彼と結婚したとき、彼も私も、まだ18才になったばかりだった。あまりにも若かった。それでも、お互いの意思の上で決めたことだったんだと思う。結婚を求めたのは私で、いいよと言ったのも、彼だった。そこに親の存在はなかったように思うが、実はよくわからない。自分の意思なのか親の意思なのか、それとも他の意思なのか。イルミと結婚したいと言うよりも、気がつけば、イルミと結婚するのだ、と考えるようになっていた。そう考えるようになったのはいつ頃だっただろう。あまりよく覚えていない。でも別に、困ることでもなかった。彼のことは嫌いではなかったし、結婚したいと思う相手も、これから先見つかるようには思えなかったからだ。
 私たちは結婚をするまでに、キスもセックスもしたことがなかった。「まずいよ」と私は言った。「まずいの?」よく分からない、という風にイルミは繰り返した。「だって結婚するひとは、みんなキスもセックスも済ませてるものじゃない」私はまだ18才で、そう言うことを済ませていないと結婚出来ないのだと何となく思っていた。だから、まずかった。「へえ、知らなかった」イルミはあくまで淡々と答えて、それから少し間を置いてから「じゃあ、しようよ」なんでもないようにそう誘った。初体験は彼にとっても私にとっても、とくべつ扱いをする理由にはならなかった。結婚する上で必要な通過儀礼なものとしてお互い認識していたのだと思う、少なくとも私には。彼の気持ちは、分からない。

 小さい頃、親から「あなたは、イルミくんと結婚するのよ」と一度言われたことがある。ほんとうに小さい頃だったので、それが私のなかの最も古い記憶と言っても過言ではない。私はそのとき少し気になる男の子がいて、だから親には「イルミはね、お友達なの」と否定した。親がどのような表情をしたのかは、覚えていない。なにか言われた気もするが、それもやはり、覚えていなかった。結局私はイルミと結婚した。そのことだけが、確かだった。
「イルミはさ」
「何?」
「親から言われたことはある?あなたは誰かと結婚するのよって……」
「ないけど」
「ふうん。そっか」
「うん」
「私はあるよ。イルミと結婚するんだって言われたことが」
「へえ、当たってるじゃん」
「うん」
「ああ、それとも親に言われたからオレと結婚したの?」
「ううん。それは、違うと思う……」
「そう。まあ別に、どっちでも良いよ、オレは」
 書類から目を離すことなくイルミは答えた。それから、やはり目を離すことなく、紅茶を啜った。私はと言えば書類から目を離し、そんな彼の様子を眺めている。「ねえ、ちゃんと読んでるの?」ようやく私を視界にいれたイルミがやや怪訝そうに訊ねた。
「うん、一応……」
「一応、なんてよく言えるね。ターゲットの情報はしっかり頭に入れておかないと」 
「そうだね、ごめん」
「まあ、いいよ。別に期待はしてないから」
 否定するのも肯定するのも、どちらにせよ変な話だろうと思ってやめた。そのとおりだが、そのとおりならば私がこうしている理由が無くなってしまうから。だから私は黙って書類を読むことに、少なくとも表面上はそう見えるように専念する。彼はそれで、一応は満足してくれるから。どうせ私が情報をいれていようがいまいが、彼にとっては同じことだろうと言うのに……。
「ナマエ」
 天気予報に反して大降りの雨だった。腹部から流れる血は、薄暗闇の地面に流れて、雨に流れて、よく見えなかった。いや、私の目が霞んでいたから、見えなかったのかもしれない。私は失敗したのだ。傷こそ致命的ではないものの、ターゲットを逃した。彼の言う通り、油断がなかったとは、言い切れない。違う。私は完璧に、油断したのだ。
 雨に打たれながら、路地の壁に背中を預け腹を押さえている私はさぞ惨めに見えたことだろう。「ターゲットは始末した」イルミはそう告げて、私の腕をグッと引っ張り立ち上がらせた。「そう……」私はそれ以外に何も言う言葉が見当たらなかった。肌や髪とは正反対に、口のなかは乾ききっていた。
「さいごまで気を抜かないこと。いいね?」
 イルミの口調は、弟を咎めるときのような、そんな風な物言いだったから、私は少し驚いて腹部に込めていた力を緩めてしまった。「怒らないの?」そう聞く私も、まるで兄に叱られた、弟か妹のような気持ちだった。「怒らないよ。さ、早く帰って怪我の手当てをしよう」イルミは雨で濡れた前髪を鬱陶しそうにかきあげた。肩を抱かれ、2人で路地を歩いた。イルミの髪がおでこにあたり、くすぐったかった。
「イルミの髪は綺麗だね」
「そう?」
「伸ばしてみたら?」
「手入れが面倒そうだな。お前、よく髪に何か塗ってるだろう」
「まあ、ケアは大変かもね」
「じゃあやっぱり嫌だなァ」
「そっか」
「ああ、でも前髪なら伸ばしてみるよ。すぐに伸びて鬱陶しいからさ、ならいっそ伸ばしてしまったほうが良いだろ?」
「いいんじゃない。イルミ、どんな髪形も似合うよ」
「ハハハ、世辞もそれらしくなってきたじゃん」
「それ?」
「ん、妻ってこと」
「そうかな」
「多分。うーん、やっぱりオレもよくわかんないや」……
 あのときイルミが怒らなかった理由を、私は何となく察している。そしてそれは、暗殺に失敗するよりももっと、なんだか惨めなことのように思えてしまうのだ。ターゲットの情報を頭に入れていなくたって、イルミはきっと、あのとき同様に怒らないのだろうことも知っている。分かっている。もとよりイルミは私に期待も信頼もしていないのだ。そんなことになど構わない振りをして、黙々とターゲットの情報を頭に入れていく。自分は惨めだと密かに口のなかで呟く。紅茶を啜る。同じところを繰り返し何度か読み情報を頭に入れていく。紅茶を啜る。
「そうだ。どうしようか」
 自分から問いかけてなお、イルミはやはり書類から顔を上げない。「何が?」なので私も目を向けずにそう聞いた。「明後日から忙しくなるし、今晩にでもしておこうか?」最近してなかったでしょ、と彼は二の句を継いだ。「セックス」執事が手際よくティーカップに紅茶を注ぐ。
 私は「気分じゃないの」と答えた。彼は分かったとだけ言った。

