きみをまもる、いくつかの手段 | ナノ


▼ 君はあたたかい

「風、冷てーなァ…」

  見張り台に吹き付ける風は強い。びゅうびゅうと頬も髪も体温をさらっては駆け抜けていく。けれどもこの青年は自身が『炎』であるのを差し引いても…この場所から動こうとはしなかった。
 水平線は黒のベルベットを敷いたままだ。

『いととよく話せ。』

  あの眠たげな目元が瞼の裏を過る。お決まりの口癖を思い返してはハァ、とエースはらしくもない溜息をつくのだった。
 いとに切り出そう、この時こそ、とたたらを踏んで声を飲み込んでいやどうまとめようかと思い直して…結局言葉の尻尾も掴めずに太陽どころか月さえもとっぷり沈んでしまった。もうじき再び陽が昇るだろう。
  いとを守りたい、けれどもこの真実を伝えればいとはどんなおもいを胸に抱えていく事になるだろうか。

(いつかは話さないといけねぇ、いけねぇのはわかってんのに、)

  言葉とはいかなるものか。とうとうゲシュタルトの崩壊まで引き起こしてしまってエースは一人ガシガシと黒髪を掻きむしるのだ。踏ん切りがつかない己が歯痒くてしかたなかった。

「今は、まだ、」

  水平線のその先に小さな島影がある事などとっくに気が付いている青年は、それだけ口にしてから身軽に甲板へと降りていったのだった。
  無価の愛しい面影にくれながら。冷えた己をいとのぬくもりであたためてほしいと切に願いながら。

「いとも島、一緒に行くか?」
「いいの?ありがとう。」
「当たり前だろ。おれもいろいろ買い足してェし。」

  デートの約束をこっそりと、小声で決め合ったのは太陽がすっかり昇った朝食時だ。「島が見えたぞー!」の一斉の声は朝陽を浴びるモビー・ディック号に響き渡り、皆が食堂に集まる頃には島の全貌が甲板から見渡せる程になっていた。

「おめかししてくれよ。前に買ってたコートのやつが見てェ。」
「前の春島で買ってくれたピンクの?」
「それ。」
「はあい、了解です。今日はおめかし頑張っちゃおう。」
「やり。楽しみだ。」

  冬島の秋らしく、甲板はピュウと木枯らしが吹き荒んでいる。温かくしておかなければ薄っぺらないとだけでなく大の男でも体の芯まで凍ってしまいそうになるくらいだった。ちゃっかりといとに厚着をさせる算段を取り付けて、エースはライ麦パンを頬張るのだった。

「…」

  隣でちまちまとミネストローネをスプーンで掬ういとをぼんやりと眺めるのは微笑みを引っ込めたエースだった。小さなその唇を目で追っているうちに言葉が途切れ、天使が通り過ぎていく。

「…ース、エース?」
「っ、わ。」

  先程までほのぼのと微笑んでいたいとが今度は心配そうにエースを見上げていた。目線を彷徨わせる青年に、眉を僅かに下げて小首をかしげる。

「呼んでも何か考えてるみたいだったから…。気になる事があるのかなって。」

  どうしたの?と尚も続けるいとにどうにも言葉を濁しながら返して、エースはじいっと見つめるその瞳を覗き込む。黒すぐりの実を食べたくなって、それからようよう腕を持ち上げて柔らかい髪を梳いたのだった。

「手、」
「て?」
「手ぇ繋いで歩こうとおもって、今日は!」
「…?うん。でもいつもお出掛けの時は繋いでるけど…?」
「ずうっと繋いでんだ。」
「ずっと?」
「おう。歩いてる時も座ってる時も、ずっと。」

  はて?と小首をもう一度かしげてしまったいとだがやがてその面持ちを綻ばせて自分を見降ろすエースを見つめ返すのだった。

「ふふっ、はあい。」
「…よし。」

『今はまだ話さない』青年はそう決めた。この細っこくて、頼りげないいとはまだ此方の世界に慣れてはいないのだ。まだ時期尚早だ、もう少し落ち着いてから。
  それに己がいとの隣にずっといればなんら問題なんて起こらないのだ。この優しい笑顔とぬくもりを曇らせたくないと、エースは隠し事を丸呑みにするべく大きなジョッキに手を伸ばした。



「…っしゃ、準備すーんだ。」
「くそっ!爆ぜろエースこのやろー!」
「サッチは出かけねェのか?」
「いい事教えてやる、二番隊隊長。…四番隊は見張り番と物資補給だよおれ居残りだよコンチクショウ。」

