「入江さん、入江君、正一さん、正一君、正一、正ちゃん?」
「…綱吉君、僕そんなにいないけど」




土曜日の正午を少し過ぎた、昼寝に調度良い時間帯。
時折襲って来る睡魔に気力を持って行かれるのをどうにか制御しつつ、僕は一つ欠伸を噛み殺す。
高そうなガラスのテーブルを挟んで、僕達はそれぞれ書類を手にしている。
外は良い天気だ。
こうやって部屋に篭って仕事をしているなんて勿体ない気もする。


「入江さん、入江君、…うーん?」

目の前で書類に目を通しているはずのボンゴレボスは「うーん」と唸りながら僕の名前を呼ぶ。

(…そんなに僕は沢山いないけれどね)

視線は書類の上をぐるぐる回っている。
眉を顰て百面相。
どうやら独り言らしい。
それでも好きな人に自分の名前を繰り返されるのは、何だか気恥ずかしくて手元の文字だらけの憎らしい紙に視線を戻す。
暫くしたら綱吉君の謎の独り言も止まるだろうと考えたけれど、やっぱり僕の心臓はもたなそうだからとりあえず声を掛けてみる事にした。

もう一度ちらりと目の前の綱吉君に視線を移すと、さっきよりも更に眉を顰てうんうん唸っているから何だか可笑しくて彼に気付かれない様に笑った。
あ、僕が綱吉君を好きな事は誰にも秘密。
綱吉君本人にも、ボンゴレ守護者にも。
スパナは知っているかも知れない。
それにきっとスパナも綱吉君の事が好きなんだろう。

手元の書類を分ける手を止めて、何か用なの?と声を掛けると、あれ?という様な微妙な表情をされた。

「あれ?何?」
「無意識?さっきから声出てるよ」
「あ、ごめん考え事してた」
「僕の名前をずっと繰り返してたけど、…何?」
「わっ、本当?」
「本当」

僕にごめんねともう一度謝って、テーブルの上に書類を置く。
ボンゴレマークが画かれている白い書類の右下に朱い確認印が押されている。
まだ三分の一程しか処理が出来ていない。
僕と彼の真ん中にはうざったい位の白いタワーが作られていて、今日はこの仕事だけで一日が終わってしまいそうだ。
先が見えない作業に憂鬱な気分になる。
綱吉君と一緒に居られるという事が唯一の救いだ(書類は見飽きたけれど。もの凄く眠いけれど)。


「駄目だ、眠いや。コーヒー飲もう」
「あ、はいはーい!俺も俺も!」
「角砂糖は何個?」
「三個でお願いしまーす」
「うわー甘そうー」
「えーそうかなぁ」
「そうだよ。眠気覚ましにならないよ」
「そんな事ないよー」
「あ、チョコチップクッキー食べる?山本君の差し入れ」
「食べる!……なんかさぁ、」
「何、綱吉君」
「俺さ、色々考えたんだけど」
「うん?」
「入江さんはどれが良い?」
「…え、どれって…何?」

話しが見えない綱吉君の言葉にコーヒーを注ぐ手が止まる。
…えーと、何の話しかな。
不思議な彼の行動に僕は?マークを浮かび上げるだけで精一杯なんだけれど。
眠気で揺れる思考回路をフル回転させて考えてみるけれど、上手い具合いに働いてくれないから僕の脳みそは結局謎解きを諦めた。

とにかく先にコーヒーを入れてしまおう。
あの山になっている書類のせいでまだ昼食も取れていない。
洋菓子で空腹が満たされるとは思わないけれど、気分転換位にはなるだろう。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

綱吉君のコーヒーに角砂糖をきっちり三個入れて差し出した。
「ありがとう」とへらりと笑う彼の顔を確認してから自分のカップにもコーヒーを注ぐ。
注いだコーヒーに、ゆらゆらと眠た気な自分の顔が映る。
なんて変な顔なんだろう。
こんな風に綱吉君の目にも映っているのかな、とか考えたら何だか虚しい気分になった。

「でさぁ、さっきの話しなんだけど」
「…うん?」

テーブルの上にカップを置いて椅子に座り直すと、早速さっきと同じ謎を僕に解かせようとする。
「ねぇ」と上目遣いで僕を見上げて、いただきますとクッキーに手を伸ばした。
一口大のそのクッキーを口に含んでふふふと笑った。

「入江さん、何の事か分かんないよね。ごめん」
「…綱吉君て確信犯でしょ」
「確信犯?」

きょとんとした表情で僕を見て、考える様に視線を左上に泳がせた。
うん?と首を捻ってまた僕を見た。

これが俗に言う「小悪魔」的な行動というものなのだろうか。
綱吉君本人は無自覚なのだから本当に恐ろしい。
10年経っても綱吉君自身が変わっていないという事は嬉しい事実ではあるのだけれど、ずっとこんな無防備なままだと愛らしいとかもうそんな次元の問題じゃない気がする。

