∴掌の上は懇願のキス
林檎さまへ
男というものはどこまでも男なのだろう。
ブランデーをしこたま詰めたグラスを右手に熱が灯った。
「たまにはなまえも飲むかい?」
雨上がりの夕暮れ、まとわりつく湿気はグラスの縁へとへばりついて数え切れない水の玉となった。この諸島のシャボンよりもかそけく、したたり落ちては消えていく。
水滴を潰してグラスを持ち直し、きょとんとする幼い面持ちとなってしまった妻へと弛んだ視線を向けるのだった。
「カルアを買ってきたんだ。」
「いつの間に…。気付かなかったよ。」
「では、お付き合いくださるかね?」
「うん。喜んで…」
グラスを用意しないとね、と早速背を向けてしまったなまえを空いた手で引き留めたのは目尻の皺を増やした夫だった。くるりと振り返ったなまえをしかと留まらせた後、持っていたグラスをテーブルに置く。
「招待したのはわたしだ。…なまえは座っておくれ。」
「あ…。」
「ふふ、」
右手の熱をなまえの手首に伝える様に軽く握って、己が座っていた椅子へと座らせるのだった。摘めるものもついでに持って来るよ…そう柔らかな声で囁いて靴音を鳴らす。
「甘いなァ…」
キッチンで銀のマドラーを軽やかに回しては主語を伏せた独り言をそらんじる。なまえならば己が何を差し出そうと拒む事は無い、とよく知っているがこれくらい甘くしないと己の気が済まないのだ。何もかも。
マドラーを握り締めたところで右手の熱は変わらない。
「レイリー?」
「おや。」
「お手伝いすること…あるかな?」
「待ち切れなかったのかい、なまえ。」
「…そういう訳では、」
「はは…何、ちょっとじゃれてみたかっただけだよ…」
『何かをしてもらう』というのに慣れていないなまえの愛らしさにうっそりと瞳を細めるのは男の顔を遂に隠そうともしなくなったおとこだ。
「…なァ、なまえ。」
「はあい?」
「…おとこがおんなに甘くする時は下心がある時だよ?」
まろび出す声に熱を絡めて焦げ付く眼差しを曝け出してしまえばなまえの自由は奪われてしまう。静かに見下ろして、甘やかな眼差しを湛えている癖にその仕草は艶やかで形作られていた。
「シルバーズ・レイリー、という男はどこまでもおとこだよ。わたしのいとけないお嬢さん。」
マドラーはとっくにシンクの中へと転がり落ちている。カルアは出来上がっているのだが興味は無いらしく、男は長身を屈めてはなまえの耳元で誘い文句をうたったのだった。
「たっぷり酔わせてしまいたかったんだよ。本音を言うとね。」
「…歩けなくなっちゃうよ、」
「それがいいんじゃないか。」
「今日は、いつものレイリーじゃ無いみたい…」
「普段は少しだけ隠すのが得意なだけさ。…なまえ前だと直ぐにボロが出るんだ、困った事に。」
日を追う毎に、とも漏らしてクスリと口元に弧を描く。熱はあっという間に上がり切ってしまっているとのだ。
「欲しくて欲しくて堪らなくなってしまったんだよ。」
「…んっ、」
「なまえが。」
掬い上げた小振りな手は少々冷えているように感じる。恐らく己の体温が高い所為だろう。小指の爪が作りものかと思う程繊細に出来ていて、なまえとの違いにクラリとする。
「レイリーの、手…熱いね…」
「だろう?なまえに触れたから余計に上がってしまった…口付けをしてもいいかい?」
待って、と言ったところで待つ気など更々無いのだが。
「れいり、」
男の背が丸まって、垂れた髪が肌に触れて擽ったい。そしてそれよりも強く感じるかさつく熱はなまえの掌に落とされたのだった。確かめるように唇を動かされてしまえば心臓が締め付けられて切なくなっていく。
「お願いだよ可愛いなまえ…」
押し付けられた温度に堪え切れなくなって小さく身を捩ったなまえに気をよくして男は目尻の皺を深くしていくのであった。
酒などもう、どうでもいい。
back