少し重たい扉を押すと、錆付いたベルの響きに続きコーヒーの臭いが鼻腔を満たす。MOTOREのコーヒーはとても美味しいけれど、コーヒーカフェインアレルギーになってしまった私はいつもアッサムのミルクティーで我慢する。しかしそれもまた美味しくてたまらない。
 年季の入ったレジを打つマスターにお金を渡してから、味わうようにコーヒーの香りを堪能する時間が好きだ。それからミルクティーを受け取るまでの隙間に、ぼんやりと寛ぐ人たちをそれとなく眺めるのも楽しみの一つだったりする。お店のなかはいつだって数えられるほどの人の姿しかなく、なぜか誰も静かで、それがマスター自慢のステンドグラスと相まり教会にいるような錯覚に陥るときがある。聖書を読んだことも神を信じたこともないのに、強い力に跪けと背中を押されている気分になる。
 私は少しくらくらして、扉の近くに備えられた丸椅子に腰をかける。コーヒーの香りに隠れて、紙と紙とが微かにこすれ合う音がする。誰かが本でも読んでいるんだろうと思った。それが聖書などでは決してありませんように、という密やかな望みを肯定するようなタイミングでマスターが湯気の立つミルクティーを持ってくる。彼はいつだって私の全てを満足させるミルクティーを持ってくる。
「はい、お待たせ」
「待ってました。ん、良い匂い」
「そうだ昨日ニュース見たよ。今大注目の女博士だって」
「ウフフ、そんな柄じゃないんだけど」
「それと…」
 マスターは顔を寄せて声を潜める。だから、それが彼の話題であることはすぐに察しがついた。
「ホーキング博士、まだ見つからないんだって?気を落とさずにね」
「うん。いつもありがとマスター」
 アツアツのミルクティーを両手でそうっと持ち、少し重たい扉を背中で慎重に押して外へ出る。つい先日までアイスミルクティーを頼んでいたというのに、もう季節はすっかり冬に移り変わっている。寒さに負けないように、手のひらから伝わる暖かさを確かめながら口元へ持っていく。人ごみにまぎれて信号を渡る。仕事場へと向かう。
 私の毎日はこうして始まる。

「昨日の観測結果は?」
「あ、それなら今データ転送しました」
「ありがと」
 送られた資料をクリックして軽く目を通す。いつもと大差ない結果を確認しデータをとじると観測結果移行表を開いて、少しずつ文字を打っていく。
 窓から見える大きな湖は薄く凍り、伐採された草木は冬をよりいっそう惨めに飾る。湖を囲むように置かれた天体観測用の機器類は雪に濡れ所々が凍りついている。冬が覆うスクレ宇宙研究所の景色は、毎年いつだってどこか哀愁が漂う。
 私の仕事は代わり映えしない毎夜の天体観測結果の確認とグラフの作成、機械のメンテナンス、宇宙館の案内、それ以外の時間で、次回の研究発表会へむけた論文を書き進めることを許されていた。なかなか埋まらない余白が、はやく書きすすめなさいよとせかしているようで、私は意味のない文字の羅列を打ち、それからすぐに消してしまうのだった。そしてその度にいつも、ホーキング博士の消しゴムを擦る力強い音を思い出す。
 パソコンが苦手だった彼は、論文はもちろん、観測表、メールの代わりに手紙と、手書きであることに拘った。そして、間違いを訂正するときの、あの力強い、消しゴムの音…………。
「ナマエ博士、宇宙館の見学者です」
「わかった。すぐに行くわ」
 一つの単語も進んでいない論文に上書き保存をかけてパソコンを閉じる。一番下の引き出しの鍵が確かに掛かっていることを確認し、立ち上がる。
 子供向けに作られている宇宙館はそう広くはなく、週に一、二度見学者が来れば良いようなものだったが、博士号を持つ私が案内をしているという話が広まって以来、見学者は少しずつ増加傾向にあった。
