たらず、なまえは近くの椅子に乗って手を上に伸ばした。矢張り目的のものはここにあって彼女はよし。と椅子から降りようとした、しかし。

「おいっ、」
「え、…わわっ!」
「案の定か…!」

   ぐら、と歪んだ視界になまえは堪らず目を閉じてしまった。やっぱり踏み台をちゃんと探すべきだったと思うがもう後の祭り、バランスを崩したら重力に従って下へ、衝撃に構えるばかりである。

「…?」
「…驚き過ぎてものも言えないか?」
「っ!ご、ごめんなさいっ!」

   抱きかかえられていた。硬い床の感触では無く温かい、細身に見えてもがしりとした『男』とわかる腕と胸板。こんなに異性と接近するのは正直ドフラミンゴ以外初めてだ。なまえは羞恥と申し訳無さとかの恋人とは違う温もりの違和感を感じて慌ててもがいてしまった。感情がごちゃ混ぜになって目頭がじん、としてしまう。

「どこも怪我は無いな?」
「ぁ、はい…、」
「…。」
「あ、あの、はなして…いただけませんか?」
   
   言葉と共にほろり、と零れたなまえの瞳の雫。頼りげの無い彼女の眼差しは確かに男に向けられていた。
   男はギクリと、した。情けない、無様だと僅かに残る理性が嘲笑う。
   何の特徴も無い女だと思っていた、しかしどうだ、どんな涙よりも『それ』は何の謀略も打算も無い澄んだ雫に見えた。ただそこに存在していた雫。そしてそれを当たり前の様に湛える、おんな。
   成る程、あの男は『これ』にヤられたのか、
   
「…ほらよ。」

   なまえをゆっくりと腕から降ろした男だったが目線は彼女から外さなかった。たじろぐなまえは何が何やら意味が理解出来なくて、取り敢えずお客様になんて事を!と思考が回り出すに従って顔を青褪めている。涙はまた彼女の瞳から生まれてしまった。

「すいませ、ん。すぐ止めますから…、」

   幼い、と思った。男は気付けば涙を拭うなまえの頭を撫でていて「気にして無いから、いい。」とだけ早口に告げていた。己で言っておきながらその台詞にお前は誰だ気色悪い、と内心毒付く。

「へ…?」
「ゆっくり息を吸って、そう…それで少しずつ出せ…」
「はい、」
「上手だ。」

   暫くして落ち着いたなまえがまるでお医者様みたいですね、とやっとこ微笑むと鼻で笑い「これでも医学生なんでな。」と皮肉めいてみせていた。
  それから。忘れかけていたコーヒーを淹れて、少し話して。なまえが男に「また来てくださいね。」とドアの前で見送る時には陽は傾いていた。

「気が向いたら、な。」
「はい、楽しみにしてますね。」

   ゆるく笑むなまえはどこまでも穏やかで、男は心底『つがいの鳥』と改めて思っていた。毒々しくわらう派手な男と、地味な…透明な涙だけを持っている女。

「ロー、だ。」
「はい?なんですか?」
「トラファルガー・ロー。おれの名前だ、『あなた』なんて言われ慣れてないんでな。呼ぶならこっちにしろ、いいな?」
「なまえです。それじゃあローさん、またいらしてくださいね。」
「…気が、向けば。」

   ロー、と名乗る男は思いの他、『気が向く』らしくカフェ・ニゼルが正式にオープンしてからもちょくちょく姿を見せていた。






    今日も『気が向いた』様でローはなまえがよく見える位置の席へとついていた。時間は大抵同じ。因みにドフラミンゴはなまえが居る日の十二時前には必ず昼食を取りに来てひとしきり談笑して帰る、時々なまえを攫っても行くが。閑話休題。
   モネ達も一緒に働いているのだがどういう訳か決まってこの男、トラファルガー・ローはなまえが一人の時にしか訪れ無い。

「BLTとコーヒー、頼む。」
「…、」
「どうした?」
「あ、ぼぅっとしてました…サンドウィッチですね、」

   この日は妙な胸騒ぎがした。体調が優れないというか、胸が何だかむかむかする。なまえは風邪かな、と朝に熱を測ったが特に変わりは無い。

「…っう、」

  おかしい。突然吐気が来る。
   ベーコンの臭いを嗅ぐと気持ちが悪くて受け付けられない、こんなこと初めてだ。なまえは力無くずるずるとその場へとしゃがみ込んでしまった。ローは瞳を僅かに震わせると一言も言わず、しかし椅子を倒したのも気に留めないままになまえの元へ駆け寄った。

「体調不良か?…いや、喋らなくていい。」

   変に冷静な声で小さな背中を摩ってやる。この男がこんなことをするのは記憶が確かなら殆ど生まれて初めてであったが、その手は随分と優しかった。…しかし少々ぎこちない。

「だ、じょ…ぶ…」
「おれに嘘を付くな。」

   真っ青な顔色で何をほざいているんだと、怒鳴ってやりたかった。体調が悪いなら何故おれに言わない。医学生だと、医療の知識があるとあんたに教えた筈だぞ。その言葉を飲み込みローはなまえの状態と考えうる可能性を照らし合わせる。食べ物の臭いに嘔気、そしてこいつは忌々しいあの男の、

「…あんた、最近男と関係を持ったか?」

   大事なことだ、変な意味じゃねェから答えろ。と真剣な硬い声が思考がふらつくなまえに届く。彼女はたちまちに瞳を潤ませて聞こえるか、聞こえないかそれくらいの小さな声でただはい、と答えた。

   相手は一人しか居ない。なまえは無意識にその下腹部にそうっと手を当てた。



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