ときというのは私たちのことなんてお構いなしに、自分勝手に過ぎていく。
一体誰の言葉だっただろう。目の前に映るのは暖かく柔らかな水と溶け出した輪郭、幽かなイキシアの匂いだけだった。……

「どうしたの、ねェ、キルア!」
「え?あ、ああ」

 せっかく久しぶりに会えたのに私のことは放ったらかしなんて良い度胸じゃない、なんて悪戯そうに笑う彼女を思わず凝視すると同時に、何故か溢れて止まらない大粒の涙。やべ、なんで泣いてんだオレ。彼女は心底ビックリしたように慌ててハンカチを取り出すとオレの顔を強引に拭いてくれた。くそ、いいトシして恥ずかしい、そんなオレの羞恥心も彼女にとっては全くの問題外なのだろう。白いハンカチが涙でだんだんと濡れていく光景を――白い何かが濡れていく光景を――何故だろう。見たことある気がする。

「も〜心臓冷えたっつの。なによ私の言い方そんなに怖かった?」

 赤くなっているだろう頬をさすりながら、別に、と答える。何だよオレ、急に泣き出したりなんかして変なの。顎に残っていた雫を一滴、指でぬぐう。みず。無性に懐かしいと思った。懐古の情を抱くほど離れていたわけではないのに、そう、オレは確かに彼女を懐かしんで泣いたのだ。
 ハンカチを仕舞いながら不思議そうにオレの顔を見つめ、それからメニュー表をオレの前に差し出してニッカリと口角を上げる。彼女のこの勝ち気な笑顔をオレは結構好きだったりするが、ああ、確かムカつくから嫌いだと、兄貴はそんな事を言っていた。

「ハハーンさては女の子にでもフられたな?食べて忘れな、奢ってあげる」
「フられてねェわ!ふうん、今日は随分太っ腹なんだな」
「そうね今日だけ。特別」

 頼んでもいないウインクを送りつけてくる彼女はいつも通り。いつも通りじゃないのは彼女のセリフだ。今日は特別、何かあっただろうか。考えても頭にはそのトクベツな何かは浮かんでこなくて、だけど絶対的に何かがオカしいことにも気付いていて、それは例えばオレの涙だったり、彼女に抱く懐古だったり、白い何かだったり、水、だったり。

「適当に頼むから一緒に食べよ」

 店員を呼んで注文をする彼女の在り来たりな姿を見ているだけでどうしようもなく胸が締め付けられて、まるで水の中にいるみたいに息が出来なくなる。水。けれどオレはこの場所が妙に心地よくてもがくことをしないのだ。みず。出来ればこのままずうっと沈んで行きたい。ああでも酸素が無くなったら、オレはやっぱり死んでしまうのかな。口から逃げて行く気泡を茫然と見つめる。

「キルア。また自分の思考に沈んでいるの?」

 水面から顔を出して最初に見えたのは彼女の顔だった。精一杯に酸素を吸い込んだら、彼女へと大きく腕を伸ばす。伸ばした手のひらがいつもより大きく見えて、オレ、こんなに大きな手をしてたっけな、なんて。変なオレ。伸ばした先にある彼女の手よりも自分の手のひらの方が大きく見えて、得体の知れない恐怖がオレを浸食した。まるで。
 まるで長い間水に浸かっていたのかと錯覚するほど冷たい彼女の手がオレの手のひらをギュッと握りしめる。なーんだ、やっぱり見間違いだったんだと彼女の手のひらにすっぽり仕舞われた自身の右手。オレのてはまだまだこども。

「キルアの手はあったかいね。私、冷え性だから羨ましいな」
「子ども体温ってヤツじゃねェ?」
「フフ。もう子どもなんて」

 彼女は小さく笑いながら何かを言いかけてピタリとやめた。なんだよと開いた口が、聞くなよという脳に邪魔をされてすんなりと閉じてしまう。口をひらいたらゴポッと大きな泡が出ていきそうな気がした。水。彼女が口を開いた。泡。けれどその唇からあぶくが漏れ出すことは無かった。

「机いっぱい頼んじゃったね。食べきれる?」
「おまえなァ、もう少し考えて頼めよ」

 机いっぱいに並べられた白い花たちは、ああ、イキシアだ。水。凛とした小さな花弁が彼女の冷ややかな手のひらにソッと触れる。水。深く深く沈んでいく。息。水面が遠ざかって、水。ああオレ、溺れてんだ。やっぱり、ここは水の中なんだ。彼女はオレよりもずっと遠くまで沈んで、ひとりは淋しいと泣いている。待って、今すぐ隣に行くから。伸ばした手は何も掴めなかった。
「――ときは私たちのことなんてお構いなしに、自分勝手に過ぎていってしまったから」
 水。彼女は水。見えない場所まで沈んでしまった彼女に、オレは未だに手を伸ばし続ける。水。ゴバッと奇妙な音を立てて口から空気が漏れてゆく。息。たまらなくなって零れた涙が水に溶けて消えていく。
「もう忘れていいんだよ、キルア」
 ああ、水。どうして彼女は沈んでしまうのだろう。あの美しい眼差しを永遠に閉じ込めた馬渕も。水。二度とあの勝ち気な笑顔を作らないクチビルも。水。オレを撫でてくれた細く力強い指先も。水。
「おおきくなったね」
 ああ、水だ。どうしても彼女は沈んでしまうのだ。水。彼女の傍らにそっとイキシアを添える。あこがれとはつこい。彼女よりもずいぶん大人になってしまったオレのてのひら。
 ちょうどあの日の今日だった。沈んで行く、もう名前すら思い出せない彼女をいつまでも見送った、まだまだ子供だった、あの日に。




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