それは、珍しく悟浄が休みを貰えた日の事だった。
朝ご飯を食べた後、私達は食後のお茶を飲んで久しぶりに夫婦のゆったりとした時間を楽しんでいた。
せっかくだしどこかに行ってみようか、というところまで話が進んだ頃、ふと悟浄が私の顔を凝視し始めた。
「悟浄、どうかしましたか?」
「あ、はい、その……玄奘、顔が赤いですがどうかしましたか?」
「……気のせいじゃありませんか?もしくはお茶を飲んだせいだと思います」
「そんなことはないでしょう。それに目も潤んでいるように見えるのですが?」
こういう時悟浄の観察眼は本当に鋭い。
「…………気のせいだと思います」
「もしかしなくても風邪、引いてますよね?玄奘」
「……さて、私はそろそろ家事をやってきますね」
多少強引に私は悟浄の質問から逃げるように家事をする、と言って席を立った。
確かに多少風邪気味ではあったがそこまでたいしたことはないと油断をしていた。
だけど、逃げるように座っていた椅子から立ち上がると同時に目眩が私を襲った。
「玄奘!!」
悟浄の切羽詰まった声が聞こえたが、聞こえただけで、悟浄がどんな表情をしているのかまでは見えなかった。
薄れていく意識の中、悟浄に心配させてはいけないと思いつつも私は意識を手放すしかなくて、ゆっくりと目を閉じた。
-*--*--*--*--*--*-
「ん、…………う、ん」
フワッと意識が浮上して喉の乾きと共に目を開けるとすぐ目の前に悟浄がいた。
「目が覚めましたか?」
「え、えぇ……あれ?なんで私……」
なにが起こったのかいまいち分からないままでいると、悟浄が飲み物を差し出しつつ答えてくれた。
「覚えてませんか?家事をするといって椅子から立ち上がったら倒れたんです。」
……そういえばそうだったかもしれない。
「そうだったのですね、迷惑をかけてしまってすいませんでした。
それに寝台まで運んでもらって……重かったでしょう?」
「いえ、全然重くなんか無かったですよ!むしろ羽のように軽くて!
それに……俺は迷惑だなんて思ってませんから」
一気にそう言った悟浄の台詞には聞き覚えがあった。
「ふふっ」
「どうかしましたか?」
それを思い出して、思い出し笑いをしていると悟浄が不思議そうに聞いて来た。
「いえ、旅をしていた頃を思い出していたのです
覚えてますか?砂漠でオアシスを見つけた日の夜の事」
「あぁ!あの時の事ですか」
「あの時も悟浄は私の事を『羽のように軽い』って言ってくれましたよね」
「本当に玄奘様は軽かったですよ。」
「悟浄?」
「あぁすいません。旅の事を思い出していたら、つい……」
まだ時々悟浄は私の事を様付けで呼ぶ。
あの長い旅の中でずっとそうだったのだから多少は仕方ないかもしれないけれど、やっぱり少しだけ寂しい。
「あ、そうだ玄奘。薬、飲んでください。
悟空に貰った悟空特製の効き目抜群の薬がまだ残ってましたので」
「悟空特製って、もしかしてあの……」
「えぇ、あの薬です。」
悟空特製の薬……旅をしていた頃に私が風邪で寝込んでしまった事があった。
悟浄も玉龍も悟空も八戒も、みんな心配をしてくれて、それぞれ私を元気にしようとしてくれた。
悟浄と玉龍は側で看病してくれて、八戒は何故か果物をドッサリと買って来てくれて、悟空は早く風邪が治るように薬をわざわざ調合してくれたのだ。
悟空曰く、『これ飲んどきゃ、風邪なんて一発で治るぜ』との事だったので一気にその薬を飲み干したら、恐ろしく苦かった。
確かにその薬を飲んだ夜、ぐっすり寝たら次の日には風邪は治っていたのだが、あの苦さといったら尋常じゃなかった。
もう二度と飲みたくないほどに。
「ご、悟浄、その薬は絶対に飲まなきゃいけませんか?」
「はい。早く治っていただきたいので」
にっこり、と微笑む悟浄に邪気は一切見当たらない。
悟浄は完璧、善意でこの薬を勧めている。
それだけに断りにくい。
「悟浄、その悟空の薬でなくても家に他の薬ありましたよね?」
「いえ……さっき探して見たのですが、これ以外風邪薬がなくて……」
(どうしましょうか……なんとかあの薬を飲まない方法は……あぁ、それよりもきちんと在庫を確認していなかった過去の私に説教してやりたい気分です……)
「もしかして、飲みたくないんですか?」
私がギクッと身体を強張らせたのを見て、そうなのだと知った悟浄は言い聞かせるように説得してきた。
「玄奘。薬が飲みたくないと言う思い自体は分からなくも無いですが、飲まないと風邪は治らないんですよ?