 小さい頃に親から「あなたは、イルミくんと結婚するのよ」と言われた言葉は、たった一度だけしか言われていないはずなのに、それでも未だ心のなかを、頭のなかを、もしくは記憶のなかを侵してくる。あの頃の私にとって、それは最早ルールのようなものだったように思う。息をするだとか、人を殺すだとか、ご飯を食べるだとか、そう言ったもののなかの1つとして、イルミと結婚する、という1つとして、いつの間にか在ったように、思う。私は成長した。親の言うことがすべての子供では無くなった。私は自分で考えて、動いている。いつだって。
 本当に?
「それで、イルミくんとはどうするんだい」
 18才を迎えようとしていた私に、親は聞いた。ずっとずっと昔、イルミくんと結婚するのよ。そう言ったときのように、ごく自然な問いだった。明日の天気を聞くような。ほんのすこし先の予定を、尋ねるような。
「イルミに聞いてみるわ。結婚、しようって……」
 親に倣い、さも当然の如く私も振る舞ってみせた。明日の天気を答えるように。まるでそれが、もうほとんど決まっている、ほんのすこし先の予定だとでも言うように。
「イルミはさァ」
「うん?」
「私と結婚して良かったの?」
「今さらだな。良くなかったらしないだろ」
「そっか」
「どうしたの、って聞いたほうがいい?」
「ううん」
「そ」
 イルミは頷いて、再び私から目を離した。すぐ隣にいるはずのイルミから足音が全く聞こえてこないことが、私にはいつまで経っても不思議に思えてしまう。「お前にも早く暗歩を完璧にしてもらわなくちゃ」と言われ続けて、どれぐらいになるだろう。私の技術はまだまだ甘い。それでもイルミは呆れもせず怒りもせず、ただ「早く完璧にしてもらわなくちゃ」と言うだけなのだ。私は、いつか、完璧になれるのだろうか……。
 ウィンドウにディスプレイされている黒色のドレスを通りすがりに一瞥する。本当に一瞬だったにも関わらず、私の意識の先に気付いたらしいイルミは「執事に買わせておこうか?」と、もうほとんど通りすぎたドレスをチラリと見つめてそう聞いた。ううん、と私は答える。
「そう?じゃ、服はこの仕事が終わったらオレがプレゼントしてあげる」
「え。いいの?」
「いいよ。そう言えば今年の誕生日プレゼント、すっかり忘れてたし」
「気にしなくていいのに」
「夫婦だろ。親父はお袋に毎年指輪をあげててさ」
「そっか……だったら、私も指輪がいいな……」
「ふうん。それじゃあ指輪にするよ」
 イルミはそう言って一度頷いてみせた。それがなんだか、幸せだと思った。ああ、やっぱりこれは、自分の意思で選んだ、幸せなのだ。親の意思ではなく、自分で選んだ幸せなのだ。
 幸せなのだ。

