きみをまもる、いくつかの手段 | ナノ


▼ ふたりでいればいい

「いとー…」

 水平線と空が重なってしまった様だ。どう見霽(はる)かしても遥か彼方まで雲は見えず、モビー・ディック号は青と碧に挟まれながらも悠々と澪の路を進んでいるのだった。

 本日は快晴、絶好の洗濯日和。船尾側にロープを張っては新入りのクルー達がすっかり洗われた衣服やシーツをヒョイヒョイと引っ掛けていく。

「洗濯物は一度しっかり伸ばして干すと皺が目立ちませんよ。」
「へーい…」

 その新入りの中で一番小柄なのはいと。女であるから当たり前であるのだが、当初は屈強な連中からこんな細っこいのが仕事をこなせるのか?と随分と心配されたものだった。
 いやいやしかし、これが中々。確かに力仕事は骨が折れている様子だが、細やかな繕い物は矢鱈上手いしはたまたナースのおしゃれ着を扱うのには当たり前だが手馴れていた。『やっぱり女物は女の子が扱ってくれるのが一番』とナース達は口を揃え『こき使ったら許さないわ』とすっかりいと贔屓になってしまっているのだ。

「お、いたいたいとっ!」
「エースっ。」
「隊長?!」

 最大のいと贔屓がこの青年だろう。当然といえば当然であるからいとに干し方のコツを教わっていた新入りは『それじゃ!』とだけ言って下がっていくのだった。

「お仕事お疲れさま…エースは休憩?」
「うん。いとに会いたくなった。」

 熱っぽいとろりとした掠れ声がいとの耳に注ぎ入る。
 洗いたてのシーツの中で二人だけの秘密を分かち合う様に身を寄せる。そばかすの頬はいとの頬と重なれば忽ちに温もりを生み出して、鼓動の音をひとつふたつと増やしていく。
 テンガロンハットをずらして、コツンと額をくっつけ合うとそれだけで喉がくつくつと鳴り出してしまうのだった。睫毛一本分しか空いてないまで近づいて、「すきだ」と呟いたのだった。

「…んっ…」
「へへ…」

 囁く度に唇がくっついて離れて、ふわふわ触れて、いとの柔らかさに心の芯まで蕩けてしまいそうだった。仕上げとばかりにかぷりと甘噛みの様なキスをしてそれから体を離す。いとは真っ赤だ、耳も首元も、夜の幕間に噛み付いた肌までも。

「かわいいなぁ、くそ…っ。」
「エースったら、ふふっ…あまえんぼさんだなぁ…」
「だっていとが好きでたまんねェんだ。」
「…お仕事終わるまで、もうちょっとかかるから待ってて?」
「やだよ。」

 体の至るところまで瑞々しい感情を迸らせては、好きだいとが好きだよと今度は腕を絡めていく。細い肢体に目眩がして、呼吸さえ難しくなる。酸素を求める様にもう一度いとの唇を求めようと背中を丸めたのだった。

「洗濯物終わったら休憩だから…これ以上は、」
「いと、」

 やおら動いて、逃がさないという様に右手の力を強めていく。どうせもう殆ど終わっているようなモンじゃないか、洗濯物よりもおれに構ってくれよ、海賊は細かい事気にしなくていいンだよ。と言い訳を次から次へと考えてそれから、


「じゃれるのも大概にしろよい。」
「げっ、」
「マルコさん。」

 意識はシーツの天辺から現れた金色のふさふさに持っていかれるのだった。ぴしゃんと切って捨てた全貌にいとはかの男の名前を呼ぶのであった。頭にぽんと乗った様な金髪に眠たげな瞳、エースよりも背は高いがカツンと鳴らすサンダルの音は軽やかだった。

「…ハァ、」
「なんだよ、マルコ…」

 いとを隠すように背中から覆い被さってむう、と口を尖らせる。これが二番隊の隊長かと頭痛がするのは気の所為か、マルコは目頭を摘まんで灰色の溜息をついてしまったのだった。