  大にぎわいの朝食から数刻が経っただろうか。モビーは島から少々離れたところで停泊し、用事のある者酒場に向かう者を乗せた小舟が海面へと降ろされていくのだった。エースは勿論愛用のストライカーの準備をして可愛い恋人が可愛く着飾って来るのを待っていた。

「くっそ、エースの癖に色気づいたカッコしやがって。
「うらやましいだろ?…ししっ、お土産買ってくっから愚痴んなよ。」
「絶対だぞ。いとちゃんが選んだやつを頼む。そしていとちゃんがおれのとこまで持って来てくれるのを所望する。」
「え?嫌だ。」
「拒否かよ!ヤローから貰っても嬉しくも何ともねェんだっつうのに…!」

  やっぱエース爆発しろ。とさめざめと泣き真似する男が頭を揺らす度に立派なリーゼントが風になびく。確かにいとならお土産だろうがプレゼントだろうが選ぶ時には一生懸命、本当に心を込めて考える筈だ…しかしその贈る相手がそれが己以外の人間であった時、どうにも腹の底がぐらりと煮えてムシャクシャしてしまう。
 だから、御免蒙る。

「いとまだかなー…」

  リーゼントと一緒に揺れる黄色のスカーフを横目にエースは晴れ渡った寒空を見上げたのだった。風がひゅう、と足をくぐってモビーの帆を転げ回っている。

「エースお待ちどうさまでした。」
「お、」
「サッチさんもお仕事お疲れ様です。」

  寒風が帆から船尾へ移り海へと飛び降りていってすぐ、首を長くして待っていたいとが小走りで近付いてくるのであった。約束のコートを着て、瞼を彩る色もいつもと違っていた。

「…かわい、」
「えっ、は、ぃ、ありがとうゴザイマス…っ」

  蕩けてしまった声は簡単に口から溢れ出てしまって、いとの肌をすっかり火照った色に染めてしまった。可愛い可愛いと連呼してはいとの体温を上げていく。照れいってしまったいとはしどろもどろで、瞳を潤ませてしまうのだった。

「その、エースも雰囲気違ってて、かっこいい…デス…」
「いととデートならおれだって張り切っちまうに決まってる。」
「う、ん。ありがとう…」

  エースもまたいつもと違う装いで、それが堪らなく新鮮に見えてしまうのだった。精悍な顔立ちにすらりとした鼻筋、なのに愛嬌まで完備している…そんな好青年に見つめられるのだ、体温も脈拍も簡単に上がってしまう。

「今日は雰囲気違うな。」
「ナースさんに教わったの。初めてのチャレンジなんだけど派手じゃないかなぁ?」
「きれーだ。」

  尻尾があるなら盛大に、千切れんばかりに振りまくっているだろう。エースはにこにこと頬をゆるませているのだった。
 己の為だけにおめかしをしてくれたと考えただけでいとを抱き上げてそのまま、くるくる回ってじゃれついてしまいたくなる。

「ハハッ。」

   因みにリーゼントを揺らしていた男は、どこか遠い目をしてこのやり取りを眺めているのだった。閑話休題。

「行くぞ?」
「うん。」
「気ィ付けろいとちゃん。特に危険なのは隣にいるケダモノだからな?」
「うっせー。」
「へっへ。ま、記録(ログ)が溜まる頃までには帰ってこいよ。」
「行ってきますね、サッチさん。」

  それからも言葉を交わしながらエースは手を休める事なくストライカーを海へと浮かべ、手馴れた調子でいとを抱え上げるとひょいと浮かべた小舟へと飛び降りる。
 そう、欄干から海へと、だ。

「…っ!!」
「よ、っと!」

  毎度のワイヤレスバンジーに涙目になりつつ、深呼吸。何度か梯子で降りる云々とエースと細やかな揉め事を起こしたが「時間がかかるし万が一いとが足滑らせて落ちたらどうするんだよ」でお流れになってしまった。

「身ィ乗り出すなよ?」
「うん。ふふっ、エースも気をつけてね?」
「りょーかいっ。」

   いとが船尾に座ったのをしっかり確かめて、一呼吸。たちどころにエースが足元だけに炎を現すとストライカーの動力は騒ぎ出す。
   島に目を向ければ後は進むだけ。二人を乗せた小さな船は波を切り始めたのだった。

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