 館内は「プラネタリウム」「宇宙ギャラリー」「地球外来コーナー」の3つのエリアに分かれ、そのなかでも宇宙ギャラリーは宇宙に関する絵画や私のものを含めた有名な論文が飾られているだけの地味な展示スペースなので子供からの人気は皆無だった。絵画はまだしも、わざわざ立ち止まって論文にまで目を通す人なんて記者か学者か、そうでなければただの物好きだけだ。
 子供に人気があるのはやはりというべきか、地球外来コーナーだった。隕石や成分不明の骨等が展示され、特に骨は宇宙人の骨かもしれない、という謎めいた魅力に包まれ、宇宙館のなかでは圧倒的な人気を誇っている。
 一時はブループラネット、という原石のような隕石が飾られていたらしいのだが、何でもどこかのお金持ちがいたく気に入ったようで隕石を丸々買い取ってしまった、らしい。私が研究所に入所するずっと以前の話なので残念ながら私は実物を見ていないが、割れ目から覗く青色の部分がまさに宝石のようで綺麗だったということをホーキング博士が言っていた。そして、その隕石で得た巨額の富でこの研究所が存続できているらしいことも。
 見学者の子供たちはプラネタリウムにすぐ飽きると宇宙ギャラリーをほとんど素通りして、やはり地球外来コーナーに興味を向けていた。男子2人組のうちの、キャップを被った浅黒い肌の男の子が以前母親と共に来ていたことを思い出す。
 2人は正体不明の骨を食い入るように見つめていた。私は論文の続きをあたまのなかで組み立てながら、2人の興味がはやく失われますようにと密かに願う。
「あれ、この前来たときより増えてる、ウチュージン!」
「そうなの?宇宙人の骨、今度はどこで見つかったの?」
 私は思わず笑いだしそうになった。宇宙人を信じる可愛らしい子供たちの頬を両手包んで、宇宙人なんていないのよ、と額を合わせたくもなかったが、全てをぐっと堪える。頭のなかに、いろいろなものが溢れてくる。コーヒーの匂い、論文の続き、ホーキング博士の、消しゴムの音……。
「とっても身近なところよ」
 私は答えた。溢れそうになるものを、一つずつ丁寧に仕舞いながら。

 
 同じ人だと何故思ったのか自分でもよく分からなかった。ただ、紙をめくる音の何かが、間違いなくこの間ここで本を読んでいた人であると、そんな謎めいた確信を持たせた。同時に、得体の知れない、あの正体不明の骨に対するような、ほんとに小さな不安を。
 不安はいつだって私を見ている。私はいつだってミルクティーにその不安を溶かして、飲み込んで忘れようとする。
「あの、ナマエ博士ですよね。テレビで観ました」
 今日の見学者はまだ10才にも満たない小さな女の子だった。色素の薄いそばかすをつけた、物静かな子供だった。天体物理学者を目指しているということもあってか、宇宙ギャラリーに飾ってある私の論文をとても熱心に読んでいる姿が瑞々しくて、思わず「内容はどう?」なんて聞いてしまう。彼女が申し訳なさそうに目を伏せる。私は聞いてしまったことを反省する。
「ごめんなさい、難しくって……」
「何も謝る事なんてないよ。どうせ誰も、わかってやしないんだから」
 彼女の様子を見つめながら、私は無意識に胸ポケットに仕舞いこんだ鍵へと手を当てている。大丈夫、いつだってここにあるのよ、と耳の傍で誰かの囁きが聞こえる。
 帰り支度をしているとき、いつかの警察がやってきた。1ヶ月前、ホーキング博士が行方不明になった日のことをもう一度聞いておきたいということだった。
「前回お話したことが全て、ですが」
「そのほかに何か思い出したことなどはありませんか?」
「……いえ」
 そう答えながら、私はあの日のことを思い出していた。最後にホーキング博士の姿を見たあの日、彼は私の論文を珍しく褒めると同時に、あの内容には残念ながら矛盾があると言った。私は手渡された手書きの論文を、震える手で受け取る。所々に強い力で消された消しゴムの跡が残っている。彼の机からはインスタントのコーヒーの匂いがしている。私は目の前の美しい論理に、頭を侵される……。

 