「若ェのが探してるよい。…おまえ組み手してやる筈だったろう?」
「あ。」
「忘れてたのかい…」

 まったく、と本当にウッカリと忘れてしまっていたらしい末弟のどんぐり眼を眠たげな視線で一瞥する。そのまま顎でしゃくってやる方向に待ちぼうけを食らったクルーがいる。
 しょうがない奴だと思っても矢張り、面倒を見てしまうのはこいつの性根か己の性か。全く、本当に、

「おらいってこい!」
「オゥ!いと、ちょっと行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
「頑張ってくるからな。」
「はあい。頑張ってきてくださいな。ひゃあ、」
「ししっ!」

 離れ際、大きな両手で彼女の髪をくしゃくしゃと掻き回してから太陽の様な笑顔を振り撒いて駆け出して行ってしまった。不機嫌は引っ込んでいる様で待ってろな!と少し離れてから片手を上げては振り返すいとに微笑みを投げかけていた。

「もう…エースったら。」
「もうちっと旦那を躾けたらどうだい、いと。」
「あはは…」


 不満を漏らす台詞を呟いてもいとはちっとも困った顔も声音もみせず、乱れた髪を梳き直していたのだった。マルコの冗談交じりにもくすくすと柔らかく笑み崩れてしまっている。

「…もうすぐ冬島に到着するよい。」
「冬島、ですか。」
「冬島の秋、だ。…体を冷やすなよ。」

 ただでさえおまえは、と言いかけて止めた。『これ』を伝えるのはエースでなければ。

「ありがとうございます。…風邪引かない様に気をつけないと。」
「…あぁ…」
「…?マルコさん…?」
「いや、いい天気だと、思ってねい。」
「そうですねぇ。」

 さておれもエースに構ってくるかと珍しく少しおどけて、金髪を揺らすとマルコは船首の方に向かっていったのだった。シーツの群から抜け、表情を固くさせて。

 サンダルの音さえもやにわに硬さを帯びてカツコツと鳴り響く。


「エース。」

 その固くなった表情を見たのは、下から…見上げたのはエースに吹っ飛ばされた若いクルーである。エースは汗一つかかずにトレードマークのオレンジカラーを被り直すと神妙さを貼り付かせたマルコを見やる。

「あん?別にさぼってねェぞ?」
「マルコ隊長お助け…」
「今日はいとちゃんに、隊長の過去バナ、した奴がやられました…」
「あぁそうかい。」

 死屍累々、とでも言うべきかこれは。この程度でへばるんじゃまだまだだよい。と斬って捨てた言葉にクルー達は相変わらずの隊長達によよと泣く者失笑を漏らす者様々であった。

「…エース、話があるから部屋まで着いて来い。」
「なんだよ。」
「『今しがた』サッチの奴から報告されたんだがよい、」
「…あ。…つまみ食い、の、ことか…?」
「何だ分かってンなら話は早い。」
「いや、あれはだな…あんまりにも旨そうな香りがしてだ、」
「喧しい。」

 あんなに眠たげな目付きをしているのになんであんなに鋭い眼光が飛ばせるのだろうか、エースは未だに分かりかねている。分かっていると言えばこの状態のマルコから逃げ出せた試しは無く、よしんば一時逃げおおせたところで後が怖いという事だ。

「スイマセンデシタ…」
「おら来い。」
「へいへい…」

 いとと会えるのが遅くなってしまう、なんたる誤算。とテンガロンハットの縁を眺め見つつ既に歩き出してしまったマルコの後をしぶしぶ追う。船内に入ったところで青色吐息、じとりと紫色の背中をねめつけるのであった。

「…で、だ。つまみ食いのお叱りはもうサッチから食らった筈なんだけど。」
「…エースに『口裏を合わせる』という芸当がまさかあったとはねい。」
「失礼だなオイ。」

 回りくどい真似をするのは性分に合っていないというのに。他のクルーに知られてはならない事でもあるのだろうか。外に居た所為か歩く廊下は薄暗く見え、先を進む男の気配は読み切れない。

