Ideal of Franz | ナノ
∴みな狂気の沙汰



ユイさまへ

  かのひとは、聡い男である。
  見てくれこそは厳めしさ山の如しであるが目元と言葉の端々は大層に穏やかで、時折ぎろりと睨まれるのはなまえの場合白い褥の上でのみであった。聡い、賢い獣だと…さて、誰がそらんじたのだったか。

「おかえりなさい。」
「お出迎えご苦労さまで。」
「いえいえ。」

  陽はとっぷりと沈んだ頃合いに外からカロンコロンと音がして、なまえはいそいそと玄関へ出向く…これがこの夫婦の日常であった。玄関に辿り着いた時には既に男は音立てていた下駄を脱ぎ、右足を木目に乗せている。

「ご飯、お風呂に入ってからにする?」
「…そうしましょうかね。」

  腹をひと撫でした男の隣に寄り添う様にして歩くなまえに今日はどこそこの部隊の訓練をした、書類を読み上げてくれた士官が舌を噛んでしまっていたととりとめも無い話をする。
  色形は見えずとも、くすりくすりと微笑んでくれているなまえをみい出す事は随分と得意になってしまった。

「…んん?」
「どうしたのイッショウ…?」
「花の香りが、少々…」
「花の?…あ、」

  廊下も半ば、不意に立ち止まった男にこてりと首を傾げるなまえはややもして合点がいったらしく「香水をつけてみたの」と声の音量を少しだけ下げて呟いていた。この声音は決まって恥じらってしまっている時に聞くものだと、男はどうにもやに下がりそうになりながらも「香水ですか。」と続きを漏らす。

「可愛らしい香りだとは、思いましたが…通りで。」
「つけたのは午前中だったんだけとね。…気になっちゃう?」
「とんでもございやせん。なまえの雰囲気によく似合っている。」

  幼い妻によく似合う瑞々しい薫香に口角を上げては、その芳しさに我が身を浸している。尾があるのならば機嫌よくゆらりゆらりと悠然に振っていただろうと考えて、また口角を上げるのだった。

「この前の香りとは違いますねェ…前のは確か…」
「うん、果物の香り。」
「あれはもう無くなってしまったんで?」
「まだあるよ。…実はもう一種類、封を切ってないのもあって…その、買いすぎちゃってごめんなさい。」
「余り、ものをねだってはくれやせんからねェ…寧ろ安心しやした。世捨て人にでもなってしまったンじゃないかと、最近とみに心配してましてねェ。」

  何処に何があるのか分かり切ってしまっているらしい男はなまえの為に背中を丸めてその柔らかな髪を梳いてやる。絹糸だ、と褒めちぎってしまったのはもう何度目になるだろうか。

「さて、さて…ではお聞かせ願いやせんかね、お内儀殿。」

  この朴念仁に是非とも教えてやっちゃあくれませんか、と片手だけですっかりなまえの頬を包んでしまうと喉を鳴らして低い声を漏らすのだった。何時の間にかこんなに近く、と足音を忍ばせて来た獣に観念したなまえはそのタコで硬くなった掌に寄り掛かる。

「イッショウに、よろこんで、ほしくって…」

  片手頬に添えたまま、もう片方で細い手首を捕まえた。クッと己の方に引き寄せれば軽々となまえは懐の内に入ってしまい、男は喜色を滲ませてはわらう。そのまま旋毛に口付けてから流れに逆らわず、髪の筋を唇で伝い確かめた。
  直に肌へと辿り着くと目尻に温いそれを押し付ける。

「よろこんで、欲しいとは…?」

  ふるり、となまえが揺れ動いたさまにドロドロとした熱が騒ぎ出していく。参った参ったとうそぶいているのは心中のみで、目元に唇を付けたまま問う声はどうにも態とらしさを隠そうともしない。

「毎日、違う香りだったら、新鮮で…イッショウがよろこんでくれるかなって。」
「…あっしをようご存じで。」

  よろこびで己の心を逆立てる事が出来るのは後にも先にもなまえだけだと、今度は鼻の頭に軽く噛み付いた。健気な妻の細腰に腕を回して体を更に寄せ合うと漂う香りは強くなり、男は鼻を鳴らすのだ。

「あっしの為だけに在るなまえが慕わしい。」
「…いっしょう、そこっ…まって、」

  花の香りが一番強いところを探して肌を伝えば、耳の裏へと引き寄せられて堪らずぺろりと舐めてしまった。ひどく震えるなまえの吐息が己の首筋を掠めて、それがなまえの柔らかな舌でないかと錯覚してしまう。

「イッショウ、ここ廊下だから…」
「そうですねェ。」
「誰か、来たら…それに恥ずかしいの…っ、あっ、」
「では見なければいい…」

  厚い唇のその二つ、それでなまえの耳朶を挟み食んでは廊下の壁に押し付ける。片方の大きな手は彼女の目元を覆うなど簡単で、しっとりとしたその場所に「あぁ泣いてしまった、」と愉悦が呟いているのが聞こえてしまう。

「イッショ、う…何も見えな、」
「見えたら恥ずかしいンでございやしょう?」
「っ、」
「それにこの方がお互いよくわかる。」

  おとこの持つ香りに惑って欲しいのだと、花香をまとうおんなを更に暗がりへと追い詰めていく。押さえ込む力は緩い筈であるのに振りほどけ無いなまえの、火照っていくその柔らかなところへと唇を重ねていくのだった。

「ゆかりの花をつけて差し上げよう…」

  微かな囁きだけが、なまえの世界を染めていく。



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