 研究所から電話が掛かってきたのは、ミルクティーのお会計をするために財布を取り出したときのことだった。
『いまどちらですか?』
「出勤途中だけど……何かあったの?」
『出来るだけ早く来てください!』
 要領の得ないまままま話は切れ、仕方が無いので注文をキャンセルし財布をしまう。気にしないで、とマスターが声をかけてくれる。私はごめんね、と眉を下げて微笑み、重たい扉へと引き返していく。
 いつものように紙と紙が擦れ合う音が聞こえてくる。その音が今日は何故か、いやに響いて聞こえるような気がした。鼓動がはやくなる。ふいに音が止まる。扉に近い席の男が私を見た。ブラックホールのように真っ黒な瞳をした、美しい男だった。
 研究所に到着したとき、私は叫びそうになる口を押さえ、すがりつくように机を撫でた。それから胸ポケットの鍵の存在を確かめた。
「朝来たときには、すでに……」
「……ほ、ほかの、机は……」
「いえ、ナマエ博士の机だけです」
 荒らされた自身の机の上なんかどうでもよかった。無造作に空いている一番下の引き出しに手を伸ばす。指先が微かに震える。呼吸が上手くできない。ない。ない。ない。ない!
 どうして!鍵はかけたのに!
 喉から言葉が今にも飛び出しそうになる。誰が盗ったの!あれを見たの!あれを、見てしまったの……。
「博士、何か大事なものでも……?」
「…………いえ。大事なものは、盗られていないわ、何も……」
 警察はすぐに駆けつけたが、あいにくこの研究所には監視カメラは付いておらず、近所の目撃証言もめぼしいものは得られなかった。何より研究所内に置いている金銭的価値のある品に全く手をつけられていない、ということから、私への悪質ないたずらだろうとすんなり話は片付けられてしまったのだ。
「本当に何も盗られてないんですね?」
「ええ……お騒がせしました」
 帰っていく警察官を呆然と見送る。入れ替わるように、1人の男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「大人1人。宇宙館の見学を」
 見間違うはずがない。今朝に見たばかりの、美しい男だった。
 男はプラネタリウムにも宇宙ギャラリーにも全くと言っていいほど興味を示さず、一定の速度を保ったまま、きわめて穏やかに歩き続けていた。
 地球外来コーナーに足を踏み入れる前、私の論文をほんの一瞬視界に入れた男は「キミの論文を読んだよ、ナマエ博士」宇宙館に入ってからはじめて言葉を発した。彼の声はまっすぐに私だけを貫いた。
「今までにない画期的な視点だった。本当に素晴らしかったよ」
 私はどうも、とだけ答えた。
「けれどそれと同時に、どうしても辻褄の合わない点が存在していることも確かだった」
 私は思わず足を止めた。男も歩みを止めた。奇しくもそれは、地球外来コーナーの骨が展示されている前だった。
 不吉だ、と直感した。紙を捲る音も、コーヒーの匂いも、男の眼差しも、全てが不吉だと思った。今朝、全てを見透かしたような瞳を私へ向けた、男の手にある、何か……。
「キミが捨てないでいてくれて良かった。お蔭ですっきりしたよ」
「そ、れは……」
「少し拝借した。荒らしてしまってすまなかったな」
 彼が手に持っているのは、紛れもなく、机の一番下の引き出しに閉まっておいたはずの、ホーキング博士の論文だった。
 
 最後にホーキング博士の姿を見たあの日、彼は私の論文を珍しく褒めると同時に、あの内容には残念ながら矛盾があると言った。私は手渡された手書きの論文を、震える手で受け取る。所々に強い力で消された消しゴムの跡が残っている。彼の机からはインスタントのコーヒーの匂いがしている。私は目の前の美しい論理に、頭を侵される……。
