1月中旬に行われるあの大規模な試験の時もそうだったが、今日も俺はママより先に起きることはできなかった。
というのは毎日俺の弁当をこしらえる為である。

体調が優れない日だって、喧嘩しあった日だって、憂鬱な日だってあったろう。
それなのに毎日用意されている、お世辞にも上手いとは言え難い弁当。
すでにきちんと用意されたそれをぼんやりと眺めながら、崩れかけたベーコンエッグを口に運ぶ。
その奥、キッチンに立つママの後ろ姿に視線を移した。



このような日常もしばらくしたら思い出と化してしまうと思うと途端に食欲が失せる。
何故なら俺はひとり暮らしを始めるであろうからだ。

どうして合格発表もまだなのに卒業式が行われるのか未だに疑問が残る所だがまあ置いておこう。
来年度から俺はママを置き去り遠い地に行く予定だ。
長年女手ひとつでやんちゃな俺を育ててくれたママを、ふたりで協力して過ごしてきた日々を捨てるのだ。

どうしてそんな残酷なことができよう。
だが俺にはずっと抱いてきた夢がある。
それに辿り着くにはこの場所ではだめなのだ。
例えママのいる平穏な日々を捨てようと、今日まで机に向かってきた意味を成し遂げなければならない。
それだけ、中途半端な夢ではないのだから。



口にあるものをなんとか飲み込む。
牛乳でさらに押し込んでやると俺は席を立った。
「…ママ、俺、行くよ。」
なおも向こうを向いて洗い物をするママの背中はリズミカルに揺れている。
「行ってらっしゃい。
じゃあ後の卒業式で会いましょ。」

何着て行こうかしらね、などと相変わらずこちらを見てくれないママ。
そんなママを見ていたら、喉の奥に隠れていた突っ掛かりが溶けていくのが分かった。
「今まで、本当にありがとうな。
…母さん。」
「っ…!!」

ぴくりと母さんの肩が動いたのを目の端に確認する。
生まれてきた頃から一緒にいた大切な家族。
そんな家族が泣いていることなんて、そして必死にそれを隠し通そうとしていることなんてすでにお見通し。
俺は急いで部屋への、そして大人への階段を昇って行った。
そこは、思っていたより近い場所にあったことを知ったんだ。










今日もいつもと同じ時間に家を出る。
並木坂通り近くの飼い犬を一撫でし、交差点の角の駄菓子屋のおじさんに信号無視を叱られる。
ごくごく、いつも通りの日常。
そして昨日と同じく定刻5分前に学校の門をくぐった。
いつもと違うのは、門に立てかけられた看板と厳かな雰囲気のみ。
それがないと進めないと理解していながらも、俺たちの日常を遮ったと声を大にして言いたい大事な儀式が書かれた白い看板。
俺は突然それを殴り飛ばしたい衝動に駆られた。





チャイムに急かされ教室のドアを開けると空席はひとつだけで少し焦る。
そうか、何を皆書いてるかと思えばアルバムがあったな。
しまった、早く来れば良かったと顔をしかめながら席に着くと隣の幼なじみが早速話しかけてきた。
「おはよう、いつも遅刻ぎりぎりだったけどまさか今日も冷や冷やさせられるとはねぇ。」
うるせぇ、と軽く舌打ちをするとシゲルは笑った。
「そう怒ってないで。
さあ、アルバム貸せよ。」



後方のページにすらすらと何かを書いている隣の奴の姿に、片腕をついた手に顎を乗せて視線を送る。

奴には誰よりも早く春が訪れた。
成績優秀、品行方正ときたら学校側からの推薦を得ることなんてた易いことで、あたかもすんなり受験をこなしてきたかのように見えるだろう。
だが俺は知っている。
夜遅くまで部屋の明かりを点していたことも、休日の朝早くに図書館行きのバスに乗って行っていたことも。
奴の1番近くにいたからこそ知っている事実。

奴は自分の苦労を人に見せたくないタイプだ。
でも無理をし過ぎると取り返しのつかないことになるかもしれない。
ならば俺だけが気付いていればいいと思うようになったのはいつからだろう。



奴は遠い地へ行く。
幼い頃から常に隣にいたのに、これから俺たちは別々の道を行く。
それは我が身を切り裂かれると言っても過言ではないと思う。
それほど奴は俺にとって大きな存在だった。
そしておそらくこれからも、ずっと。



