「レオ君」


その声で名前を呼ばれると無意識に期待して。


「此処においで」


雪の様に白いてのひらを差し伸べられると心踊る。


「好きだよ」


耳元で、甘く愛を囁かれると涙が流れそうで瞳を伏せた。
意識が遠退く中、胸が締め付けられる程、ありえない程に僕は願った。


僕らは互いに
闇に
溺れ







(………此処は、)


此処は何処だろう、暗くて何も見えない。
目の前は光りさえも透さない闇の様で、狭い空間ではない筈なのに息苦しい。
肌に空気の冷たさを感じて、まるで水の中にいる様だった。
この空間が何かも分からないまま、ふらふらと闇の中を進む。

(何故僕は此処にいるのだろう…思い出せない、)

思い出したくないと、心がざわめくのは、何故。
全て全て忘れてしまって(僕の思いも塞いでしまって)。
哀しみも苦しみも(愛しさも求める願いも)。

もうそんなものは要らないから、僕の前から消えてしまってよ(お願いです僕の心から切り離して)。


(――もう二度と、思い出せない様にしてください)


ポツリと呟く声も、暗闇の中に溶けて往ってきっともう、このまま僕の声は届かないんだ。
いっそ、届かないままでいて。
伸ばしかけた手は戸惑い、あなたの名前も僕は呼べない。
愛をくれるあなたに戸惑う僕は、なんて愚かな。
あなたに名前を呼ばれて嬉しいと思う僕は、とても汚い。
光りの先にいるあの方の為に、僕は此処に存在(あ)るというのに。
堕ちて堕ちて止まらなくて、後悔が僕に押し寄せて、息が詰まって、身動きが取れなくなるから、だから。
だからもうこのまま、このままで、僕を暗闇の中に閉じ込めてしまって。
このまま朽ちて消えて行けるのなら、あなたへの想いもコッソリと、闇の中へ連れて行きたい。


「………白蘭、様」


心がざわめく名前を呟き、足を止めた。


(ああ…僕はなんて愚かで汚いんだろうか、)


堕ちていった先は真っ暗な闇の中で、僕に理由をくれたあの方の声が遠くなる。


(ああ、このまま声が聞こえなくなれば、そうなれば)


―――びゃくらんさま。


名前を呟くと、あなたは迎えに来てくれるのでしょうか。
そう馬鹿なことを想ったら、ひらりと花びらが僕の前に降って来て、白い雪の様に溶けていった。
あの声で自分の名前を呼ばれた気がして、白い花びらが僕の頭の中に溢れ出した。
あ、消えてしまいそう。
そう想うと何故か涙が零れ落ちた。

びゃくらんさま。





不意に、グラグラと目の前の真っ暗な世界が揺れる。
瞼に光りを感じて、瞳を開けるとそこはいつもの場所の様で、見慣れた白い天井がぼんやりと視界に入って来た。
横たわっている場所は柔らかい白いソファの上だった。


(……ぼく、は)


どうして此処にいるのだろうかと、部屋の天井を見つめていると、急にキンと頭に痛みが走り眉をしかめた。


(…頭が重い)


視界がユラユラと揺れ動いたのは、この痛みのせいなのだろうか。
答えが出ないまま瞳を開ける。
天井を見上げて溜息を零した。
僕が見たものは何だったのだろうか。
夢、それとも幻だろうか。
息苦しくて暗くて少しひんやりしていた。
なんとなく、感じたことがある感覚で、でも僕には思い出せないから随分と昔の記憶の一部なのかも知れない。
けれど、それだけではないのかも知れないと、痛みを感じる右目をおさえた。


