「少し我慢してくださいね」
 優しい声音と共に、消毒液を染み込ませた脱脂綿が傷口にあてられる。
「いてて……っ」
「情けねー声出すんじゃねえ」
「っでー! な、何するんだよ、リボーン!」
「痛くなくなっただろ」
 確かに消毒液の痛みなんか一気に吹っ飛んだけど。
「ふざけんな! また傷が増えただろ!」
 涙を浮かべつつ、思いっきり横っ面を蹴り飛ばされたことについて抗議をする。……でも小さな家庭教師に俺の声は届かない。というか、簡単に跳ね返されてしまう。
「あーっ、嘘! 嘘です! わかりました! 俺が全部悪かったです!」
 リボーンの相棒、形状記憶カメレオンのレオンが巨大なハンマーに変形したのを見て慌てて頭を下げる。
 くっそー。すぐ暴力に訴えやがって。
 口内に広がる鉄の味に眉を顰めていると、クスクスと小さな笑い声が聞こえてきて俺は顔をあげた。
 脱脂綿をつまんだピンセットを持ったまま、なまえが控えめに笑っていた。

 俺がうんと小さい頃、親父がどこからか連れてきた少年がなまえだった。そのときのことを俺はあまり覚えていないが、身寄りがなく、あのとき親父に拾われていなければ死んでいただろうとなまえ自身から聞いたことがある。以後、彼はずっとこのキャバッローネのために尽くしてくれている。親父の忠実な部下として。母のいない俺の兄代わりとして――。

「相変わらず、仲がよろしいのですね」
 昔から変わらない、花がほころぶような、という表現がよく似合うなまえの温かくて柔らかな笑み。ぼうっと見とれているうちにリボーンが勝手に、まあな、と答えてしまって、唇を尖らせる。仲なんか良いもんか。
 この最凶に強くて最悪に横暴な赤ん坊が家庭教師になってから俺の人生は滅茶苦茶だ。“立派なマフィアのボスにしてやる”それを合言葉に、いつもわけのわからない修行をさせられて。学校だって、遠くの全寮制の学校に無理矢理入れられて。何度死にかけたかわからないし、いま手当てを受けているのだって、リボーンの所為だったりする。
 一体、数人がかりでボコボコにされなきゃならないほど、俺が何をしたっていうんだ。確かに、終業式を迎えようやく地元に帰れると浮かれていた。でもそれがどうして同学年の中でも特に体格の良い奴らばかりを狙って、喧嘩を売る理由になるんだろう(まあ、体格が悪かろうと、俺が勝てるような奴は校内に一人もいないんだけど)。お陰でボロボロの状態で帰宅することになって……久しぶりになまえに会うから格好良く決めたかったのに。しかもこの間の休暇のとき、なまえに学校はどうかと聞かれて「楽しくやってる」と話をしたあれが全て嘘だったと、これでバレてしまったわけだし。あ、そういえばなまえにまだ『おかえりなさい』を言ってもらってない。なまえが微笑んでそう言ってくれるだけで俺はすごく幸せな気持ちになれるのに。でも仕方がない。だって、怪我をしてボロボロの奴に向かって誰がにっこり微笑んで呑気に挨拶してくれるっていうんだ?
 ああ、考えれば考えるほどムカついてくる。あれもこれも全部リボーンの所為だ!
「あのままじゃ来年もあいつらになめられたままだぞ」
「……いいんだよ、別に」
 心の中では散々文句をぶちまけている俺だが、実際に出来ることといえばこうしてフンッと鼻を鳴らすことぐらいだ。それもリボーンの眉がピクリと動いただけで勝手に体が逃げようとする始末。しかし俺が逃げ出すよりも早く、更にはリボーンが動くよりも早く、なまえが声を荒らげた。
「だめです!」
 なまえは驚いている俺の肩を掴んで、だめです、と繰り返した。二回目は少し声を抑えていたけれど憤慨した様子は変わらなかった。
「貴方はキャバッローネの10代目なんですよ」
「っ、だから、マフィアのボスなんて俺には向いてないって」
「いいえ、そんなことはありません。ディーノ坊ちゃんはボスの一人息子。貴方が継がなくて誰が継ぐというのですか?」
 ――“ボスの息子”。その響きに胸がツキンと傷む。
「なまえが継げばいいじゃん」
 俺は、わざとふざけた口調で答えた。
「ご、ご冗談を! やめてください!」
「なまえは頭もいいし腕もたつだろ。親父だってなまえのことを信頼してるし」
「……私は、ボスのために働ければそれで幸せなんです。他に望むことはありません」
 きっぱりと言い切るなまえ。その目には迷いなんかない。本当に心の底からそう思っているんだろう。
 ボスのため。
 ボスだけの、ため。
「坊ちゃん?」
 黙り込んだ俺をなまえが首を傾げながら覗き込んでくる。顔を背ければ戸惑った様子で、どうかしましたか、だって。どうもこうもない。俺は、なまえにとって一番大切な親父の、息子。だから優しく笑いかけてもらえてこうして手当てだってしてもらえる。ボスの息子だから。
 そのときノックの音がして、扉の向こうからロマーリオが顔を出した。
「やっぱりここか。なまえ、ボスが呼んでるぞ」
「あ、はい! 今すぐに!」
 そう言って立ち上がるなまえ。でも俺のことを気にしているらしく、その場から動こうとしない。
「なんだ、坊ちゃんの手当てか? わかった、ここは俺に任せて……」
「いいよ。あとは自分でやる」
「おいおい遠慮すんなって」
「どうせ“男の治療はこうだ”とか言って包帯でぐるぐる巻きにする気だろ」
 ロマーリオに向かってべーっと舌を出した途端、横にいるなまえがほっと息を吐いたのがわかった。
「それでは、失礼します」
 なまえが閉めた扉を俺は暫くの間、何もせずにただ見つめていた。寂しいなんてもんじゃない。部屋どころか世界中でひとりぼっちになった気分で。
「――ボスになりゃあ部下を好きに出来るぞ」
 そんな言葉を囁かれるまで、俺は本気で、隣にリボーンが居ることを忘れていた。
「なっ、いきなり、何言ってんだよ! そんな最低な方法でなまえを手に入れるなんて……っ」
「ん? 俺はなまえをどうこうしろ、なんて一声も言ってねーぞ?」
 ! こいつ!
 普段のポーカーフェイスはどこへやら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるリボーン。その顔が本当、他にこれほど人をムカつかせる表情があるのかってくらいで。ムカついて、ムカついて。
 …………なんか、泣けてきた。
「強くなりゃあ、告白する勇気も出るんじゃねえか?」
「うるせー」
 リボーンのバカ。いつもなら情けねぇとか言って殴ってくるくせに、どうしてハンカチなんか差し出してくるんだ。余計涙が止まらなくなるじゃないか。
 ぐすっと鼻を啜る俺の肩を、リボーンの小さな手が励ますように叩く。
「大丈夫だ。当たって砕けてもすぐ立ち直れるくらい精神の方もみっちり鍛えてやるからな」

 え?砕けるの前提ですか?



浮上のような沈下劇

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