Ideal of Franz | ナノ
∴頬の上は満足感のキス



小寒さまへ



  ドレスローザは本日もこ憎ったらしいぐらいよく晴れていた。なまえも己もいつも通り朝食を取って、それぞれの用事を済ませていたのだった。ペンを回してなまえを眺めて…実にのんびりとした午前の風景の一コマだった。
  今日も大きな腹を大切そうに抱えたなまえは歩きにくそうで、半分本気で「抱っこしてやるよ」と問いかけてやるのだ。彼女はくすくすと微笑うばかりであったが。

「お父さんが甘やかし上手で困っちゃうねー?」
「てめェのおんなを愛でてるだけさ。」

  お互いが大きな腹に向かってそう悪戯っ子の様に話しかけていた。特になまえなどコットンに包んだ様な声で、男は内心「今だけだ、よく覚えとけよ」とまだ見ぬ『我が子』にのたまっているのだった。
  そんな遣り取りが両手の指を足しても数えられなくなった頃、なまえの顔色がおかしくなったのだ。

「…、…あ。」
「ン?どうした…?」
「なんだか、ちょっと…いわかんが…」
「…まさか。」
「うん、ドフィ…陣痛…」
「!!」

  予定まで日数があったろうと、文句も忘れて電伝虫の受話器を引っ掴んだ。…何時の間にか片手に持っていたペンをへし折って駄目にしてしまっていた。
  それからは己は慌ただしさの荒波に投げ込まれていた。泳げないなど我が身に刻み付けているくらいであるのに巨浪を越えて揉みくちゃにされて必死になって…未だ揺さぶる波間から逃れられず。このおれが、とは頭の片隅で思ったがこれに関しては生まれてこのかた経験した試しが無い。落ち着きと冷静はとっくに心中から出て行って、大浪の向こうへ追いやられてしまっていた。

「…っう…」

  なまえの痛みの間隔は次第に狭まっていくだろう、額にはじっとりと汗が出て玉を作っていた。丸まる背中を摩ってやっていた頃に道具一式詰まった鞄と助手を引っさげた婆あがおっとり刀で姿を見せて、なまえは一室の向こう側へと行ってしまったのだった。

「若はここでお待ちになっていてください、との事です。」
「…オゥ。」

  焦燥を他人に悟らせる、という風に顔には出してはいないがいつも上がり気味の口角はなりを潜めて視線は愛しい愛しい女が入って行ってしまったドアを穴が空く程見つめているのだった。

「初産だから…時間が掛かるかもしませんね。」

  なまえを案じて煙草を吸う気にもなれないでいたベビー5は手持ち無沙汰になってしまったのか「飲み物でも持ってきます」とヒールを鳴らして行った。

「…。」

  初産。なまえに読んでやった本に載っていた一文を脳内に蘇らせては睨み付ける。痛みを伴うだろう、悲鳴を堪えているだろうと思えば生まれてくるガキに一言物申したくもなる。
  おまえもさぞや苦労して出ようとしているとは分かるがな、おれの女をおれから取り上げた癖に痛がらせるとは何事だ。それも長時間。
  なまえが聞いてしまえば苦笑は必須だろうがこの男ときたら本心からそう思っているので始末に終えなかった。まあ、早い話、この男なりにしこたま心配しているというのだけは間違い無い。

「若、どうぞ。」
「…アァ。」

  暫く突っ立っていたがベビーが戻って来た頃に漸く一呼吸つけて近くの椅子にどかっと腰を降ろしたのだった。モカの香りを引き連れたベビーからソーサを受け取って湯気が暢気に立ち上っていく様を眺めてから、光沢のある深い色を一口流し込んだのだった。
  舌の上を転がる苦さを柔らげる優しい甘さが欲しくなる。

「まだか。」
「まだです。」
「そうか。」
「はい。」
「長いな。」
「そうですね。」

  足の裏にかいた事も無い様な汗が吹き出してくる感触がした。どうにも振り払いたくて脚を三度組み直したところまでは数えたがそれ以降は馬鹿馬鹿しくなって、止める。モカは一口飲んだっきりだ。
  ベビーが何か言っていた気もするが、はたとそちらを向けばその場からいなくなっていたのだった。

「…。」

  陽はとうの前に天頂を通り過ぎていた。
  なまえは今、どうなっているのだろうか。それと散々手を煩わせているガキは。愛しい女に面倒掛けるところはなんて己に似ているのだろうと『なまえ似』の考えを早々に引き下げて、汗をかいた指でカップの持ち手を握ったのだった。

「顔が見てェ。」

  とつ、と呟いた一声は冷めたモカ中には落とされずドアの向こうへと。受け取る相手はここには居ないと知って尚、それでも紡がれた。けれども、

「…!…!!」
「…フフッ、フッフッフ!全く、いい返事をありがとよ…!」

  この世で初めて響いた声は瑞々しくも高らかだ。ひとつ、ふたつ、更にもっと。ドアで遮られてくぐもっていたがそれはひと時の極上の音色の様であった。そうこうしていればドアは開き、キラキラした顔の、婆あの助手がひょっこり出て来たのだった。

「おめでとうございます…!おとーさん!」
「オトウサン、ね…!」
「もっ、もしわけありま、」
「いや、いい。」

  力加減を間違えて持ち手をもぎ取ってしまったのに気が付いたのは…随分後になる。




「頑張ったなァなまえチャン。」

  己の心を満たし続ける最愛の女は疲れ切ってしまった様で、細々としたものを終えてしまうとこてんと眠りに落ちてしまった。身体中真っ赤にしていた頃は目一杯泣いていた姿を思い出して、それからベッドで休むなまえを起こす気になる筈も無くその縁に腰をゆっくりと降ろすのだった。ゆるゆると髪を梳いてご褒美に何をしてやろう、骨盤が歪むと聞くから整体師でも呼び寄せよう、と考えてから…この男にしては珍しくもゆるく、微笑い、そろりと今だ火照りの残る頬にかさついた唇を寄せ口付けをおくるのだった。

「              」

  その言葉を聞いていたのは小さくぐずる我が子のみ。先程まで散々眺め見ていたそのしわしわ顔のへちゃむくれを、再び覗いて「男にキスする趣味は無ェよ」とやたら柔らかな声音で…満足そうにのたまっていたのだった。



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