「…?、冷たい…」


自分の額にひんやりと冷たい物を感じて、そっと手を伸ばす。
伸ばしたその手にふわりと重なる体温を感じた。


「…レオ君?」


聞こえてくるのは、僕の存在する理由を掻き消そうとする声で、その声にどうしてとくちびるが震えた。


「…レオ君?」
「…っ…!」


自分の名前を呼ばれて、ハッとして起き上がる。
自分の視界に入って来たのは思いもよらない人で、僕は驚いて声をあげてしまった。


「なんで、自分っ…!」


今の状況が自分には飲み込めず、自分の上司のソファでなんという失態をしたのだと、焦りながら降りようとする。
けれど、そんなことは肩を押さえつけられて、簡単に阻まれてしまった。
自分の上司を拒絶することも出来なくて、少し困って目の前の白い制服を脱いでいる上司を見上げると、くすくすと愉しそうに笑われた。


「レオ君、落ち着いて?」
「…申し訳ありません」
「ふふ、謝んないでよ」


額に感じた冷たい感触は水に濡らした白いタオルで、自分の手にふわりと優しく重なったものは白蘭様のてのひらで。
今も白蘭様にぎゅっとてのひらを握られていて、自分の身体じゃないと思えるくらいに、体温が上がったことが分かる。
そんな自分を白蘭様には気付かれたくなくて、顔が火てって恥ずかしくて堪らなくて、今すぐ部屋から出て行きたい。


「レオ君大丈夫?」


彼の心配そうな声を聞いて、また顔が赤くなるのが分かり、それを隠す様に俯いた。
そうだ。
今朝、いつもの様に白蘭様の部屋に訪れた。
挨拶をすると「レオ君」と名前を呼ばれた。
「おいで」と手を差し出されて白蘭様の隣に座ると、「好きだよ」と耳元で囁かれて、それから、僕の視界は眩暈をする様にグラグラと揺れた。


「…あれから自分はずっと眠っていたのでありますか?…今迄ずっと側にいてくれたのでありますか?」
「そうだと言ったら喜んでくれる?」


俯いたままの僕に、心配したんだからねーと背中に手を回して、良かったと笑ってくれた。
胸の奥が紅く焼きつく感覚を覚えて、ぎゅっと上着の袖を握りしめる。


「レオ君は温かいね」
「…白蘭様も、であります」
「レオ君はちょっと頑張り過ぎたんだよね。だから倒れちゃったんだよ」


無理はダメだよと、にこりと口許にだけ笑みを浮かべた彼に、やんわりと頬を挟み込まれる。


「やっぱり君は僕の側にいないとね。じゃないと彼はまたレオ君に無理をさせるだろうからねぇ」
「…彼…?」
「ううん、こっちの話し」


またにこりと笑みを浮かべて、頬から手を離し、ぎゅっと身体をきつく抱きしめた。


「…白蘭様」
「ふふ、君は誰にもあげないって決めたから」


(レオ君は君には勿体ないよ。この子は君には返さないから)


耳元で白蘭様が僕の中の誰かにそう呟いたことは、僕は死ぬまでずっと知らないままで。







ねえ、白蘭様。
僕は最期まであなたのことが愛しくて仕方なかったのです。
ずっと内緒にしてましたけど、死ぬまでずっとあなたのことが。


(――びゃくらんさま、)


誰にも聞こえない様に、分からない様に、気付かれない様に、血の香りが漂う世界の中、そっとそっと愛を囁いた。


好きだよ。
あの方が全て。
あなたの為に。
あの方の為に。
殺して。
殺せる。
僕が此処に存在する理由は全てあの方の為。
あの方が望むなら、僕は――…。

愛しい人の腕の中、流れるのは消えない痛みと頬を流れる一つの雫。

さあ一緒に堕ちて行こう。
一瞬だから怖くはないよ。
痛みさえも残らない。

「愛してる」なんて言葉はもう、本当は幻なのかも知れない。



本当は傍にいられるなんてそんなこと想ってはいないのです。
ただあなたがこの世界にいてくれさえすれば(たとえ僕が消えてしまってもそれは幸せなことなのです)。


ああ、あなたが愛しいのです。
死んでも、尚。




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20090509








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