「みんなにも教えねェって、」
「…あいつらっつうよりはいとに今は知られたくないんでな。」
「…いと…?…なんでいと?」

 突然の名前にエースは言葉の端々に疑問を含ませる。シーツの波間で微笑っていた柔らかな姿を思い起こしてまた謎を振り払おうとする瞬き一つ、二つ。
 目の前の男と愛しい彼女の接点を考えて、…考えたが思い当たる節は見出せなかった。

「まァ入れ。」

 マルコが自室のドアノブの音を鳴らせば、途端にふわんと刻み煙草の香りが鼻を擽った。この香りを焚き染めている人間はこの船に一人しか居ない。
 涼しげな目元、緑の黒髪。唇にすぅと引いた紅からは並の女では太刀打ち出来ぬ艶やかさが紫煙と共にこぼれ落ちる。マルコが普段海図を描くがっしりした黒檀の椅子に腰を下ろして、そばかす顔を見上げていたのであった。

「…イゾウ…?なんでおまえまで、」
「やれ、甚介が来たかィ。」
「ワノクニの言葉はわかんねェよ。」

 かつ、と煙管を叩いてから紅の唇を開けた女形はいつも通りの事を言ったまでサ、とのたまった。

「げびぞう野郎でもお似合いだろうが…今日は暢気なお話をする訳じゃないんだよエース。」
「いとについて、だろ?」
「いいこだから先ずは座ンな。」

 悠然と煙管で指したのは簡素な背凭れも無い丸椅子だ。この部屋の主はマルコの筈であるのにこの佇まいなのは矢張りこの男の本性によるところだろう。

 マルコは壁に寄り掛かり、さてと。と話の接ぎ穂を残る紫煙から掬い出そうとするのだった。

「エース、先に確認したい事がある。」
「なんだ?」
「いとは間違い無く『異世界から来た人間』だな?」
「…疑ってんのか、だから散々説明したじゃねェか。いとは、」
「いや、そういう意味じゃねェよい。」

 寧ろ何かしろの事情があるにしろいとが嘘をついているのであった方がどれだけよかっただろうか。気重さで錆びてしまった低い声でもし間違いが無いなら、と続ける。

「…エースの事も、勿論いとだって信用してるよい。だがその事実全部が全部、いいモンだと言えねェって事だ。」
「悪ィ、意味わかんね、」
「マルコ、言いあぐねるのは止めな。」

 それまで黙っていたイゾウがぴしゃりと言えば忽ちにエースの意識は黒檀の椅子へと向けられる。訝しんだままの顔を見返したイゾウは筋の通った声で一度ふう、とだけ漏らすのだった。

「話はおまえのおひぃさんについて。これはわかるな?」
「おひい…いとの事だろ。おゥ。」
「おひぃさんの事だが、あのこに言わなかった、その事情がある。…なァマルコよ。」
「あァ、軽い話じゃ無し、これから起こりうるかもしれねェ事実だ。」
「何が起こるか知らねぇけど、どんな災難にもいとは指一本触れさせねェぞ…いとはおれがまもるんだよ、」

 硬い声と剣呑な眼光が一室を支配している様だった。名前もまだ知らない暗雲でさえも焼き殺してしまおうかと瞳がザワザワと揺れ蠢いている。

「ちったァ落ち着け鉄砲玉。話が進まなくなる。」
「…わぁってるよ。」
「…あー…どこから話すか、そうだな。昔オヤジから聞いた事があってな。いとじゃねェ『異海の人間』の話だ。」
「…へェ、いとと話が合うかもな。」
「生きてれば、ねい。」
「…死んだのか。」
「『こっち』に来て三日後にな。」
「はあっ?!」

