Ideal of Franz | ナノ
∴手の上なら尊敬のキス



シロクマさまへ


  航海は順調、波も穏やかそのものでつい先程に通り雨が降ったくらいだ。ラウンジには珍しくも人け疎らで、水槽の中でたわむれている泡の奏でさえも聴こえてきそうだった。

「糸は白でよかった?」
「モカ・ブラウンは?。」
「使い切っちゃって。後でまたつけ直そうね。」
「手間だろう。…なまえは時々スーパーな台詞を言うよなァ。」
「あはは。」

  水をすり抜けた網目の光はなまえと、大きな体格の男と大きな大きなアロハシャツを照らしていたのだった。晴れやかな、夏の陽射しが一番似合うシャツをなまえは膝の上に乗せて男とは反対側に裁縫箱を用意していた。

「釦、なくならないでよかったね。」
「だいぶほつれちまってたからなァ。…寧ろさっさと取れちまってよかったかもな。」
「そ、だね。」

  少しだけ言い淀んだなまえに、男は内心にやと笑っていたが…これは後の楽しみにとって置くかと口の蓋を閉じる。閉じる替わりにサングラスを外すと仔ねずみそっくりに動くなまえの手元の見物に努め始めてしまうのであった。

「見つめられたら緊張しちゃう。」
「指縫うなよ。」
「はあい、気をつけます。」

  かぱりと開いた裁縫箱から針と糸と細々したものを取り出して。
  なまえはこういう細かな作業が嫌いでは無いと知ったのはいつくらい前だっただろうかと、男はじいっと見つめていたのであった。

「ちみっちぇえ指だなァ…」
「特別小さいってわけじゃないよ?」
「男からすりゃ女の手は皆ひょろひょろだ。」

  時折無言になりながら、釦に白糸が通されていく。なまえはこんな細かな作業をするものだから、指が小さく細くなってしまったんじゃないのだろうか。…そんな魚も食わぬ絵空事を右から左に投げ飛ばして、男は桜貝にも似たなまえの爪を眺めたのだった。

「…静かだねー…」
「たまにゃこんな時間があってもいいだろ。」

  今頃仲間連中はお日様の下で騒いでいるだろう。二人だけ、しじまにとっぷりと浸かっている。
  その二人、極彩色がぺちゃくちゃとおしゃべりする場所も好きだが、こうして淡いみず色の静けさに身を委ねるのも嫌いでは無かったのだ。
  
「なァなまえ。」
「なあに?」

  ついつい、と白糸の通り具合を確かめるなまえに行儀悪く(海賊だからしょうがない!)足を組んだ男は今日の晩飯はシチューだそうだ、と同じぐらいの声でとうとうと語り出すのであった。

「女の手ってのは男からすりゃ、謎の物体そのものだ。いや手だけってことたァ無いが今はまあ置いとけ。」

  男には男の、女にゃ女が適した仕事があるとはよく理解している。なまえはそれをこなしてるだけなんだろうがな。それでもこうしてチマチマ動いてるってのは新鮮で、おまけにこうもスイスイされると、感心する。

「なまえはすげェ。」
「ふふっ、褒められちゃった。」
「おうよ。喜べ喜べ。」
「ありがとう。私からすればフランキーの方がすごいって思っちゃうよ。魔法の手みたいだもの。…はい、出来た。」

  糸切りがぱちんと一声上げて、シャツと釦は感動の再会を無事に果たした様であった。釦はしっかりとくっ付いて自ら破こうとしない限りは大丈夫そうだ。

「ありがとよ。」
「どういたしまして。」

  大きな大きな体の男の、やっぱり大きな大きな掌は真綿を扱う様になまえの頭を包んでいく。この船の誰より優しく撫でる手つきはこれでもかと言わんばかりの心いとしさが詰まっていて、なまえは自然と微笑みを面差しに浮かべていまのだった。

「なまえにも、なまえのちっちぇえ小っちぇえ手にも。」

  男からすればビスクのお人形よりも繊細ななまえのそれ。下から掬い取る様に持ち上げて、唇の温度をひとつ落としてやるのだった。まんまるになったなまえの驚き顔が矢鱈目に焼き付いて、これは暫く忘れる気配がなさそうだ。

「わ、わわっ、」

  普段しなれて無いからか、ほんの少しばかり手間取ったおくりものに誰よりも慌てていたのは男では無く…なまえだった。
  男の照れ臭さはそんないとけないなまえの姿を見てか、水槽の中に退散したらしい。にっ、と笑ってからもう一度手触りのいい髪に手を伸ばす。

「さあ、て。と。そろそろ頃合いだ。」
「え、あ、はい。…フランキー見張り番、だったね。」
「シャツも片付けとく。」
「うん。」

  なまえから手渡されたアロハシャツを一瞥した男はふむ、と唸る。
  まどろむ前の『証拠』が無くなっちまったのが惜しい気もするが、可愛いなまえを見れたから良しとしよう。

「なんだか…ご機嫌?」
「いや少し考え事をだ。…なまえが怪我する前に、ちゃあんとシャツは脱いでおこうと思ってな。」
「…あ、あれは、」
「女の手は不思議だなァ。か弱い指でもいざって時はスーパーパワーを発揮しちまうとは知らなかった。」
「あれは、ちょっとびっくりして、」
「今度はソファじゃ無くてベッドだな。」
「そういう、もんだいなの…?」

  カラカラ笑うおとこに、なまえはそれ以上何も言い返せなくて顔を真っ赤にさせるばかりだった。
  
「後でななまえ。」
「…いってらっしゃい…」

  太陽が行ったり来たりを何度か繰り返す前、その夜の帳そのころに。おとこの釦が慌てふためくおんなの爪に引っかかってしまったのだ。掘り返されて、頬を染めるのはなまえばかり。
  しかしながら小さな爪が引っ掻き飛ばしたモノトーンカラーの釦は知っている。おとこがおくった眼差しの温度の高さを。


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