(最強のはずのボスを何でこんなに心配しなくちゃいけないんだろう)


「ねえ、確信犯って何の事?」
「…あー、うん、何でもないよ」
「何だよそれー」
「何でもないよ。それより綱吉君の話しの方が気になるよ。何の事?」

あ、と綱吉君は空中を見上げた。
僕を悩ませた綱吉君の言葉を、彼自身はもう頭の端っこからぽろりと落とし掛けていたらしい。
「忘れてた」と笑う綱吉君を見て、(そうだよね君は天然なんだもんね仕方ないよね、僕はそんな君を好きになったんだから仕方ないんだよね)と笑うしかなかった。

「好きになった方が負けなんだよ」と昔、夕方の再放送で観た恋愛ドラマの台詞を思い出した。
確かにその通りだなと思う。
言葉でも行動でも僕が綱吉君に勝てるはずがない。
中学生の頃からずっと負けっぱなしだ。
勝ち負けとかそんな問題でもないんだろうけれど、「惚れた弱み」は恐ろしい。
ああ、僕って格好悪い。

僕の表情が相当おかしく崩れていたのか、綱吉君は訝し気に眉を顰て僕を覗き込む。
何でもないよと笑うと、ふぅん?とカップに唇を寄せてそれ以上深く聞いて来る事はなかった。

綱吉君の砂糖入りの甘いコーヒーの香りと、僕のブラックコーヒーの苦い香りが鼻先でふんわりと混ざり合う。
眠気覚ましに苦いコーヒーを入れてみたけれど、眠いものは眠い。
それなら僕も綱吉君とお揃いの甘いコーヒーにすれば良かった。
今更だけれど。
そんなくだらない事を考えている僕をよそに綱吉君はコーヒーを一口、口にして話しを続ける。

「俺は気にしてなかったんだけど、スパナが気になるって言うから」
「スパナが?何を?」
「えーと、名前。俺、入江さんって呼んでるじゃない?」
「うん?そうだね?」
「何で入江さんなのかって聞かれたんだよ」
「…?」
「あ、分かんないって顔した」
「分かんないものは分かんないよ」
「うちは正一って呼んでるのに、ボンゴレはなんで入江さんなんだ…?よそよそしい」
「…ぷっ」

あまり似ていない物まねを真剣な顔で披露してくれた。
何となく、雰囲気は掴めているからそれが余計に可笑しい。
綱吉君にこんな特技があったなんて。


「だから練習してみようかと思って」
「練習って?」
「ほら、もう入江さんて呼び慣れてるじゃん。今更、入江君とか正一君って呼びづらいじゃん」
「あー…、成る程。だから僕の名前を繰り返してたの?」
「どれが一番しっくりくるのかなぁって。まさか声に出してたなんて思わなかったけどさ」
「僕は今のままで別に構わないのに」

解けないでいた謎は、綱吉君自身の手で簡単に解決した。
僕は名前の呼び方なんて全く気にはしていなかったのだけれど。
スパナが言う様なよそよそしいものも特にないと思う。
僕の事を綱吉君はずっと「入江さん」と呼んでいるけれど、僕はそれだけで嬉しいのにね。

そんな僕の想いを知るはずもない綱吉君は、とにかく練習してみるからと勢いよくコーヒーを飲み干した。
テーブルの両脇に寄せた書類の山はどうするつもりなのだろう。
練習が終われば再開、…するのだろうか(いや、しないかも)。


「やっぱり、正一君?」
「さぁ、どうだろ」

僕は書類の山の心配をしながら綱吉君の練習に付き合う事にした。
ほらここでも僕は「惚れた弱み」を十二分に発揮する。


繰り返し呼ばれる「正一君」という言葉のせいで、苦いはずのコーヒーが少しずつ甘く変わっていく気がした。
その甘い声に空気も僕の脳みそも、じんじんと痙攣してしまいそう。麻痺してしまいそう。
そして最後には綱吉君の事しか考えられなくなるんだ、きっと。


「…やっぱり僕は今まで通りで良いよ」
「え、何で?」
「…何でも」


それは凶器に近いものだと思う。
だってほら、甘ったるい声と言葉がグサリと身体の真ん中に容赦なく突き刺さるんだもの。





「正一君、」





やっぱり僕の心臓はもたなそうだよ。



初恋ロケット


(僕は君には勝てない)


ーーーーーー
結局残業。雲雀と骸がお手伝いしてくれました。おかげさまで部屋はぐちゃぐちゃに崩壊しました。
入江さんは綱吉君の事が大好きです。
本誌で綱吉が入江さんを「正一君」と呼んでいたので色んな意味で泣きたくなりました。
とにかく、名前を呼ばれるのも恥ずかしいという入江さんを書きたかったという訳です。





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