それにこの薬を調合したのは悟空ですから、効き目満点は勿論、飲む玄奘の身を慮って苦くないようにしてあるはずです。」
……そういえば、あの薬を飲んだ時、悟浄は八戒と共に私の為にお粥を作りに行ってくれてた。
(だから、私がどうしてこんなにこの薬を飲むのを嫌がるのかを知らないのですね……)
と、がっくり肩を落としていると、その様子を薬を飲みたくない、という主張だと受け取ったのか、悟浄がよくわからない事を言い出した。
「わかりました。玄奘がその気だと言うなら俺にも考えがあります。」
考え? と、私が首を捻っている間に悟浄はあの悟空特製の薬を口に含め、さらに少し白湯を口に含んだ。
そしてちょっと顔をしかめたかと思うと、私の顔に自分の顔を近付けて、私の唇に口付けをした。
(────────っ!!?)
思考が止まった。
その間に僅かに開いていた唇からなにか物凄く苦いものが流れ込んで来た。
なんなのか分からないままその苦いものをこくり、と飲むとそれを待っていたかのように悟浄の口が離れた。
「なななな、な、なにを……!?」
動揺しすぎてうまく言葉が出てこない。
今なら鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤だというのは簡単にわかる。
「あのままだと玄奘が飲まなさそうでしたので……」
そう言う悟浄も冷静になって、自分のした大胆な行動に赤くなっている。
2人して赤くなって、互いの目を直視出来ない時間が数分出来た。
(えっと、この場合、どうすればいいんでしょうか……
とりあえず、口の中が苦いままですし、白湯でも飲みましょうか……)
そう思って、寝台の近くに置いてあった白湯に手を伸ばせばすかさず悟浄が白湯を取ってくれた。
差し出された白湯の入った湯飲みを受け取って、すぐに飲み干す。
「玄奘。」
「はい?」
「あなたに薬を飲んでいただくためにいきなりあんな事をしてすいませんでした。」
「あ、いえ、気にしないでください。
それに、中々飲もうとしない私も悪かったですし……」
「……あの薬なら誰も二回目は拒否したくなると思います。
玄奘に飲ませる為にちょっと口に含んだだけでも物凄く苦いと感じましたし。」
ちょっと顔を背けて頬を人差し指で掻く。
どうやら本気で苦いと思ったらしい。
(……さすがは、悟空特製、ですね。)
そんなことを埒もなく思っていると、悟浄が私の顔を覗き込んで来た。
その顔には心配そうな色が浮かんでいた。
そして、私の顔を暫くジッと見つめたかと思うと、おもむろに自分の顔を近付いてきた。
(こっ、今度は一体なにをするつもりなのですか!!?)
コツンッと軽くぶつかる音が耳に入って来たのと、額辺りに熱を感じたのはほぼ同時だった。
目の前にはさっきの口移しの時と同じくらいに近くに悟浄の顔がある。
数秒経って、私の額から自分の額を離した悟浄は少し考えてから言った。
「顔はまだ赤いですが、なんとなく熱も引いていっているような気がします。
ですから、安静にして寝ててください。
眠れそうになければ、玄奘が寝るまで俺が側にいますので、安心してください。」
微笑みと共に手を握られ、もう片方の手で優しく頭を撫でられる。
その温かい感触に、私はうとうととまどろみ始めた。
眠る直前まで私が見てたのは、優しい悟浄の微笑み。
悟浄のその微笑みを見る事が出来るのはなにより幸せで安心出来たから私はそのままおとなしく眠った。
次の日、ぐっすりと眠った私の風邪はすっかり治っていた。
【風邪の日のとあるワンシーン】
後日、今度は悟浄が風邪を引いた。
(…………やっぱり、あの口移しが原因、ですよね。)
「悟浄。とりあえず、悟空の薬を取って来ますね。」
「…………はい。」
なんだかものすごく嫌そうな感じだけど、あれから薬を買いに行く暇がなかったから今はこれしかないので我慢して欲しい、と思いつつ心の中で謝る。
(すみません、悟浄。次の時こそきちんと薬買っておきますから。)
そう心の中で謝ってから、私は薬を取って来るために部屋を出た。
(悟浄の好きなものをいれたお粥でも作りましょうかね……)
せめてもの罪滅ぼしに、と。