「さ、できたよ。」
ふと気が付くと奴はアルバムを閉じていた。
ごくりと唾を飲み込む。
「…なあ、俺たち離れててもライバルだよな?」
「うん、君とはまだ色々勝敗がはっきりしていないものが多過ぎる。
…まあ、決着をつけるつもりもないけどね。」
鼻で笑いながら奴は前を見据えた。
「それ、どういう意味だ?」
「じゃあ、ちゃんと答えを出しておいてよ。
期限は今度会うときまで、約束だからな?」
ますます訳が分からない、と眉を寄せると奴は目を細めた。
「きっと、すぐに分かるさ。
…卒業、おめでとう。」
俺たちは固く柔らかな握手を交わした。










式は終始厳かな雰囲気で行われた。
まあ、卒業証書授与の名前を呼ばれる際の皆の大きな返事に、幾人かの保護者が吹き出していたのには目をつぶろう。



式中もずっと寂しさと期待が入り混じった大きな感情に押し潰されていた俺をゆっくりと救い出してくれたのは、母校の校歌のピアノの調べだった。
変拍子の曲に入学当初は口もとがひくついたこの校歌も、今ではただただ愛おしい。
行事の度に歌ってきた大切な歌とも、これでしばらくはさようなら。
これまで俯いていた顔をあげ、俺は大きく息を吸った。
瞳を閉じると浮かぶのは楽しかったこれまでの3年間。
じんと、込み上げるものをどうにか堪える。
全身が熱くなってゆくのが感じられた。





1年次。
ずっと着たかった真新しい制服に包んだ自分を姿見に映し、思わず頬が綻んだ。
友だち100人できるかな、は名言だと思った奴、絶対多いだろ?
ぱらぱらとめくった教科書に青ざめた。
それが今では理解できるから不思議なものである。

2年次。
修学旅行、初めての海外にパスポートを握りしめた。
空の上から見た日の出が今でも瞼の裏に焼き付けられている。
にしても後輩への土産、ヒツジの刈り取った体毛はなかったんじゃないか?
学校中に消臭スプレーの噴射音がしていたぜ。

3年次。
これからの人生が決まると言っても過言ではない、運命の1年。
おそらく過ぎ去るのが最も早く、最も長い時間勉強し、最も密度の濃い充実した1年だった。
頭を寄せ合い、時には口論し、そして何よりも沢山笑った時間。
あんなに楽しかった日々はもう来ないとすら思えるよ。





ピアノの音が静かに空気に溶けてゆく。
とうとう、俺たちの旅立つときがやってきた。
鼻の奥がつんとなり、目頭が熱くなる。
大きなおおきな拍手と歓声に包まれ、俺たちは席を立った。



1人ひとり胸を張り歩を進める。
体育館の隅には今までお世話になった先生たちの姿があった。





伝えたいことがなかなか伝わらず、お互いに涙した進路相談。
先生の教えはきっとここに在り続けるよ。

自分の夢を褒めてくれた先生。
たどたどしいながらもちゃんとその道、歩いてるのかな。

閉校時間を過ぎても熱心に解法を教えてくれた先生。
実は帰り際、見回りの警備員に怒られていたことに気付いていた。

行き詰まっていた自分を、そっと掬い上げてくれた先生。
照れ臭いから絶対に口には出せないけれど、先生の一言に本当に救われたんだ。

自分の誤った考え方に本気で怒鳴ってくれた先生。
本当にごめんなさい、そしてありがとう。





先生たち皆が俺たちを祝福してくれる。
ありがとう、ありがとう。
口に出すのは似合わないから1人ひとりに伝える、心からの感謝の気持ち。

そして体育館の入口にいたのはあれだけ迷惑をかけたのに、優しい涙目で俺に微笑む担任。
白髪混じりで、チビで、口うるさくて、化学バカで、だからこそ俺も化学を好きになれて、ついでにそんな担任も大好きで、とにかく気持ちの整理がつかない恩師。
深く頭を下げるとそのままきつく抱きしめられ、あのタバコの匂いに包まれるともうどうにも我慢できなくなり、とうとう俺は嗚咽を漏らした。
頭に沢山降ってくるのは、ただひたすらのおめでとうと、どこまでも温かな涙。
何かの糸がぷつんと切れた。
もう、感情を抑えることはできない。
俺は顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。










3年間を共にした仲間たち。
朝早くから夜遅くまで、そして休日も問わず同じ時を刻んだ大切な仲間たち。



皆みんな、笑ってた。
俺たちは似た者同士だから分かるけど、本当は寂しくて悲しくて堪らなかった。
卒業なんてしたくない、大人になんてなりたくない。

だから、笑った。
無理をして、ひたすらに隠して。
今までのように、バカを言って笑いあう。

皆みんな遥か向こうへ飛び立つ。
地方だけでなく、国を離れる者もいる。

確かに寂しくて悲しいけれど、これは喜ばしいことなんだ。
3年間描き続けてきた夢を目指す、歩みべき人生の始まりなんだ。
きっと、これが大人になるということなんだね。



