「あの馬鹿をどうにかして欲しいのだよ」
「…何の話しですか?」
昼休み、屋上で少し前に流行った文庫本を片手にぼんやりとひなたぼっこをしていた。ひなたぼっこ、と言うよりはただ単にいつもの様にいつもの場所で小さな本に綴られた世界を読み耽っていただけなのだけれど。
ふい、と薄黒い影が自分を覆ったことに気付いて現実世界に戻る。
この時間にこの場所に自分が居るという事を知っている人間は多くはない。しかも貴重な昼休み、自分を探しに来る人間もそうは居ない。「彼」ではない事を少しだけ願いつつ、影を辿って相手を見上げた。
「何か用ですか?」
「鬱陶しいのだよ」
「そうですか」
不機嫌なトーンで発せられた声と、くいと眼鏡を上げる仕種に、相変わらず分かりやすい人ですねと思いながら返事を返した。
鬱陶しいのだよ。
何の事か。何が鬱陶しいのか。主語もなく、まだその一言しか言葉にしていないから第三者からすれば、鬱陶しいと言う彼から鬱陶しいと言われたのは黒子、となるのだろうけれど。
鬱陶しいと言った彼、緑間にも鬱陶しいと言われた黒子にも全くそんな意識はなかったりする。鬱陶しいという言葉と、緑間の眼鏡を直す仕種で大体の事は想像出来た。大体の「事」、というよりは大体の「人」と訂正した方が良いのかも知れないけれど。
「黄瀬君本人に伝えて下さい」
「無理だったからお前に言っているのだろう」
「そうですか」
鬱陶しいと聞いて一番初めに浮かんだ顔は黄瀬だった。黄瀬には失礼な事なのだけれど、緑間に言われて脳裏に浮かんだ人間は彼だったのだから仕方がない。いや、それも失礼な話しだなと思ったりもした。けれど緑間は否定をしなかったのだから、今の会話に関しては間違ってはいないという事だろう。やはり黄瀬には失礼な話しだけれど。
「黄瀬君には失礼な話しですけど、それはいつもの事じゃないですか?」
「いつも以上だから困っているのだよ」
「いつも以上ですか」
「そうだ。いつも以上だ」
いつも以上に鬱陶しい。眉間に皺を寄せた緑間が、呆れた様に溜息を吐き出して自分を見下ろす。どういう事なのだろうか。緑間に詳しく話しを聞くか、それとも黄瀬本人にどうかしたのかと声を掛けるべきなのか。いいやそれもどうだろうか、聞いた所で自分がどうにか出来るとも思えないし黄瀬に話しを聞くのも何となく嫌な感じがした。
別に面倒臭いとかどうでも良いとか、そういう理由ではないのだけれど。まあ、どうでも良かったりしたり、しなかったり。
黒子は話しの内容より「困っている」と緑間が呆れた表情を見せた事に珍しい事もあるものだなと、そちらの方に興味を示した。眼鏡をくいと直して、「五月蝿いのだよ」「鬱陶しいのだよ」と言えば黄瀬も少しは大人しくなるだろうに。こういう事でも彼は天才なのかと、とりあえず黄瀬を褒めておく事にした。
「座りませんか?」
「いや、良い」
自分の隣にどうぞと側に置いてあった文庫本を寄せたけれど、すぐ戻るから良いのだよと眼鏡を直した。そうですか、と言う代わりに緑間に視線を合わせる。緑間はまた一つ、溜息を零して話しを続けた。
「朝の占いの通りなのだよ」
「はあ…」
「とてつもなく鬱陶しい」
「それはボクにはどうしようもないんですが」
「どうにかしろ」
「いや、良いです。遠慮しときます」
「どうにかしたらバニラシェイクを奢るが。…黄瀬が」
「…卑怯な」
溜息を吐き出す緑間とバニラシェイクで心が揺れ動く黒子には、鬱陶しい「彼」がとてつもなく鬱陶しくなってしまった理由が「恋」などという事に、今はまだ気付いてはいなかった。
そしてその相手が自分などという事も黒子は解ってはいないのだ。
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20100427
恋の始まり