▼ 眩しすぎた感情
やはり足元を吹き抜けていく風は冷たく、陽射しのほの暖かさが有難い。いとのコートに散ってしまった水滴を払って、そして再びひょいと抱えて港の石畳に跳び上がったのは島に着いてややもしてからだった。
「あ、エースもシャツ濡れちゃってるよ。」
「お?」
普段背中を誇らしげに見せている青年であるのでどうにも珍しく羽織っているものが疎かになってしまう。モビーでいとに褒めてもらったシャツの端は海水で濡れていて、石畳に降ろしてもらったいとはハンカチを取り出してちょいちょいとはたいてやるのだった。
「へへ、」
子どもの様にくしゃっと音がしそうな笑顔と体全体から嬉しさを滲み出させた雰囲気のままいとの手を取る。構ってもらった幼子の様にエースは「ありがとな」と声を繋げるのだった。
「はあい、どういたしまして。」
「そろそろ行くか、」
「うん。」
節くれたエースの指が一回り近く小さないとの間に滑り込んでお互いの手はゆるゆると絡んでいく。『炎』だからと常々口にするだけあってエースの体温はいつも高い。それがじんわりといとに伝わって、溢れ出る想いのまま彼女は小さくその手に力を込めたのだった。
「大きな町だね。」
「人も多いなァ。…手ェ繋いで正解だ。」
同じ速度で歩き始めれば靴音は人混みに紛れていく。港は騒々しくお上品は何処ぞへと出掛けてしまっていて、この町は海賊達の気性によく合っていた。
「おれのは荷物になんねェし、店見つかったらそのまま買っちまうよ。…いとは?」
「私も。必要なもの先に済ませちゃおうか。」
「よし、決まり。」
そうこうしていればお目当てのドラッグストアが目に入り、二人で手早く買い物を済ませてその後はぶらぶら中心街へと歩いていく。途中で匂いに釣られて買ったクレープはチョコとカスタードの二種類だ。
「うめー。」
「…あ。エース、口元にクリームついてる。」
「ここ?」
「ざんねん、はんたい。」
屋台近くの塀に寄り掛かって繰り広げてしまうのはまるで物語の一ページだ。三流のやりとりだと鼻で笑ったのはどこのどいつだ、こんなにも擽ったい気持ちが胸を支配しているのに。エースは手を差し伸べるいとの為に己の背を屈めてやるのだった。
「はい、取れた。」
「さんきゅ。」
口元に触れたいとの指と体温、そして甘やかさに満ちた空気があまりにも綺麗でエースは殊更に目尻を下げる。朱華の鼓動をもたらしてくれるいとが己の恋人であるのだ、と鮮やかに染まった鼓動がそう叫ぶのだった。
「ふふっ、どういたしまして。…えーと、ティッシュは、と…」
「え?食うからいいよ。」
指先についたクリームを拭おうとするいとにそれだけ言ってエースは躊躇う事なくその指を咥えてしまった。
「?!」
「ん、」
「え、ええ、」
ざらり、指の腹を通り過ぎていくのは舌。硬いものは前歯だろう。違う感覚が入れ替わる度にいとの心臓がきゅうきゅうと締まっていく。エースの顔が近い、エースのシャンプーの香りが自分と同じで更に熱が上がる。
「んー…」
「えーすここそと、」
エースは伏せ目がちで、いとからその表情が見える事は無かった。
いとの指先はもう何も残っていないというのにエースは未だに彼女の指を咥えたままで、…よもや『これ』を愉しんでいるのではあるまいか。
「甘い。」
「…〜っ。」
すっかり涙目となってしまったいとを解放したエースは悪びれもせずに「その顔のいとすげぇ可愛い」とニカッと笑ってのたまったのだ。
「髪乱れちまってる。いと、ほらじっとしろよ。」
「…自分で、直せるから…っ」
「おれがしたいんだ。…な?」
頬に掛かった髪を払うエースは上機嫌だ。目を細め秘めやかに微笑む顔は先程とはかたちが違っていて、いつもの、船に乗っている時の晴れやかさとは違ういとにしか見せない熱が篭ったはにかみだった。
子どもの様にからりと笑う姿は雲一つ無い快晴の空の様で、艶と熱を得た大人の色香の笑みは宵の入りのあやしさがあった。二つの顔はどちらもエースの本当の姿で、いとはこの大きすぎる差に心を何度も奪われ続けてしまう。
「『あっち』に居た時は似た様な事はしてもこんなんじゃ無かったのに。な?いと?」
「エース、子どもの姿だったから、それにこんなにくっつかなかったよ…」
「そうだったか?」
「うん…」
「今は駄目なのか?」
「だめとかじゃ、なくて…その…」
言い淀んでしまったいとが堪らなくいたいけで、クレープなどどうでもいいと潤んだ瞳を覗き込む。随分前からドキドキと左胸の奥が嬉しそうに騒いでいることなどエースはとっくに自覚していた。
「…エースがすごくかっこよくて、近いと男の人なんだなって余計にわかって、心臓壊れちゃう…」
心臓が止まってしまう程、エースが好きで仕方がない。そして不思議な事にこの心臓をなおせる人間はエースだけなのだ。
声が震えてしまうのは感情が言葉の受け皿に入り切らなかったからだ。いとは急に静かになってしまったエースをそろりと見上げたのだが、途端に腕を引っ張られてエースの胸元にすぽんと収まってしまう。