 ホーキング博士は、やはりアレを公表するつもりだったのだろうか、ときどきそんなことを考えてしまう。美しい論理を捻り出す脳も、それを文字と成す指先も、もう残っていないというのに。ああ、コーヒーの匂いがする。コーヒーと、死の匂いが混じっている……。
 男は骨を見つめていた。最近増えたばかりの、正体不明の骨を見つめていた。
「随分趣味の悪いものを展示しているんだな」
「見分けがつくのね、あなた」
 男は薄く口角を上げ、黙ったまま私にホーキング博士の論文を差し出した。これまでの私の全てを否定した、素晴らしい論理の塊を、私は震える全てで受け取る。これからの私の未来をも否定し絶望を与える存在であるはずのその論文を、私は赤子のようにそっと扱う。そうしなければいけないとでもいうように、まるで、聖書を敬う教徒のように。
「なぜ処分しなかったんだ?見つかるリスクが常につきまとうだろう?」
 男は聞いた。
「そうね。私が、研究者だからかしら」
 私はこたえた。それ以上でも、それ以下でもない、その場にもっとも相応しい答えであったと思う。
 ……いや、私が、本当に研究者ならば、この論文以上に、ホーキング博士を消すべきではなかったのだろうと、今更思う。論文を抱き寄せる。頭のなかに、いろいろなものが溢れてくる。コーヒーの匂い、首の感触、ホーキング博士の、息絶える音……。
 ああ、もう、つかれたな、と思った。私を守るために、自分が犯した全てに。コーヒーの匂いに。男の眼差しに。この、美しい論理に。
「公にするなりお好きにしたら」
 私はホーキング博士の論文を差し出しながら男に言ったが、男はもう、骨を見てなどいなかった。いつの間にか、出口へ向かって歩きだしていた。
「オレはね、キミの真実なんてどうでもいいんだよ。欲しいものを得ただけだ」


 少し重たい扉を押すと、錆付いたベルの響きに続きコーヒーの臭いが鼻腔を満たす。MOTOREのコーヒーはとても美味しいけれど、コーヒーカフェインアレルギーになってしまった私はいつもアッサムのミルクティーで我慢する。しかしそれもまた美味しくてたまらない。
 年季の入ったレジを打つマスターにお金を渡してから、味わうようにコーヒーの香りを堪能する時間が好きだ。それからミルクティーを受け取るまでの隙間に、ぼんやりと寛ぐ人たちをそれとなく眺めるのも楽しみの一つだったりする。お店のなかはいつだって数えられるほどの人の姿しかなく、なぜか誰も静かで、それがマスター自慢のステンドグラスと相まり教会にいるような錯覚に陥るときがある。聖書を読んだことも神を信じたこともないのに、強い力に跪けと背中を押されている気分になる。
 私は少しくらくらして、扉の近くに備えられた丸椅子に腰をかける。コーヒーの香りに隠れて、紙と紙とが微かにこすれ合う音がする。誰かが本でも読んでいるんだろうと思った。それがきっと聖書などでは決してないように、という密やかな願いを肯定するようなタイミングでマスターが湯気の立つミルクティーを持ってくる。彼はいつだって私の全てを満足させるミルクティーを持ってくる。
「はい、お待たせ」
「待ってました。ん、良い匂い」
「そうそう昨日のニュース見た?ノイスンで銀行強盗があったって……」
「物騒ね。うちの研究所も警備の強化をするって言ってるわ」
「それはいい。安心して研究に没頭できるね、ナマエ博士」
「もう、からかわないで」
 アツアツのミルクティーを両手でそうっと持ち、少し重たい扉を背中で慎重に押して外へ出る。今年の冬はいっそう寒さが厳しくて、このミルクティーがなければ凍りついてしまいそうだ。寒さに負けないように、手のひらから伝わる暖かさを確かめながら口元へ持っていく。人ごみにまぎれて信号を渡る。仕事場へと向かう。
 私の毎日はこうして始まる。


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