きみをまもる、いくつかの手段 | ナノ


▼ 奇跡は、

  帰る方法は模索して久しく、エースは身につけていたナイフと記録指針の手入れをしているのだった。テレビは昼のワイドショーを流しオールバックの司会者が物々しい顔で女優の不倫について文句を述べている。

「チョコの匂いがする…」

  いとのダイガクは今日はキュウコウらしい。昼食後から台所に篭って甘い匂いを漂わせていた。
  甘いものも好きだと言ったらおやつを作ろうと二つ返事で返ってきて大喜びしたのが午前中、今はこうしていとの邪魔をしない様に大人しくしていたのであった。

「…。」

  甘い匂いについ、想像してしまう。いともしモビーに乗っていたら毎日お菓子を作ってくれていただろうか。部屋は一緒でいとを抱き締めて眠っているのだろうか。
  
「…ばかだろ、おれ。」
「エース?後は焼くだけだから…って、あれ?何してるの?」
「お、わっ、」

  ひょっこりと顔を覗かせたいとはエースの手元を見て小首を傾げていた。

「はー…。ナイフの手入れ、してた。錆びちまうといけねえから。」
「こっちは…?」
「記録指針、これも磨いちまう。」
「ろぐぽーす、」

  コンパスみたいなもんだよ。と刃を真剣な瞳で検分してから鞘へと収める。ゆらゆら揺れる針は何処を示す訳でも無く回り続けて、何かを探そうと必死になっていた。
  そっくりだ、と思ったのはどちらだろうか。

「何処を指そうとしてるんだろうな…」
「迷子になってるみたい。」

  こちらに着いてすぐこれも、ビブルカードも試したがこれっぽっちも反応なんてしてくれなかった。
  だから他の方法を見つけ出さないといけないのだ、己は、帰らねばならない。

「…。」
「エース、触ってみてもいい?」
「あぁ。…こっちには記録指針ないのか?」
「普通のコンパスならあるんだけどね。」

  目線と同じ高さにして、いとは揺れる針をじいっと見つめるのだった。エースの住む場所にだけある奇妙な形のコンパスは丸いフォルムを光らせて静かに佇んでいる。

「いと、ガキみてえ。」
「ええっ?」
「港に寄るとさ、そこのチビがそうやって覗き込むんだよ。」
「えー…」
  
  唇を尖らせてしまったいとは本当に子どもっぽい。可愛い、と心からおもう。いとの中に己の平穏と柔らかな心と焦がれる熱が宿っていると知ったのは…あの夜からだ。
  このひと時が宝石なんか足元にも及ばない程輝いて、眩しくて堪らない。眩しいのに、勿体無くて瞼を閉じる気が起こらない。

「なあ、いと。」
「なあに?」
「おれがさ、もし。」
「うん。」
「その、だ、」

  愛してる、と言ったらどうする?と舌に乗せたのは半分無意識だった。

「っ。エースっ!」
「あ、な、なんだなんだっ?!」
「針、止まった、」
「…は?」

  嘘だろう?と目を見開いてエースはいとの手元を凝視する。どくどくと脈が一気に駆け出して痛みを覚えてしまう程だった。
  針が、止まっている。まっすぐに、庭を指し示す。顔を上げれば庭は丁度光が差し込もうとする頃合いだ。光の反射で上手くその先を見出す事は叶わないが、

「エース、これっ、このまま外に出たら。」

  帰れるんじゃ、といとが口を開こうとした瞬間。

「っ!!」

  途端に天井と床が入れ替わった。いや、上下が反転したのは自分だとわかったのは後頭部がごちんと畳にしこたまぶつかった所為だ。
  天井を隠す様にエースが目の前にいて、見た事もない顔をして瞳を揺らしていた。

「みるなっ。」
「え、えーす、どうし、」
「喋んな…」

    いとは、どう応えていいのか喉を詰まらせていた。相手は子どもで、でも真剣そのもので、曖昧にはぐらかしては駄目だという事だけしか分からなかった。
  エースは、無邪気でまるで子犬みたい…かと思えば途端に大人の男の様な立ち振る舞いをしてみせる。不思議な『少年』だった。優しい子どもだ。
  子どもの筈だった。

「いとは、今すぐおれが帰ってもいいのか、」
「で、も、これがチャンスなら、」

  いとの声に押し倒した腕の力が強まっていく。こんなに、力が強いなんてと彼女が驚いてしまうのは仕方がないだろう。苦しげな面差しのエースは、唇をわななかせて喉を震わせる。
  しかしその声は声にはならない。
  
「エース、」

  いとは、今までこんな狂おしいまでの熱を込めた視線を向けられた事はない。無いが、この眼差しと熱に込められた意味を知っている。
  心が苦しい、苦しいのに喜んでいるのは間違いなく自分の心だ。
  私は、エースの事が、


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