冥王と雨の日 今日の雨を私の故郷では『虎が雨』と言うのよ。 しとしと、とマングローブの葉を叩く音が一面に響いて空は薄霧に隠されていた。シャッキーが営むバーもまた、海の水と雨水が混ざり合う合図に包まれていたのだった。 外は雨の音ばかり、誰の足音も聞こえやしない。 「あァ、確かワノ国に似た言葉があったな…。」 やはりかの国の文化は通じるものがある。なまえは相槌を打ちながら食器を棚に収めていく。 「あら、二人だけの合言葉?」 「そうさ。」 「ふふっ、レイリーったら…。」 店の主が興味ありげにカウンター越しから言葉の往き来を眺めている。 幼い妻の仕事終わりを椅子に座って大人しく待つ男はくるくる働くなまえを愛でる様にろろんと見つめ、頬杖を付くのであった。 シャッキーは少しだけわらう、あなたそんなタイプの男だったかしら。 「なまえとわたしだけがわかる。なんて素晴らしい事だ、とは思わないかい?」 「…悪いおとこねぇ。」 「海賊なのでね、わたしは。」 「あ、ははは…」 得体の知れない惚気を聞かされてもさらりと流すところは流石と言えばいいのだろう。こういう大人の会話、というものに憧れてシャッキーが時々羨ましくなってしまう。 彼女の方がレイリーに似合ってるのでは無いか、と呟いた過去も幾度かあったが…ありとあらゆる手段でレイリーに諭されたのでなまえは微笑むだけに留まるのであった。 「シャッキーさん、ゴミ捨て行ってきますね。」 「よろしく。それ終わったらなまえちゃん上がってちょうだい。」 「はあい。」 ゴミ袋をぎゅっと括って、裏口まで運べば今日の仕事はおしまいだ。てくてくと歩いて行って、レイリーにもう少しだけ待っていてねと告げてから裏口のドアを開くのだった。 今日のご飯何にしようかな、レイリー魚が食べたいって言ってたし…。なまえは頭の隅でそんな事を考えながら。 「…本当はなまえをどこかで働かせる気は無かったんだがね。」 「困った人ね、あの子は大事なウチの従業員なのに。…お家の中で大事に大事に『ナイナイ』したかった?」 「勿論。だがなまえが自分が働かないのは嫌だと、可愛くていとけないワガママを言ったからなァ…。」 「悪い顔になってるわ、鏡を用意しましょうか?」 「ハハ、」 なまえを待つ間の世間話にしては遠慮が無い。頬杖を随分前にやめてしまった男はのたのたと立ち上がると、裏口のドアへと目線を向けるのだった。 「…悪い虫が付くのが嫌なのでね。なまえは人が好いから、付け込まれ易い。」 「…そうねぇ…行ってらっしゃい。そのまま帰る?」 「そうしよう。ではまた。」 目付きがいつの間にか変わってしまった男はやおら立ち上がると獣の様にしなやかに店から外に出るのであった。 目指すのは裏口である、なまえと『誰かもう一人』いる方へと音も無く歩いていく。雨の音の隙間に二つ分の声が聞こえ始めれば目付きの鋭さは益々きつくなるのだった。 「…の、…ですので…。」 「…!…キミは…!…どうして…」 おや、今日は若い男か。あのパン屋の若者には随分前に釘を指した、なら今日は誰か? 顎髭を摩りながら白々しくも目を細める姿はまさに海賊そのものだ。哀れなまえ、冥王に目を付けられたのが運の尽き。そんなそら恐ろしげな台詞を喉の一番奥で転がしていたのだった。 「これ、お返しします…。私はお返事出来ませんから…。」 「せめて読んでください、あなたの為にしたためたんだ…!」 なまえの逃げ道は後ろを店の壁で塞がれて、前は男によって塞がれていた。困り果てた彼女は持て余した封筒一つの所為で身動き取れず、鉛で出来た様な便箋はなまえの心に酷く重くのしかかる。 「読むだけでも…!」 「え、と…だから、」 相手の男は必死だ、余裕の無い男など見苦しいものは無いとレイリーは歩みを止めるのだった。 「おれの気持ちなんだ!」 「あ、の…っ、」 なまえの目尻は雨では無い雫が浮かんでいた。彼女が涙の雨を降らしていいのは己と共に居る時だけ、己の為だけだというのになんたる事か! 雨を流し続ける、かの虎の御前の様にたった一人のおとこの為だけに…なまえはその美しい涙を零せばいい。 「仕方ないなァ…。」 