廊下の先に見慣れた姿を見つけ足を早める。駆けてきた勢いのまま背中を叩いてやろうと腕を振り上げるが、それよりも早く相手が振り返ってしまった。
「よお、なまえ」
 いつもの人好きのする笑みを浮かべた山本は、振り上げている俺の手を見るやいなやそれが挨拶だと思ったのだろう、ペチンと手を合わせてきた。しかし流石に天然の山本といえど俺の冷たい視線に気がついたようですぐさま腕を下ろした。
 山本の澄んだ瞳が不思議そうにこちらを見る。
「どうかしたのか?」
 俺は一度、ぐっと奥歯を噛み締めた。そうしなければ怒鳴り散らしてしまいそうだったからだ。
 山本の左目――右目は眼帯に覆われてしまっている――を見つめ返し、ゆっくり口を開く。
「お前が行きたいのって、甲子園じゃなくて両国だったんだな」
「両国?」
 山本は、きょとんと目を丸くする。まるでこちらが突拍子もないことを言い出したかのような反応だ。けれど俺は知ってる。山本には心当たりがあるはずだ。
「相撲大会」
 ぶっきらぼうに答える。
「……何で知ってんだ?」
 益々驚いた様子で山本がこちらを見た。
「お前のクラスの黒川に聞いた」
 あー、と気まずそうに頭を掻く山本を睨みあげる。
「何やってんだよ。学校休んで、そんな怪我して。この間……秋季大会の前にも怪我してきたよな? 一体、どうしちゃったんだよ。お前、」
「悪い」
“もう野球、好きじゃないのか?”
 そう続けようとしたけれど、言い訳をするでもなく放たれた潔い謝罪に阻まれた。でも謝罪がなくとも、俺はそれ以上口を動かせなかったと思う。
 山本が野球を好きじゃなくなるなんて絶対にありえない。そんなこと、解っているんだ。
 溢れる才能に加えて、人一倍重ねる努力。山本は野球の神様に愛されてて、でもそれ以上に山本は野球を愛していて。
 再び奥歯を噛み締める。謝って欲しいわけじゃなかった。謝られてもこの憤りは治まらない。それでも、まあいいけど、と呟いた。自分でも笑いそうになるほど嘘っぽくなった響きを誤魔化すように、明るく続ける。
「山本が居なくなれば俺がレギュラーだし」
「んー、レギュラーの座は譲れねえな」
「お前は相撲やってればいいだろ」
「でも相撲は今日で終わりだからな」
「――終わり?」
「ついに大将戦なんだ。ツナが出るんだぜ」
「ツナ?」
 時折見かける頼りなさそうな姿を思い浮かべる。その顔をぼんやりとしか思い出せないのは、彼の隣に山本や獄寺といった目立つ存在がいるからかもしれないが、それ以上に彼自身がパッとしないからに違いない。一年のときに剣道部の主将を倒したとか、体育祭の棒倒しではB組C組の大将を闇討ちさせたとか、たまに凄い噂は流れるけれど、通常聞こえてくる評判は“ダメダメのダメツナ”というものだ。テストは赤点ばかりで運動も出来ない、どうして山本や獄寺が側にいるのかわからない、存在。
「あの『ダメツナ』が大将?」
 不思議に思いながら山本を見上げる。
 瞬間、息を飲んだ。
「ツナはダメなんかじゃねーよ」
 山本の左目が、バッターボックスに立ったときみたいに煌めいて、俺を真っ直ぐに射貫いたのだ。山本と対峙した投手はみんなこれに見られていたのかと驚愕する。ベンチから見るのとはまったく比較にならない。――まるで、閃光のような。
 ビクリと揺れた俺の体に気づいたのか気づかなかったのか、山本はふっと口元を緩めると、しかし口調の力強さだけは変えずに言った。
「今夜も、絶対に勝ってくれる」
「…………俺、知らねえもん。沢田なんて」
 絞り出した声は、まるで子供が拗ねているようだった。
「ああ、そっか。なまえは一年のときも俺たちと違うクラスだもんな。来年は同じクラスだといいよなー!」
 山本の明るい声が俺を余計にいたたまれなくさせる。まあな、と曖昧に頷きながら、どうしたら自然にこの場を離れることが出来るかと考えた。
 最初山本の姿を見つけたときに溢れてた怒りの感情はもうこれっぽっちも残っていなくて、今はただ自己嫌悪でいっぱいだった。そもそも俺に怒る権利なんかあったのだろうか。俺なんかただ、少年野球からのチームメイトってだけなのに。
「……あのさ」
「ん?」
 零れかけた溜め息を飲み込んで首を傾げる。
 山本は一瞬口ごもった。それを不審に思う間もなく、山本が尋ねてきた。
「なまえは、黒川と仲良いのか?」
「……? 委員会が同じだから」
「それだけ?」
「それだけだけど。何だよ、お前まさか黒川のこと、」
「違うって!」
 山本がこんな風に声を荒らげるのを初めて見た。驚いていると、気まずそうに顔が逸らされる。
「……もういい」
「なんだよ」
 わけがわからないと眉を顰める。
「いいんだ」
 そう言った山本は珍しく俯いていて、その表情を窺うことは出来なかった。

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