「いとそれ、おれのが壊れちまうだろ…!いとかわいい、」
小さな音の告白だったがエースはその全てを鼓膜の中に収めた様だった。身震いを必死で押さえていとから注がれた純粋な心をいとごと抱き締めた。
「だいすきだ…っ!」
いとを見つけ出した時の感情が蘇ってくる、何度もいとに惚れ直してしまう。目の前がチカチカと輝けば愛しさが募って、それは今も骨の髄まで己を突き動かしているのだった。
「エース、クレープが、」
「…あ。」
そういえばクレープ持っていたなと気付いた時にはもう遅く、エースが持っていたそれはいとのコートにしっかりと押し当てられてしまっていた。その感触がよくわかったのだろう、いとは微苦笑を浮かべていたのだった。エースは瞬く間に大慌て一色になっていく。
「あ、あぁ!悪ィ!…あーやっちまった…」
エースの腕から解放されたいとは自分のクレープを預けるといそいそとコートを脱ぐのだった。背中を確かめるとこれが中々、豪快な甘い地図が出来ている。
「あはは…」
「シミとか、」
「カスタードだから洗えば大丈夫だよ。」
先程の余韻が残った頬のままでいとはころころ変わるエースの表情を再び見上げるのだった。一直線の性分の彼を可愛いと思う事はあれども、怒る気などこれっぽっちも湧いてこない。
「寒いだろ?おれの服着ろ、な?」
「そしたらエースが寒くなっちゃうよ。」
「そんなにヤワじゃねェよ、」
「うーん…でも、」
心配そうに眉をひそめるいとの肩は薄い。早く温かい場所にでも、とエースはきょろりと町中を見回せば都合良く『SHOP』の看板が視界に飛び込んで来たのだった。これだ、と決め型の崩れたクレープをペロリと平らげるといとの手を取って歩き出す。
「いいトコあった、取り敢えずあそこ入ろう。」
「あ、うん。」
寄り掛かっていた塀から少し歩を進めれば、店内の様子がよくわかる。少々薄暗いがドアには『OPEN』のプレートが掛かっていた。実に丁度いい。
「服屋か。ここ。」
「みたい。」
カランコロンとベルを鳴らして店に踏み入れば、中は静かな雰囲気で女物も男物も扱っている品揃えだった。白いファーや毛糸の手袋が暖かそうに並んでいる。時間帯なのだろうか、客はエースといとだけで歩く度にキシキシと響く床からの音がよく聞こえた。
「いらっしゃいませぇ。」
「女物のコート探してるんだ。」
「コート?買っちゃうの?」
「うん。もう一着あってもいいだろ。」
「でも私、持ち合わせが…」
「おれが出すから気にすんな。」
「わ、悪いよ、前にたくさん買ってもらっちゃったし、」
慌て出したいとは目を真ん丸にして首を横に振るのだった。もしや…とは思っていたが本気で買う気らしい。
「いとに寒い思いさせたく無い、風邪引いたらどうするんだ。」
本気で案じてくれているのがよくわかる。いとが口ごもってしまえば店員もエースに便乗して「オススメはこちらです」と何着か持ってきてしまった。
「それに色んな服着たいとが見てェんだ。」
少々バツが悪そうに笑ったエースにとうとう言いくるめられてしまったのはいとの方だった。惚れた弱みだろう、「それじゃあお言葉に甘えまして」と目尻を弛めるのだった。
「こちらのコートには刺繍のワンポイントがありまして…このブラウスとお揃いになっておりますよ。」
「へー。いと、折角だしこれと揃えちまおう。」
「それも…っ?」
店員の手管に見事に丸め込まれ、ブラウスとコートを持たされたいとは試着室に入って行く。「ちょっと待っててね」の声に相槌を機嫌よく打ったエースはほくほくと閉じたカーテンを眺めていた。
薄い色合いの二着はいとに似合うに決まっている、と彼女が出てきた姿を想像して更に機嫌をよくしたのだった。
(おれも何か買おうか…)
手持ち無沙汰になった時間をどうするか…頭を捻らせたエースはブラリと男物のコーナーへと向かうのだった。いとにまた似合うと褒めてもらえるようなのがあれば…と何着か手に取ってみる。
「んー…?」
しかし元々そこまでファッションに拘るタチでもなし、瞳を凝らしたところで良し悪しを計り切れず。今度イゾウかサッチに聞いてみようと結論が着地するまで大した時間はかからなかった。
「…いとはっと、まだか…」
試着室へと振り返るもののいとの姿は未だに見えない。手間取ってるのかとエースは気になり、再びそちらの方へと歩み寄るのだった。
「…いと?」
ん?とエースは奇妙な感覚に襲われた。中から物音が聞こえない、再度「いと」と名前を呼んだが返事が無い。
外に黙って出ていく人間では無いし、出た時点で己が気付く。
「おい、いと?」
音無し。
「…入るぞ!」
浮かれた気分は一瞬で吹き飛び、くわんと視界が揺れた。
「いと…っ?!」
いとが、消えた。
空っぽの空間がそう告げる。試着、といとが持って行ったコートとブラウスがグシャグシャになって床に散らばっているだけで、あの優しい微笑みを持つ愛しい恋人の姿は霞の様に掻き消えていた。
喉が詰まる。瞳孔だけが大きく動く。
prev / next