抱えきれない感謝をぶつけることはしない。
だって皆分かっているから。
だから今はできるだけいつも通りを保つ。
そして、いつも通りの言葉でさあ、また逢おう。

「…じゃあ、またな!」



こうして俺は、大好きな大切な母校に背を向けた。










「ふふ、よかったわ、一緒に卒業できて。」
歓声と涙と笑顔が飛び交う中、向こうにいたのはカスミだった。
「なんだと!」
拳を振り上げるとスカートを翻しひょいとよけられる。
明日からは、クローゼットの奥でずっと眠り続けるだろうファッションセンスのかけらもない制服。
俺は自然とズボンを握りしめる。

こいつも遠い地へ旅立つ。
まだ受かっていないんだから、断定をするのはよせといつも笑い飛ばされるが、俺にはこいつがすっかり都会に染まってしまうイメージしか描ききれない。

こいつも奴と同様、ひたすら勉強に打ち込んだ。
全てにおいて全力投球なこいつに、幾らストップをかけても止まることは決してしなかった。

人は皆、やんちゃな俺を制御するのがカスミだと言う。
しかし、その逆も成り立っており、上手いバランスをとっていた気がしてならない。
思いおこせば、どの景色にもこいつがいた。










4月。
柔らかな風が創る桜吹雪に息を呑む。
君の髪に、花びらひとつ。

5月。
真新しい教科書に刻む、それぞれの色。
皆違うからこそ、人生って面白い!

6月。
カエルたちの歓声に包まれて、さあ目指せ水溜まりの大ジャンプ!
高く跳んだ向こう、彼方に虹を見た。

7月。
冷蔵庫の中に姿を見せだすのは甘いあまいアイスクリーム。
そして物置に眠っていた、埃被った扇風機。

8月。
じりじりと射す日差しに肌の色が変わってゆく。
体育祭本番はもうすぐそこに。

9月。
いざ見せつけん、我らが努力の成果を。
必死に頑張ってきたからこそ流せる汗に塗れた涙。

10月。
どんなに綺麗な紅葉の中にだって、きっと僕は誰よりも速く君を見つけてみせるから。

11月。
白い息よ天まで届け!
降る雪の代わりに贈る、ありがとうの気持ち。

12月。
サンタクロースはきっと存在する。
まだまだお子ちゃまなんだから、それくらい信じてみてもいいだろう?

1月。
おみくじと一緒に括りつける、新年の抱負。
初日の出の橙に吸い込まれそうになった君の手を、できるものなら繋ぎたかった。

2月。
街中が桃色とハートで溢れかえり、少しだけ祈りを込めた。
知ってたよ、いびつな形に込められた温かなもの。

3月。
桜の蕾が春と別れを告げる。
また来年も君の隣にいたいと、こっそり願ったんだ。










とうとう俺たちの羽ばたく時が来た。
今までの日々を振り返らず、光の向こうに行くのだ。
どうか、こいつがずっと笑っていられますように。
今までとは違い、俺はすぐ傍にはいられないから。
こいつの流すはずだった涙は、俺がきっと吸い取ってみせるから。

でも俺は、我が儘かもしれないけれど、勝手かもしれないけれど、これからもこいつの隣は譲らないから。
そりゃあ距離は離れてはいるけれど、こいつを笑顔にできるのは俺しかいないんだから。



ねえカスミ。
君はどう思っているかな。
確かにお子ちゃまだし、顔も頭も良くない、体だけが取り柄の俺だけど、いつか自分に自信を持てたら、そのときは目一杯の花束を抱えて行くからきっと受け取ってくれよ。

だから俺は今は何も言わない。
寂しさと悲しさに押し潰されて弱音を見せても、最後には笑ってみせるから。
君から学んだ温かい笑い方を、きっと僕は忘れない。



俺たちは羽ばたいた。
飛び方を分かった俺たちがやるべきことは、後は光に向かって突き進むのみ。
突風や嵐に打ち勝ち、たどり着いた先には君がいることを願いたい。

さよなら、楽しかった日々。
こんにちは、もっともっと楽しい日々。





証書の入った黒い筒をコツンとぶつけ合う。
届け届け!
これまでありがとう、これからもよろしくな。

「…卒業、おめでとう!」
青空に思い切り放った黒い筒。
きらりと光ったその向こう、2羽の白い鳩が高い空に飛んで行った。










卒業、そして始まり
ありがとう、さよなら
ありがとう、こんにちは















100321
当Spiral先日1周年を迎えました。
ありがとうございます、これからもよろしくお願い致します。

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