随分と昔、いつ頃だったかは記憶には残ってはいないのだけれど。
 随分と昔、雨の中、自分より年上の誰かが自分の目の前で泣いていた様な気がする。
 いつ頃かは、忘れてしまったけれど。




花言葉は、






「…せーんせい」
「…おー」
「何、その間。嫌な感じー」
「…ああ、悪い」
「…別に、良いけど」


 とん、と屋上の少し汚れた落下防止のためのフェンスに凭れ掛かる。カシャンと音が鳴り、小さく揺れる。隣でフェンスに寄り掛かりながら煙草を口にしている先生を横目でちらりと見て、足元に視線を移した。 灰色のコンクリートは冷たくて、何故だか心がざわめくのだけれど。


「雨、止んだね」
「…おー」


 ここの地域も既に梅雨入りをしていて、毎日の様にじめじめとした空気が流れる。
 心も身体も、この空気でぐちゃぐちゃのドロドロに溶けてしまいそうでなんとなく厭な気分になる。色鮮やかに咲く、紫陽花は嫌いではないけれど。
 透明な雨の滴が小さな花びらを流れて、ゆっくりと落ちていく様子はとても綺麗だと思う。キラキラ眩しくて、「それが何だか寂しいんだよ」と言ったら先生は「そんな事ないさ」と笑ったから。
 だから俺は、少し寂しいけれどその寂しさも嫌いじゃないんだ。


(…ああ、俺って本当に馬鹿だなぁ。それでも、俺は…)


「六条、ちゃんと飯食ったのか?」
「うん。新発売の夏みかんジュース飲んだよ」
「…それは飯って言わないだろう」
「でもゼリー入りでさ、結構美味しかったよ?おすすめ」


 いや、そうじゃなくて、と微かに眉間に皺を寄せる先生のその表情は簡単に想像出来て、先生を前にしなくても頭の中で何度もその顔を繰り返し再生する事も簡単。
 先生が吐き出す煙草の煙りが、ゆらゆらと空に昇る。煙りは灰色の雲と混ざって溶けて消えて往く。ああ、そうかそれが雨になって降ちて来るんだ。
 雨は嫌いじゃない。でも雨の日は嫌い。


「雨の日って嫌い。雨は嫌いじゃないんだけどさ。何でだろうね、先生」
「さあな」
「先生は雨って好き?」
「…さあどうだろうな」
「嫌い?」
「…さあな」


 曖昧な返事を俺に返しながら先生は新しい煙草を取り出して、カチリと火をつけた。煙草の何とも言えない香りが鼻を掠めて流れていく。
 「嫌いなんでしょ」という言葉は自分の中に滑り込ませた。言葉にした所で、先生はきっと曖昧に「さあな」と答えるんだ。
 俺には分かるよ。
 先生は俺には分からない事を考えていて、俺がそれを聞いてもただただ曖昧に笑うだけなんだろう。
 「先生の事知りたい」なんて、そう簡単に言わせてはくれないんだろう。


「雲平先生、俺の話しをちゃんと聞いてよ」
「聞いてるさ」
「嘘つき。さっきから俺に分からない事ばかり考えているんでしょ」
「…そんな事ないさ」


 吸い殻を銀色の携帯用灰皿に軽く押し込む。先生は、その大きい右手を俺の頭にポンと優しく乗せた。今日の先生の体温は低くて、ひんやりと俺の皮膚に浸透していく。


「雲平先生」
「何だ?」
「先生、変」
「そうか?」
「そうだよ。俺には分かるもの。先生が俺に話してはくれない事をずっと考えているって。だからいつもより変なんだよ」
「…いつもより、は余計だろう」


 先生の右手を俺の左手で払いのけると、先生は少し困った様に眉を顰て、もう一度「そうか」と言った。
 それは俺に問い掛けるものではなく、先生が先生自身に語り掛けている様で。きっと多分、俺には分からない様な事を先生はずっと考えていて、想っていて。
 ほら、先生はとても遠い。


(だから嫌なんだ、雨の日は。雨は嫌いじゃないのに、何でだろう。雨が降ると先生は哀しい顔をするんだ。何で?どうして?俺が分からない事を、ねぇ先生考えないでよ)


 灰色の雲が白い雲に変わりだしていく。雨が上がり、気温が少しずつ上昇していってじわじわと体温が上がる。逆上せる様な空気の香りのせいなのか、心臓の辺りが沸々と熱くなって熱を感じた。


「雲平先生」
「ん?」
「紫陽花の花言葉って知ってる?」
「ん?…ああ、確か、移り気な心、とかそんなんじゃなかったか?」
「…はずれ」


 俺を覗き込む先生の冷たい指に、そろりと自分の指を絡めた。ぼんやり空を見上げると、白い雲は風に流されて青い空が姿を現した。
 昼休みの終わりを告げるチャイムは、身体の真ん中で哀しく叫び続ける心臓の様な高い音で、空に鳴り響いた。





紫陽花の花言葉は、
(強い愛情、あなたは冷たい)

 あなたが愛しい。
 けれどあなたは俺には何も話してはくれないの。



花言葉は、

―――――
紫陽花は口にすると、食中毒を引き起こすという有毒な植物だそうです。
強い愛は時に猛毒の様なもの。

20090624
修正→20110703

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