さて、可愛い可愛いなまえはどうしてそれを受け取ってしまったんだい?受け取れば押し切られて泣いてしまうのは自身が一番よく知っているだろうに。 おとこは、音無く静かにわらう。 腹の底が煮えていると、とうに知っている癖に知らんぷりを決め込みながら。 「なまえ。」 「…!?」 「返事をしてくれないのかな?」 「レイリー…」 慌てふためく男など興味無い。するりと二人の間に体を割り込ませるとおとこはあれだけなまえが持て余してしまった一通の封筒を取り上げてしまったのだった。 「さて、と。これは一体…なんだね?」 「…あんたには、関係無いだろう!父親か爺いか知らないがそれは彼女におくった物だ!」 「おまえには聞いていない、なまえに聞いているんだよ。…なァなまえ?」 「れ、れいり、」 いつもの、朗らかに微笑むレイリーでは無かった。賢い獣が牙を器用に隠して佇んでいる、その姿をなまえは身を縮ませて見上げる事しか出来なかった。 「これは?」 「お手紙だけど、まだ中は読んで無いの。」 「どういう意味を含んだものかね?」 「いみ、は、」 「具体的に、と言った方が分かり易いな。例えばラブレター、とか。」 「ウルサイ!返せ!親は引っ込んでろ!!」 顔を真っ赤にした男は棘まみれの言葉をレイリーに叩きつける。 最近ようやっと言われなくなった単語の棘がかの男に次々に食い込んでいく様をなまえは止める暇も無かったのだった。 「そうじゃ、無くて…っ!」 「…。…ちちおや、ねェ。」 「あの。レイリーは父でも祖父でもありません。」 「そうだな、」 硬質の声にぴくり肩を跳ねさせてしまったなまえが小動物そっくりでレイリーは口角を一瞬上げ…わらい顔を引っ込めた瞬間にはグシャリと持っていた封筒を握り潰してしまった。 爪の先が白くなってしまっているのは、それだけ力を込めている証だ。それ程までにこのたった一通が目障りでならない。 まるで、詰まった感情ごと捩じ伏せたかの様だ。いや、『まるで』では無い、事実その通りだろう。 「父親ならこんな事はしない…!」 「きゃ、」 ぐしゃぐしゃになった封筒を放り捨て、レイリーはなまえの手首を掬い取る。そしてとんっ!と壁に押し付けてしまうのだった。 「レイリー…?!」 「嫉妬したんだよ、なまえ。おまえがこんな男と二人きりだったから。」 「ぁ…。っん、んん…っ!」 「ハ…」 「?!!」 なまえがこたえる前にはもうおとこは小さな唇を己のそれで覆い尽くしていたのだった。強引に舌を捻じ込んで、歯列を確かめては震える舌を何度もしごいてやる。 「ん、んん…っ!ひっ、」 なまえはなけなしの力を振り絞って声を抑えていた。腕の自由は既にこのおとこのものに、なってしまっていて声の大きさ程度しか思い通りにならない。 目の前に他の人間が居て、こちらを凝視しているのだから彼女の抵抗はさもありなん。唇は僅かで離されたが今度は耳朶に熱くなった唇が落とされ、硬いものが甘く噛み付いてくる。 ちゃぷちゃぷと海の音でも雨の音でも無い水の音がなまえの五感を更に奪う。 「わたしはなまえの夫でね。…妻はわたしに手一杯なんだよ…。帰ってくれないか?」 「な、な、なに、が、」 「失せろ、と言った。聞こえなかったか若造。」 獣が牙を見せた。たった一瞬だけであったが力の差は歴然で名も告げる事を許されなかった男は背を向けて走り出してしまったのだった。 捨てられて紙屑となった手紙など忘れて、逃げる様に走り去ってしまった。 「なまえ…きみは警戒心が無い、お人好しが過ぎる。」 「んっ、ん…ぅ」 はやくどうにかしないと、随分前に眠ったけだものが起きてしまうやもしれない。 耳元で、鼓膜にとろりとろりと注ぎ入れるのはおとこの熱だ。 「れいり、れい、りー…」 「そう。わたしだけを感じればいいよ。」 力が入らなくなって、かくんと崩れ落ちそうになったなまえを抱き上げるとレイリーは悠々と歩き出すのだった。 勿論、すっかり体温が上がってしまったなまえを逃がさない様に、誰にも見せない様に腕の中へとしまい込んで。 雨は、今だ降る。
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