 結局、私はイルミから指輪を受け取ることは無かった。結婚式で互いを束縛した、薬指の指輪以外には。
 ターゲットが2手に分かれた時点で、おかしいことなどイルミも私もとうに気がついていた。「オレはあっちね」分かれる際彼から油断するなよ、と念は押されていた。油断はしていなかった。これは純粋に、私の実力不足が巻き起こした結果だった。
 別に期待はしてないから。
 良かった、良かった、なんとか、仕事自体はやり遂げた。路地裏に転がる死体を跨ぎ歩く。イルミは大丈夫だろうか。戦闘の途中で無線が壊れて連絡が出来ない。目の前が霞んでいる。イルミは、大丈夫だろうか。近くの壁へと崩れるように凭れかかる。「大丈夫かな、イルミ……」自分の声はほとんど吐息のようで、浅い呼吸と見分けがつかないくらいにか細かった。「イルミは、大丈夫かな……」オレは平気だよ、と声が掛かったが、私の首は動かなかった。それだけの力がもうなかった。イルミの足が見える。私を覗くように屈む。彼の顔が見える。私の身体を、確認している。
「あーあ。もうダメっぽいな」
 イルミは私の膝裏と背中に腕をまわして、そのまま私を持ち上げて歩き出した。「仕事は片付いた。ねえ、葬式に要望ってある?」ないわ、と答える気力もなく静かにしているだけだったが、イルミは「ま、そうだよね。適当にやっておくよ」と答えた。私はまぶたで返事をした。そうしてくれと。
 そっか、私は、死ぬんだろうな。
 あまり怖くはなかった。実感が無いからだろうか。走馬灯を期待したが、頭のなかにはこれと言った思い出も何も、駆け回る気配はなさそうだった。あなたは、イルミくんと結婚するのよ。まるでそれだけしか覚えていないように、私の頭と心はその言葉に侵されている。あなたは、イルミくんと結婚するのよ……。私は本当に、自分の意思で彼と結婚したのだろうか。それとも、親の意思だったのだろうか。あなたは、イルミくんと結婚するのよ。……。
「イルミ」
 空気にほんの少し触れただけの私の声は、イルミの聴力でなら難なく聞き取れたらしかった。「どうしたの」と視線が交わる。これほど近くで目が合うなんて、なんだかセックスしているときのようだと、場に似合わないことを密かに思う。
「私と結婚して、良かった?」
 イルミはすぐに頷いた。それから「なかなか悪くなかったよ」と言った。彼の声は水のなかから聞こえてくるようにくぐもり、目はもうほとんど機能していなかった。
「さいごまで裏切らなかったしね、オレのこと」
 あなたは、イルミくんと結婚するのよ。
 私はそっとまぶたを閉じる。これで良いのだ。私も、あなたも。きっと。少なくとも、私は幸せだ。
 ああ、幸せだ。

※IDEA:うおずみさん(許可済)


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