 目を見開くのはエースばかりで残り二人は既に周知の事実である様に目を伏せる。どういう事だと声を荒げかけたエースの頭にチラつくのは矢張り同じ出自の彼女であった。

「事故で死んだわけでも、持病があったわけでも無い。『こっち』に来てからどんどん衰弱してあっと言う間に没したそうだ。…気になって他の文献も漁ってみたがどれも似た様な末路だったよい。」
「笑えねェな…」
「まるでこの『世界』が異物を消し去ろうとしてるみたいに、な。」
「いぶつ…」
「まるで、なんて言ったが強ち間違っちゃ無いだろうサ。世界を人間に当てはめたら分かりやすい。ばい菌が入ったらどうなるか…エースもわかるだろ?」

 半ば呆然とおうむ返しを続けるエースにそうだな、と相槌を打ったのはマルコである。
彼女がこちらにやって来てもう一月以上は過ぎている、それなのに今もこうして他の人間と変わりなく動き回っていられる理由は。イゾウと言葉を交わしているうちに見出した仮定を舌の上にようようと乗せたのだった。

「普通の人間だとしても…他の人間と、いとにゃ違いがある。…それがエース、おまえだよい。」
「おれ…?」
「他の人間は迷子みてェに『こっち』に『一人』で来ておっ死んだ。…いとは違う。『エース』が『連れてきた』」
「あァ。」
「エース、おめェさんがいととこの世界の『かすがい』になってるかもしれねェんだ。」
「かすがい?」
「クッション…緩和剤か、仲介役か。まァそんなところだ。仮定だろうが概ね間違っちゃいない。おまえが居なけりゃいとは…死ぬ。」
「死なせねェ!」

 その単語を聞いた瞬間にエースは勢いよく立ち上がり牙を剥き出しにした獣の様に唸っていた。忌々しい、おぞましい想像が脳裏に垂れ込め、腹の底がぐらりと煮えて熱を持つ。
 いとはおれが、守る。あの手を引いた時から誓った想いを握り締めるように拳に力を込めた。そんなことさせるものか!

「おれが居ればいとは生きられるんだろ…?!だったら離さねェし、何処へもやらねェ!」
「喧しいよ、エース。折角皆を騙くらかしたのに外に聞こえちまう。」
「…っ、」
「おまえの決意はよくわかってる。…だからいとじゃなくておまえに話したんだよい。」

 頭の中はいとの事で埋め尽くされているのだろう。それほどまでいとを想っているからこそ。そこまで激昂して哀しみと恐怖を燃やし尽くそうとしている。

「エース、おまえからいとに話してやってくれ。こればかりはおまえ達で話し合わなきゃならない。」

 そう静かに声を落としたマルコは握り締められて真っ白になったエースの拳を一瞥するのだった。傷がつくだろうに、それを見たいとがどんなに驚き心配するかよく知っているだろうに。

「よく覚えておいてくれ。いとも、いつそうなってもおかしく無ェ。」
「…、」

 心臓をナイフで抉り出されたかと思う程のその苦しげな眼差しに、エースの中のいとの存在がどれだけ大きなものであるかがよくわかる。幸せそうに穏やかに微笑うエースがいるのはいとの存在があるからだ。
 そのいとが儚くなってしまえば、この末弟は、

「何もおまえらだけでどうこうしろって訳じゃねェよい。協力する。…オヤジも同じ意見だ。」
「なんだ、オヤジ知ってたのか。」
「家長に話を通すのがスジってもんだ。それにさっきオヤジから話し聞いたって言ったろ。」
「あー…」

 慕う父親の名前を聞いて張り詰めたものが切れたのか、エースは勢いを緩めずドカリと丸椅子に座り直したのだった。しかし瞳だけはどうにもギラついていて、気付いたマルコは眉間に皺を寄せた。

「…急がせているつもりは無ぇよい。だが何かあってからじゃ遅いってのも事実だ。早めに話し合っとけよい。」
「…。」
「エース。」
「…わかってるよ…。」

 直に、島へ着く。
 喉に貼り付いてしまったこの言葉を彼女に、どう伝えればいいのだろう。
 焔は大きく揺れたまま、エースはただ音の無い悲鳴にさいなまれ続けていた。

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